第2話 依存
ノエルは、その夜から眠れなくなった。
当然だ。 十歳の王女が「国を壊す」と囁いたのだ。
しかも理由は正義でも復讐でもない。 退屈だから。 面白そうだから。
そんな理由で世界を滅ぼす人間を、ノエルは知らない。 いや――前世も含めて、きっと誰も知らない。
だからノエルは、眠れなかった。
王女の寝室の隣。 メイド用の小さな部屋で、天井を見つめ続けた。
――あれは冗談だったのか? ――本気だったのか? ――もし本気なら、私はどうなる?
答えは分かっている。
戻れない。
聞いてしまった瞬間、もう終わりだ。 逃げても、密告しても、どちらにせよ消される。 王族の秘密を知った下女が、生き残れるわけがない。
なのに。
怖いはずなのに。
胸の奥が、妙に温かかった。
「特別よ」
そう言われた言葉が、毒みたいに残っている。
――特別。
ノエルは孤児だった。 誰にも名を呼ばれず、誰にも期待されず、誰にも必要とされない。 生きているだけで邪魔扱いされる世界を歩いてきた。
なのに、王女が言った。
「あなたは特別よ」
それだけで心が震える自分が、気持ち悪かった。
けれど、もう遅い。
ノエルは知ってしまった。
自分が、言葉ひとつで簡単に壊れる人間だということを。
翌朝。
ノエルはいつも通り、王女の部屋へ向かった。 足取りは静かで、表情は動かさず、心だけが騒がしい。
扉をノックする。
「エルミナ様。起床のお時間です」
返事はない。
ノエルは少しだけ迷い、扉を開けた。
寝台の上。 王女はすでに起きていた。 白い寝間着のまま、窓際で本を読んでいる。
視線はページから離れない。
まるで、ノエルが入ってきたことなど気づいていないかのように。
「……エルミナ様」
ノエルが呼んでも、王女は答えない。
視線を上げない。
息を吸う音すら、変わらない。
ノエルの胸が、冷たく沈んだ。
――昨日の夜、私は秘密を聞いた。 ――だから処分されるのか。
それとも。
――特別と言ったのは嘘だったのか。
喉の奥が詰まる。 唇が震える。
だが、ノエルは表情を変えないよう必死だった。 泣くことは許されない。 泣けば、弱さが露呈する。 弱さを見せた者は、必ず踏み潰される。
ノエルはそのルールを、孤児院で学んだ。
だから、耐えた。
「……失礼します」
静かに言い、部屋を出ようとした。
その瞬間。
「ノエル」
名前を呼ばれた。
背筋が凍る。 ノエルは振り返った。
王女はまだ本を見ている。 顔は動かさない。 しかし声だけが、確かにノエルを捕まえた。
「髪を結いなさい」
「……はい」
ノエルは近づく。
王女の背後に立ち、櫛を取る。 髪は絹のように滑らかで、冷たい光沢を持っていた。
ノエルは手を動かしながら思う。
――無視されていたわけじゃない。 ――必要な時だけ呼ぶ。
その事実に、胸が少し軽くなった。
そして、その軽さが、怖かった。
王女は鏡の中で、ノエルを見ている。 目は穏やかで、しかし底が見えない。
「ノエル」
「はい」
「昨日の話、覚えている?」
ノエルの指が止まりかけた。 だが止めない。 止めたら、動揺が伝わる。
「……覚えています」
「いい子」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
ノエルは自分が滑稽だと思った。 いい子と言われただけで、心が浮く。
犬と同じだ。
いや、犬よりも惨めかもしれない。
王女は淡々と続ける。
「あなたは賢いわね」 「賢いから、余計なことを考える」
ノエルは答えない。
答えられない。
王女の声は柔らかいのに、刃のように正確だった。
「心配しているでしょう」 「秘密を聞いたから、処分されるんじゃないかって」
ノエルの喉が鳴った。
言い当てられた。
「……はい」
絞り出すような返事。
王女は笑わない。 ただ、静かに言う。
「安心して」 「私は、あなたを捨てない」
ノエルは息を止めた。
その言葉は、救いだった。 しかし救いとは、同時に鎖だ。
王女は続ける。
「捨てない代わりに」 「裏切らないで」
ノエルは頷く。
頷くしかない。
王女はその反応を確認すると、ようやく本を閉じた。
「今日の予定は?」
ノエルは機械のように答える。
「午前は礼儀作法の講義、午後は剣術の稽古、夜は家族との晩餐です」
「そう」
王女は立ち上がり、窓の外を眺めた。
「家族ね」
その声に、微かな嫌悪が混じっていた。 それはほんの一瞬だったが、ノエルには分かった。
王女は、家族を嫌っている。
だがそれを隠している。
ノエルは背筋が冷たくなる。
――この人は、愛される顔をしている。 ――愛する顔をしていない。
王女は振り返った。
「ノエル」
「はい」
「あなた、友達はいる?」
唐突な質問だった。
ノエルは答えられなかった。
友達。 そんなものは存在しない。
孤児院では奪い合いだった。 王宮では序列だった。 誰も信じてはいけない。
信じた者が、最後に泣く。
「……いません」
王女は頷いた。
「そう」 「なら、あなたには私しかいない」
ノエルの胸が締めつけられた。
残酷な言葉なのに、優しく聞こえる。
王女は静かに歩き、ノエルの前に立った。
距離が近い。 息が触れるほど。
王女の瞳が、ノエルの中を覗き込む。
「ねえノエル」 「私のために生きなさい」
ノエルは何も言えない。
そんな命令、普通なら拒絶する。 人間として、拒絶するべきだ。
でもノエルは――拒絶できなかった。
だって、それは初めて与えられた「居場所」だったから。
王女は囁く。
「私の命令は簡単よ」 「私のそばにいること」 「私を見ていること」 「私を理解すること」
ノエルは震える。
理解する?
この王女を?
この王女は国を壊すと言った。 面白いからと言った。
理解できるわけがない。
なのに。
理解したいと思ってしまう。
その感情が、恐ろしかった。
王女は微笑んだ。
「大丈夫」 「あなたは、理解できる」
ノエルは、頷いた。
頷いてしまった。
それを見た王女は満足したように言った。
「よろしい」
そして王女は、再び何事もなかったように窓際へ戻った。
ノエルは立ち尽くした。
――今のは何だった?
優しさ? 命令? 脅迫?
全部だ。
ノエルは理解する。
王女は、わざと無視した。 わざと呼び止めた。 わざと救いを与えた。
恐怖と安心を交互に与えることで、人間は依存する。
孤児院の支配者がやっていたことと同じだ。
だが王女のそれは、洗練されすぎていた。
貴族の権力ではない。 暴力でもない。
ただ、言葉だけで人間を壊す。
ノエルは、唇を噛んだ。
怖い。 怖いのに。
心が離れない。
むしろ、近づきたい。
王女の隣にいることが、唯一の生存方法だと直感してしまう。
その直感は正しい。
そして、それが一番危険だった。
午後の剣術稽古。
王女は剣を握ると、別人のように動いた。
速い。 無駄がない。 美しい。
王女は木剣で騎士見習いを軽く打ち倒した。
「……は?」
倒れた少年が呆然とする。
王女は息も乱さず、剣を下げた。
「弱いわね」
その声は静かだった。
だが、周囲の騎士たちの顔色が変わる。 王女の実力が、本物だと分かったからだ。
ノエルはその光景を見て、理解した。
王女は遊んでいるのではない。
準備している。
国を壊すために必要な力を、十歳の時点で集めている。
そしてその中心に、自分がいる。
夜。
晩餐の席。
王族たちは優雅に食事をしながら会話を交わす。 国王は酒を飲み、王妃は微笑み、姉は貴族の噂話を語り、妹は菓子を喜ぶ。
王太子レクシオだけが、黙っていた。
彼の目は、ずっとエルミナを見ていた。
まるで測っている。
――こいつは何者だ、と。
エルミナは何も気づいていないふりをして、穏やかに食事を続けた。
ノエルは背後で控えながら、背筋が冷たくなるのを感じた。
この兄は、危険だ。
王女の仮面を見抜きかけている。
レクシオが口を開く。
「エルミナ」
「はい、兄上」
王女は完璧な笑顔で答える。
「最近、随分と落ち着いているな」 「何か、考えごとか?」
試している。 探っている。
王女は一瞬も迷わず言った。
「国のことを考えております」 「兄上のように、立派な王太子になれるように」
その答えは美しすぎた。 あまりにも正しい。
レクシオは微笑んだ。
しかし、その笑みは薄かった。
「そうか。嬉しいよ」
彼は杯を傾けた。
その仕草の中に、わずかな苛立ちが混じっていた。
――気づいている。
この王女は、普通ではないと。
晩餐が終わり、部屋へ戻る廊下。
ノエルは王女の後ろを歩きながら、震えていた。
王太子が気づけば、危険になる。 王女の計画は、まだ始まったばかりだ。
王女が立ち止まった。
ノエルも止まる。
王女は振り返らず、静かに言った。
「ノエル」
「はい」
「兄上は、私を疑っている」
ノエルは息を呑む。
王女は続けた。
「でも、まだ確信はない」 「確信を与えたら負け」
ノエルは恐る恐る聞いた。
「……どうするのですか」
王女は淡々と答える。
「もっと良い子を演じる」
それだけだった。
その答えはあまりにも簡単で、あまりにも恐ろしい。
ノエルは理解する。
この王女は、嘘をつくことを遊びだと思っている。
人を騙すことを、芸術だと思っている。
王女はゆっくり振り返った。
そしてノエルを見た。
「ねえノエル」 「あなたは、私を怖いと思う?」
ノエルは、答えられなかった。
怖い。 間違いなく怖い。
でもそれ以上に――離れられない。
ノエルは小さく言った。
「……怖いです」
王女は満足そうに頷いた。
「そう。それでいい」
そして一歩近づき、囁いた。
「怖がるなら、もっと私に近づきなさい」 「遠ざかると、あなたは壊れる」
ノエルの心臓が跳ねた。
王女は優しく微笑む。
「ほら、手を出して」
ノエルは、無意識に手を差し出した。
王女はその手を握った。
温かい。
そして、逃げられない。
ノエルの頭の中に、理解が落ちる。
この人は優しくしているのではない。 鎖を巻いているのだ。
でも鎖は、甘い。
王女は手を握ったまま言った。
「ノエル、あなたは私の影」 「影は主を裏切らない」
ノエルは、震えながら頷いた。
「……はい」
王女は笑った。
静かに、上品に。
「よろしい」
そして、手を離した。
ノエルはその瞬間、強烈な喪失感を覚えた。
握られていた方が安心する。 握られていないと不安になる。
――依存が完成しつつある。
ノエルは気づく。
自分はもう、王女の許可なしには呼吸すらできないような気がする。
それを恥だと思うべきなのに。
恥だと分かっているのに。
王女が振り返り、扉を開ける。
「さあ、明日も忙しいわよ」
ノエルは、後ろをついていく。
無意識に。 当然のように。
それが、最も恐ろしい。
部屋の灯りが消える直前、王女は小さく呟いた。
「最初の駒は、完成ね」
ノエルは聞こえた。
聞こえたのに、何も言わなかった。
言えなかった。
そして心の奥で、わずかに思ってしまった。
――私は駒でもいい。
この人のそばにいられるなら。
それがノエルの終わりであり、始まりだった。
王女エルミナ・ヴァレリオスは、微笑む。
退屈な王国を壊す遊びは、 まず一つ目の玩具を手に入れたことで、ようやく「面白く」なってきたのだから。




