8
俺は走っていた。
誰もいない、街灯だけが頼りの暗い道を走っていた。人も、車も、街だって眠りについた真夜中に俺は、俺だけが走っていた。
突然に別れに驚く間もなく光に包まれ、目を開けたら懐かしささえ感じる自室の椅子に座っていた。反射で壁に掛けられた時計を見上げれば、長針と短針が重なり合っていた。
――時間が経ってない?
――夢だったのか?
怖かった。
でも、それ以上に知りたかった。なにもかも、教えてほしかった。何を隠していたのか、誰を待っていたのか、あの後どうしていたのか。本当に先生は、先生は――――――。
家を飛び出した。こんな夜中に外に出たことなんてない。警察がいたらどうしよう、怖い人がいたらどうしよう。たくさんの現実的な問題以上に、会いたかった。
見慣れたはずの、慣れない道を走って路地へ入っていく。街灯さえ消えた道を抜ければ、月白書店はあった。勢いを殺さず扉まで近づき、手をかける。鍵がかかっているなんて考えもしなかった。そのまま扉を乱暴に開ける。
「こんばんは―――乱暴に開けて、どうしんだい?」
俺が来ることをわかっていたのか、鍵は開いていた。先生が俺を待っていた。
走り続けた体は酸素を求め、俺は挨拶もできず膝に手をつき、ぜーぜーと呼吸を整える。走っている時は出なかったのに、今になって全身から汗が噴き出していく。疲労困憊の俺に先生は「ほら、ゆっくり息を吸って、ゆっくりと吐くんだよ」と指示を出す。なんとか呼吸を整えた俺に先生はコップを差し出した。
「ありがとうございます」と受け取って、ゆっくりと飲む。
落ち着けば落ち着くほど、何を話せばいいのかわからなくなっていく。走っているときは、いろいろ考えていたのに。だって、先生を見てしまうと、どうしても女の子と同じには見えないから、考えが喉から先に出ていかない。
「………ああ、きみは本当に」
静かな湖面に投げられた石のように放られた言葉に、俺の心はさざ波のように揺れた。
改めて先生の顔を見れば、つきさっき見た不格好とは違う、春の午後の風のように穏やかに微笑んでいた。
「久しぶり、です」
少しぎこちない俺の言葉に、「なんだい、その話し方は? いいんだぜ、昔のように気軽に話してくれて」なんて言うが無理だ。
少女と過ごした時間よりも、先生と過ごした時間の方が長い。見た目が違いすぎて、先生の言う〝気軽に話す〟は、今の俺にはできそうにもなかった。そもそも話し方で言えば、まったく違う話し方をするようになったようだ。
「先生は話し方、ずいぶんと変わりましたね」
「まあ、あの頃は話すのに慣れていなかったから。そもそも、ろくでなしに捧げられた生贄だったしね」
こともなさげに言い放つ先生は、自分が〝生贄〟であったことは深刻に、重く捉えてはいないようだ。俺からすればさっきまでのことだが、先生のからすれば大昔のことだし時間の経過によって心境の変化でもあったのだろうか? ……いやいや、出会った少女は言うほど生贄生活に不満も、不安もなさそうだったから、最初から気にしていなかったのかもしれない。
「さて、積もる話はお互いにあるけれど時間が時間だ」
「続きは、また明日にしよう」の言葉に俺は素直に「はい」と返した。だけど、もう真夜中であり、暗い中を帰るのかと辟易としていれば先生は少しだけ笑いながら話し出した。
「今から自分の家に帰れ、なんて言わないさ。きみさえよければ、今日はここに泊まっていくといい。部屋はあるから安心しなよ」
「え。泊っていいんですか??!」
「ああ、もちろんだよ」
先生は固まる俺の手を引いて、まるで秘密基地を案内するような悪戯っ子の表情をする。そして、上がったことのない二階への階段を一緒に上った。
本当は、もっと、たくさん、いろいろ話したいことがあった。気持ちが落ち着いてしまう前に、駆け足に動く鼓動にまさせて全てをぶちまけたかった。
「それじゃあ、おやすみ。―――いい夢を」
子守歌のような音に、俺は抗うことなんてできずに、意識が暗い方へ落ちていった。
コンッ! ココンッ! コンッ!
リズミカルなノックの音で、瞼がわずかに上がった。薄い世界の天井を、ぼんやりと眺める。
「起きているかい?」
ドアの向こうから微かに聞こえた声に、慌てて布団を蹴り飛ばし、ベッドから飛び起きた。あまりにも、ガタガタバッタンとうるさかったのか、扉の向こうで「ゆっくり下りてくるといいさ」と愉快そうに扉の前からいなくなった先生は、機嫌がよさそうだ。
先生の言葉に甘え、ゆっくり一階に下りれば、紅茶の穏やかな香りがふわっと漂っていた。
「おはよう」
「お、はようございます」
「まだ、起きてはいないのかな?」と、首を傾げる先生は、何度見ても少女の面影なんてなかった。
それから、先生と朝食を食べた。当たり障りのない、上辺だけの会話。お互いの距離を測っているヤマアラシのような俺たちは、なんて臆病なんだろう。
「……どこから話そうか」
そう切り出した先生の言葉を皮切りに、お互いの口がするすると勝手に動いていった。俺に関しては、どうもこうもないので話すことなんてなかったけれど、先生は俺がいなくなったあとの話をしてくれた。
遠い昔を思い出す二つの瞳は、どこか楽しそうだ。ずいぶんと長い時間を生きてきたらしい。この書店を開くのも大変だったこととか、お兄さんは昔から今もずっと〝ろくでなし〟であるとか。
「まあ、いろいろあったけれども――――――また会えてよかった」
その言葉にすべてが詰まっていたように思う。
ぽつぽつと、話してから俺は月白書店を出た。
「もうここには来ない方がいいぜ」
俺を見ることなく投げられた言葉は、寂しそうであった。
寂しくなるぐらいなら、いっそ「また来てね」って言えばいいのに。なんて思っても、先生は認めないんだろうな。




