第六十四章 その二 死の大河
帝国情報部長官であるミッテルム・ラードは、南米基地北側に送り込んだ工作員達には、陽動だと告げなかった。パルチザンに捕らえられた工作員の救出あるいは殺害を指示しただけだ。
「帝国の情報が漏れるのを防ぐための潜入だ。隠密行動の必要はない。堂々と乗り込め」
ミッテルムは真実を隠して部下を送り込んだのである。そのため、工作員達は破壊活動を繰り返しながら、基地の中枢である司令部に向かっていた。
メキガテル・ドラコンとカラスムス・リリアス率いる迎撃部隊は、敵の潜入ルートを携帯端末で確認しながら進んでいた。工作員達が破ったのは基地北側の有刺鉄線と高圧電線が張り巡らされた場所だ。
「敵は重装備はしていないようだが、油断はするな。何しろここは元々帝国の基地だったんだからな。我々がまだ発見していない潜入箇所があるかも知れない」
メキガテルは部隊全体に無線で指示した。隊はメキガテルとリリアスの小隊に別れ、別々に敵に接近していた。
アフリカ州で帝国に反旗を翻したタムラカス・エッドスは東アジア州帝国軍司令官のエメラズ・ゲーマインハフトと会うために武装解除し、彼が待つ部隊へとたった一人でホバーバギーで向かっていた。ゲーマインハフトの罠とも知らずに。
(ザンバースが受け入れるとは思わなかったな。意外に甘いのか?)
エッドスは逆転劇を思い描き、ほくそ笑んだ。
ゲーマインハフトは、エッドスが本当に単身で自分のところに向かっているのを知り、彼を哀れんだ。
「やっぱりバカだねえ、あいつは。私なら絶対に一人でなんか来ないよ」
ゲーマインハフトは酒の入ったグラスを掲げ、
「愚かなエッドスに乾杯」
と言い、ニヤリとした。
「エッドスは私が直接射殺する。手出しするな」
彼は通信機にそう命じた。
一方、帝国科学局の一団は、南米最大の河川であるネメス河畔で機材を組み上げていた。毒薬課が造り出した毒薬を培養し、ネメスに流入するためのポンプである。小型であるが、高出力で、二時間で五十トンの毒薬をネメスに流し込める。ネメスの水をポンプに通し、触媒に触れさせるだけで毒へと変化する仕組みなのだ。だから、動かせば動かすだけ、毒の量は増え続ける。
「急げ。敵に気づかれれば、我々は丸腰同然だから、全滅するぞ」
課長のカラカス・サンドラは忙しなく手にした端末でデータを調べ、河川の水量を計算していた。
(大帝は令嬢の生命の危険をお考えではないのか?)
サンドラには娘が一人いる。まだ五歳だが、彼女のためなら帝国でも裏切れるし、命も惜しくはない。だからこそ、ザンバースが一人娘のレーアがいる可能性が高い南米のアマズーネ地方区で毒薬作戦を展開するように命じた時、耳を疑ったのだ。
(自分の娘を死の危険に晒しても、この戦争に勝つおつもりなのか?)
サンドラにはザンバースの考えが理解できなかった。
「セット完了です、課長」
部下が告げた。サンドラは我に返り、
「そうか。では、撤収する」
サンドラは部下達を急き立てるように動き出す。
(もうすぐこの川は死の川と呼ばれるようになる)
一団は逃げるようにその場を去って行った。まるでその結果を見るのが恐ろしいかのように。
レーア達は司令室でメキガテル達からの連絡を待っていた。
「イスター、タイタス、ちょっといい?」
レーアが小声で二人を呼び、司令室から出て行く。その様子を見て、ザラリンド・カメリスとアイシドス・エスタンが目配せし合った。
「何だよ、レーア?」
レーアに呼ばれたので、彼女に密かに思いを寄せているタイタスはドキドキしていた。
「これから、誤情報が流れるわ。その時、不審な動きをした人がいたら、取り押さえて」
「え?」
イスターとタイタスは顔を見合わせてからもう一度レーアを見た。
「どういう事だよ?」
タイタスが辺りを窺いながら尋ねる。レーアは二人に顔を近づけて、
「スパイを燻り出すの」
「ス、スパイ?」
イスターが驚く。タイタスはレーアの顔が近過ぎてそれどころではないほど鼓動が高まっていた。
(何かレーア、前より奇麗になった気がする……)
女は恋をすると美しくなる。何百年も語り継がれている俗説だが、タイタスはそれを思い出して落ち込みそうになった。
(相手はもしかして、あのメキガテル・ドラコンか?)
見るからに精悍そうで、しかもあのナスカート・ラシッドと違ってスケベでもない。何より悲しいのは、レーアの方がメキガテルに気があるらしい事だ。タイタスはもう少しで叫びそうになったが、何とか思い留まった。
「廊下の角に隠れて、その人が司令室を飛び出して来たら、確実に捕まえてよ」
レーアはイスターとタイタスの肩に手をかけ、真剣な表情で言った。
「わかった」
イスターは力強く応じたが、タイタスは呆けていた。しかしレーアはそれには気づかず、
「私は司令室に戻るね」
と言うと、手を振って行ってしまった。
「大丈夫か、タイタス?」
タイタスの異変に気づいたイスターが声をかける。
「だ、大丈夫だよ、イスター」
タイタスは苦笑いして応じた。
メキガテルの小隊は敵と遭遇し、銃撃戦になった。
(こいつら、何が目的だ?)
メキガテルは応戦しながら考えた。
(統率が取れていない戦い方だ。どういうつもりだ?)
メキガテルは敵の戦法に違和感を覚えていた。だが、その違和感の原因がわからない。
ミッテルムのところには、作戦終了の指示が補佐官の立場としてのタイト・ライカスから伝えられた。
「終了? どういう事です!?」
ミッテルムはテレビ電話のモニターのライカスに掴みかからんばかりに怒鳴った。
「理由をお前が知る必要はない。とにかく、部隊に撤退命令を出せ」
ライカスはそれだけ告げると通話を切ってしまった。
「くそ!」
ミッテルムは受話器を机の上に叩きつけた。受話器は跳ね上がり、そばにあったファイルにぶつかり、書類を散乱させた。
(畜生、この屈辱的な扱いは何だ!?)
ミッテルムはやり場のない怒りに震えていた。
ミッテルムは部隊に撤退命令を出したが、その時すでにメキガテルとリリアスの部隊が制圧していて、誰も返事をできる状態ではなかった。
「こいつら、何か迷いがあるような戦い方だったな?」
リリアスは銃撃戦で死んだ工作員の遺体を見下ろして呟いた。
「考えてみれば、こいつらも犠牲者なんだよな、ザンバースの……」
リリアスは彼らが天に召されるように祈った。
「妙な感じだったな、カラス」
メキガテルからの通信が入る。
「ああ。作戦を告げられずに戦っていた感じがしたぜ」
リリアスが応じる。
「俺もだ。どういう事なんだろうな?」
「わからねえな。ザンバースが考えている事はさ」
「そうだな」
リリアスは部下に命じて遺体の収容と負傷した工作員の拘束に当たらせた。
エッドスはゲーマインハフトの部隊の奥にある陣営に案内され、ゲーマインハフトと対面していた。
「結構元気そうだね、エッドス?」
ゲーマインハフトは椅子に座ったままで言った。エッドスは屈辱に塗れていたが、
「今回は感謝する、ゲーマインハフト」
と応じた。ゲーマインハフトは部下にグラスを持って来させた。
「あんたの帰還を祝っての祝杯だよ。飲んでくれ」
エッドスは怪訝そうな顔をしながらもグラスを受け取った。
「何だい、その顔は? 毒なんか入っていないよ、エッドス。そんなに私が信用できないかい?」
ゲーマインハフトは右の口角を吊り上げて尋ねる。エッドスはギクッとして、
「いや、そんなつもりはない」
彼は震えながらグラスを呷った。
「ほおら、何も入っていないだろ?」
ゲーマインハフトはゲラゲラ笑いながら言い、立ち上がった。エッドスは苦笑いして、
「あ、ああ……」
彼がグラスをゲーマインハフトの部下に返した次の瞬間、
「最後の酒は美味しかったかい、エッドス?」
ゲーマインハフトが構えた銃を撃っていた。
「ぐふ……」
銃弾はエッドスの腹部を貫き、地面に突き刺さった。
「どういう……?」
エッドスは膝を崩しながらゲーマインハフトを睨む。
「一度裏切ったあんたを大帝がお許しになる訳がないだろう? つくづくバカだねえ、あんたは!」
ゲーマインハフトは次にエッドスの眉間を撃ち抜いた。エッドスはそのままドオッと後ろに仰向けに倒れた。
「全軍、エッドスの賊軍を掃討せよ」
ゲーマインハフトの非情な指令が下され、武装解除をして指揮官の帰りを待っているエッドス軍にミサイルと砲弾の雨が降り注いだ。当然の事ながら、反撃の余地なく、エッドス軍は全滅した。
ザンバースはライカスを通じて、ゲーマインハフトがエッドス軍を壊滅させた事を知った。
「また一歩前進、か」
ザンバースはフッと笑い、椅子に身を沈めた。