第四十八章 その一 アイシドス・エスタン
月。
人類がその星に足跡を残してから、五百年余り。今では月は、地球とほぼ同一の住環境を有している。そのレベルになるまで、幾多の人命が失われたのは、言うまでもない。
(あれからどれほどの時間が過ぎたのだろうか?)
月支部の知事官邸の地下貯蔵庫を改装した監禁室。普通に暮らすにはそれほど不便を感じる事はないが、元地球連邦月支部知事のアイシドス・エスタンには、堪え難い場所だ。彼には、地球の情報は愚か、月支部の住民達の情報すら入って来ない。まだ連邦制が続いていた頃、住民のほとんどは、「赤い邪鬼」のテロを恐れて、その大半が地球へと逃げ出していた。今残っているのは、帝国軍の捕虜として業務に従事させられている元連邦職員達とその家族、そして警備隊から帝国軍へと所属を替えた者達だけだ。
(一体何が起こっているのだ? 少なくとも、もう数ヶ月は経過しているはず。連邦の総裁はどうなった? ザンバース君は……)
エスタンは、連邦が消滅した事も知らないし、ザンバース・ダスガーバン警備隊総軍司令官が地球帝国を復活させ、大帝になった事も知らない。
「私はどうする事もできないのか……」
エスタンは、決して十分とは言えない照明の下で、唯一手許に残された亡き妻の写真を見て、呟いた。
月基地に駐留している帝国軍は、レーア達のシャトルが向かっている事を探知していた。
「如何なさいますか、司令?」
副官が尋ねる。月基地の帝国軍の基地は今まで一度も戦闘をしていないため、皆安穏としていた。だから、パルチザン達のシャトルが向かっている事は脅威だった。
「うむ……」
司令は腕組みをして考え込んだ。彼の名は、アール・デボイ。元はシャトルのパイロットだ。地上にいるより月の方が安全と踏み、「赤い邪鬼作戦」に参加し、隊長を任ぜられた。そして、帝国復活と共に帝国軍月基地司令に任命された。所謂、「タナボタ」人事だ。
(反乱軍は、西ヨーロッパを制圧し、オセアニアを制圧し、南米を寝返らせた。どうする?)
デボイは戦闘経験は皆無だ。どうすれば良いのか、全くわからない。
「一任する。私は本部と連絡を取って来る」
「え?」
副官は、まさかそんな情けない言葉が返って来るとは思わず、唖然とした。デボイはそんな副官の様子を気にする事なく、司令室を出て行く。
(冗談ではない。私は戦争をするために月に来たのではない。戦争を回避するために来たのだ。一番安全だと思って、来たのだ)
デボイはイライラしながら、廊下を大股で歩いた。地球との重力の差に慣れるまで時間がかかったが、気を抜くとまだバランスを崩してしまう。
「わわ!」
踏み出した一歩が強かったため、彼は天井まで飛び上がってしまい、頭を強打した。
「くう!」
そして、地球よりゆっくりと床に落ちる。
(来なければ良かった……)
妻と別れ、離婚調停では子供の親権を失った。自棄になっていた時に舞い込んだ月への出向だったので、あまり考えなかった。今は後悔しかしていない。
(とにかく、本部に連絡して事情を話そう。私に戦闘指揮は無理だと)
彼は、帝国軍の司令長官のリタルエス・ダットスが死亡し、タイト・ライカス補佐官が兼任したのを知っている。
(ダットスのジジイならともかく、ライカス補佐官なら話を聞いてくれそうだ。それに私がこのままここの指揮官では、月基地は反乱軍の手に渡ってしまう)
うまい言い訳を考えたと、デボイはほくそ笑んだ。
そのタイト・ライカスは、デボイが使い物にならないのなど、ずっと以前に把握していた。
(反乱軍はもう一隊がデーラ達を追ったか。だとすると、レーアお嬢様の乗ったシャトルが、月に向かったという訳だな)
ライカスは秘書のカレンを見た。
「月基地に連絡を取ってくれ」
「はい」
カレンは素早くパソコンを操作し、通信を繋ぐ。
「こちら、月基地。デボイです」
パソコンのモニターにデボイが映る。あまりにも早い対応なので、カレンは一瞬呆気に取られたが、
「こちらタイト・ライカス補佐官の秘書のカレン・ミストランです。只今、補佐官と替わります」
カレンのその言葉に、デボイは運命を感じた。
(私が連絡する前に、補佐官からご連絡を頂けるとは……)
デボイは感激していた。
「ライカスだ」
ライカスは転送された映像をテレビ電話で受け、デボイに言った。
「何でありましょうか?」
デボイは敬礼をして尋ねた。ライカスはフッと笑って、
「反乱軍のシャトルがそちらに向かっているのは把握しているな?」
「はい」
デボイは心拍数が上がるのを感じた。
(やっぱり用件はそれか? どうなるのだ?)
「シャトルには、大帝の息女であらせられるレーア様がお乗りになっている。決して撃ち落とすな」
「はあ……」
デボイはがっかりしていた。
(そんな事のために連絡? 私だって、それくらいの配慮はできるぞ)
しかし、ライカスの次の言葉で、デボイは蒼ざめる。
「そして、君が月基地を死守するのだ。恐らく反乱軍は各地から増援部隊を派遣するはずだからな」
「え?」
基地を死守? 私が? 何かの間違いでしょ? 素人ですよ、私は。デボイは慌てて言った。
「し、しかし、補佐官、私は臨時でこちらに派遣された者です。戦闘経験は皆無で、指揮など到底執れません。ですから……」
ライカスはその言葉を聞き終わらないうちに、
「無論、増援は送る。しかし、どれほど急いでも一週間はかかる。その間は君に指揮を執ってもらうしかない」
「……」
デボイは何も言葉が出ない。
「頼んだぞ」
ライカスはデボイの返事を待たずに受話器を戻した。そして、もう一度カレンを見た。
「ミストラン君、頼みがあるのだが」
カレンはビクッとした。いつものライカスとトーンが違うのだ。カレンは声が震えそうになるのを必死で押さえ込み、ライカスを見た。
「何でしょうか?」
「アジバム・ドッテルと連絡をとり、彼が何をしようとしているのか、探って欲しい」
カレンはもう少しで叫びそうだった。
(まさか、まさか……)
彼女は、ライカスが何かを感づいていると思ってはいたが、ドッテルの名が出るとは思っていなかったのだ。
「どうしたのかね、ミストラン君?」
ライカスは不思議そうな顔でカレンを見ている。カレンは作り笑顔で、
「いえ、別に。何故私が、と思ったものですから」
と、何とかとぼけた。するとライカスは、
「おや、ドッテルと面識があると思っていたのだが、思い違いだったかね?」
と返して来た。カレンは卒倒しそうになった。
(どこまで掴んでいるの、ライカス?)
彼女はライカスの腹の内が読めず、恐ろしくなった。
デボイは、考えあぐねた末、銃を装備した兵を三人連れ、エスタンのところに行った。
「お久しぶりですね、知事」
デボイが言うと、エスタンはムッとして、
「もう私は知事ではないのだろう? それくらいの事はわかっているつもりだ」
「そうですか」
デボイは肩を竦めてみせた。そして、
「今、月にシャトルが向かっています。そのシャトルには、レーア・ダスガーバン様がお乗りです」
「レーアさんが?」
エスタンには、デボイが何を言いたいのかわからない。
「手っ取り早く話をしてしまうとですね。連邦制はすでに崩壊し、今はザンバース・ダスガーバン大帝の御世なのですよ」
デボイの言葉にエスタンは仰天した。
「何だって!? どういう事だ?」
デボイはそれを愉快そうに見て、
「どういう事も何も、そういう事ですよ。今、反乱軍が地球各地で我が帝国軍に無謀な戦いを挑んでいるのです」
「まさか……」
エスタンは、最初に警備隊の隊員が乗り込んで来て、ザンバースの指示だと言ったのをテロリスト達の方便だと思った。しかし、どうやら本当らしいのがわかって来た。
(エスタルト総裁の不安が的中してしまったのか……)
「それで、貴方の出番です。我々の楯となって、反乱軍の攻撃を防いで下さい」
デボイは、この数十分で変貌していた。自分の身を守るために。
「人間の楯になれという事か?」
エスタンは蔑むようにデボイを睨んだ。
レーア達の搭乗するシャトルは、カラスムス・リリアス達のシャトルと別れ、月を目指していた。
「月にはまだ、アイシドス・エスタン氏が監禁されているのですよね」
ザラリンド・カメリスが言った。レーアは頷いて、
「ええ。何としても助けないと」
「幸い月基地はそれほど重装備ではないらしいのがわかっている。地球からの増援が来ないうちに制圧しよう」
ナスカートが言った。
「ええ」
レーア達はシャトルのキャノピーの外に見える半月を見て応じた。