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もう来るなと言われたけど、俺は先生の言葉を気にすることなく通い続けた。
高校を卒業して、大学を卒業して、社会人になっても通い続けた。
「おいおい、君。〝友達〟や〝恋人〟はいないのかい?」なんて、お兄さんに憐れまれたりもした。俺の名誉のために言っておくが、俺は友達も恋人もいた。恋人に関しては、「わたしのこと好きじゃないでしょ」って、毎回同じことを言われてフラれたけども。
どんどん見た目が変わっていく俺に対して、先生は出会ったころのまま変わらない。お兄さんが言っていたように、先生は本当に〝ひとでなし〟のようだ。あ、いや、見た目に関しては、先生の頭にはヤギみたいな角が生えてきた。
「いまさらきみに隠していても、意味がないからね。薬を作るのもめんどうくさいんだ」と、絶対に後者が本音だ。でも、角が生えても、先生のイケメンは損なわれないのだから世界は不公平だ。………少女の時から、先生の顔は整っていたもんな。悲しくなってきたから、忘れよう。
母親に結婚、孫とせっつかれる年齢になって、先生にだって「きみはいい人がいないのか?」なんて、本気で心配された。
「正直、誰かと付き合うよりここで買った本を読んで、先生と感想合戦してるほうが楽しいんですよね。だから、今は結婚、……の前に恋人を作る気がわかないですねえ」
「ひとりぼっちってやつは、思いのほか心にくるぜ」
「……想像できないですね」
本当は「実体験ですか?」って、デリカシーのないことを聞きそうになった。むしろ聞きたいまであるが、たぶん先生の隣にはお兄さんがいただろうし、ひとりぼっちではなかったはずだ。悶々と【俺がいない時間】を想像していれば、先生は午後の木洩れ日のように目を伏せ、角砂糖にも負けないぐらい甘く微笑んでいた。
「なあに、笑ってるんですか」
「気を悪くさせたなら、ごめんよ。ただ―――近い未来を想像して、ね」
「近い未来ですか?」
「ああ、そうさ」
それから先生は黙りこくって、俺から逃げるように本を読みだした。俺はなんだか腹が立って、先生へと近づいて、本を取り上げた。
「急にどうしたんだい?」
あまりにも白々しい。
「未来の事を考えるより、いまのことを考えません?」
ぽかん、と、幼い子どものような表情をした先生は、あの小さい塔の最上階にいた少女そっくりだ。月光のような綺麗だった髪だって、もみじのように小さかった手だって、鈴のような声だって、全部、全部全部失ったのに、変わらないんだ。
「それで? 具体的に〝いま〟の何を考えるんだい?」
「そうですねえ……。今日の茶菓子はバウムクーヘンにしますか? それとも、クッキーにします?」
「ああ、確かにそれは重要なことだ。ぼくはクッキーがいいと思うけど、きみはどうかな?」
「俺はバウムクーヘンがいいと思います」
「どうして?」
先生の問いに、俺は手土産として用意したバウムクーヘンを先生の前へ突き出した。先生は少し肩揺らしながら「きみが手土産を持ってくるなんてね」と小言を零すから、「俺と先生の仲ですからね」と返す。
「ぼくときみの仲って。……夢はいつか覚めるものだぜ」
「俺も先生も、夢の住人じゃあないですよ」
「―――かもね」
先生は、自爆するのが好きなのかもしれない。
「アールグレイのいい香りだ。ありがとう、さっそく切り分けてくるよ」
「どーいたしましてー」
今にも鼻歌を歌いそうな先生の背中は、俺より大きいのに可愛く見えるのは、俺が先生について知ってしまったからだろうか。
穏やかな毎日は、静かに終わりへと向かう。
始まれば終わりが来るのはあたりまえで、普通の事のはずなのに、俺はそんな簡単なことも忘れていた。
どんどん変化する周りの人間についていくのは大変で、置いていかれないように前に進んでいるのかわからないまま歩き続けた。いい大人なのに、思春期の少年少女のように必死で、泳いでいるのか、溺れているかもわからないまま月白書店へ逃げ込む。あそこは何も変わらない。せいぜい本が増えていくだけだ。いや、――――――あそこは俺の時間だけが進んでいた。安心できた場所が、それに気が付いたら悲しい場所に変わってしまった。
「最近、元気がないみたいだ。なにかあったのかい?」
「いいや、なにもないですよ」
「嘘じゃあないよな?」
「そんな嘘つかないですよ」
疑うような眼差し。
先生は気が付いていない。それはそうだ、先生は老いない。老いないから、私が年老いていることに気が付かない。
「ここに来るのが少し遅くなってきている。足でも悪くしたのかい?」
「単純に体力がなくなってきたんですよ」
肉体の全盛期はもう遠い過去。先生のように、すいすいと歩くことは私にはもうできない。いずれ立ち上がることもできなくなるかもしれない。立ち上がれない自分を想像して、あまりの屈辱感、悲壮感に涙がこぼれそうになる。……動けなくなったら、ここにも来ることができない。ああなんて、人生ってやつは毎日毎日、考えたくもないことが目の前に転がっているんだ!
残された時間がどれだけかなんてわからない。
できるなら後悔なんて、少ない方がいい。静かに本を読む先生はどんな名画よりも美しくて、――死ぬ最後の瞬間まで、その顔を見ていたい。なんて考える。一つ案が思い浮かんだ。年齢を重ねると図太くなるというか、図々しくなるというか。
「先生、ここに住んでいいですか?」
「―――へ?」
厚かましいお願いだって口に出すことができるようになるのだから、悪いことばかりじゃあない。
私の質問に首を傾げながら「部屋はあるから、別にいいけれど」と答える。「それじゃあ明日にでも、荷物を待ってきますね」と告げれば、「あ、ああ。わかったよ」なんて、珍しく困惑しているものだから、なんだか微笑ましくて、少しだけ愛らしかった。
それから本格的に月白書店に住み始めた私と、変な顔をしながら生活を受け入れた先生は織物を織るように、糸を一本、また一本と通して日常を編んでいく。
二人の間には笑っちゃうような永遠があった。
二人で暮らしてわかったことは、先生は食事が必要ないってこと。いや、食事だけじゃなくて、睡眠も必要ないし、性欲だってない。てか、性器がなかった。先生は本当に〝ひとでなし〟だった。
ひとでなしと、普通の人間の暮らしは、それなりに続いたし、楽しかった。
後悔を少なくするために、一緒に住んだのに後悔ばかりが募ってしまった。動かない体に嫌気がさし、唯一動く目をそろりと動かして、ベッド横に腰掛ける先生の横顔を見上げる。私の視線に気が付いた先生は、しおりを挟まずに読んでいた本を閉じた。わたしが心配する前に、顔をこちらに向けて続きを促す瞳には私が終ぞ諦めていたものがあった。
「ん? 水でも飲むかい?」
渇いている喉を無視して、首を横に振れば「そうかい」と軽かな返事が返ってきた。マシュマロのような柔らかな先生に手を伸ばそうとしても、自由に動かない腕を布団の下でもぞもぞ動かせば、何も言わずに先生は布団に手を突っ込んで、骨と皮しかない私の手を握る。私よりも温かな手のひらに、ささくれた気持ちが落ち着いていく。
先生はひとりごとのように、会話しているように話し出した。
「きみと暮らし始めて、もう八十年は経つのかな」
私からの返答は求めていない。
「ずいぶんと長い付き合いになったもんだ」
私の汚い手を、優しく撫でる。
「……きみに出会ってからの僕は、まるで夢の中にいるみたいだったんだぜ」
歌うように話す先生は、おとぎ話のヒロインみたいで可愛くて、可哀そうで、ああ、また、後悔が増えていく。
最後の力をふりしぼって、先生の手を握る。握れているかは、わからないけど。それでも、精一杯握りしめた。
「せんせいをひとりにして、ごめん」
聞くに堪えない私のしわがれた音に、先生は息を飲んだ。
それから卵白がメレンゲに変わっていく速度で、先生は頬を寄せる。
お互いの息遣いが聞こえる。
近くなった体に、先生の鼓動を感じる。
――すぅ。っと、先生が息を吸った。
「あの夜、きみと出会ってから、ずっとぼくは〝ひとり〟だったぜ」
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それでは、また会う日までさようなら!




