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「―――っ! ――――!」
誰かが遠くから、水底にいる俺に叫んでいる。
あぁ、これは夢だ。
だって俺は、水中で息なんてできない。誰かが俺を呼んでいる。誰かわからないのに、俺は必死に水面に向かって手を伸ばす。
水面に指が触れた瞬間、水は飴色にとろりと変わり、光が弾けたと思えば、目の前には彼女がいた。
「ぁ、おきた?」
起きていることを確認するように、俺の目の前で小さい手をふる少女は心配そうな、それと覚悟を決めた表情をしていた。
「おきたならたって」
急かすように腕を引っ張る少女に、なにがなんだかわからないまま立ち上がる。初めて見る鋭利な横顔に、ただ事ではないことだけがわかるが、それ以外はわからない。聞くにも聞けそうにない空気に、俺はただ視線を彷徨わせる。
「やあ、遥かなる未来から来たお客人! 突然だけれども〝時〟が来たようだ!」
どこからともなく現れたお兄さんは、まるでミュージカル映画のように歌いだしそうなステップを踏みながら近づいてきた。突然の登場に驚く間もなく、俺の両手を握りしめ「さあて、準備はいいかい?」と、人気アイドルのような気軽いファンサのようなウインクに俺は――うわ、顔がいい。なんて流されそうなる。
「って、なんなんですかいきなり!」
腕を振り払いたくて上下に揺らしてみても、びくともしない。むしろ腕を掴んでいる手に力が入った。けれど不思議と痛くはない。
「おっと、それはできない相談だ。なにせ、キミは今から戻るのだから」
「は………。はあ??」
俺はまだ『帰りたい』なんて思っていない。いったい誰と誰の需要が合ったんだ。俺の疑問を解消するように、お兄さんが口を開いた。
「誰かなんてわかりきっているはずだろう? キミを望み、キミを愛した者の需要が合ったのさ。―――さあ! いつだって、なんだって、どんなものだって突然訪れる! もうキミを止めておく事は私にはできない、言いたいことがあるのなら今のうちに、だ」
突然そんなこと言われても、言葉なんて出てこない。
それでも、なにかを求めるように彼女の姿を探せば、彼女はいつもの無表情で俺を見ていた。無表情であるが、そこには憂いも、悲しみもなく、なにかを決意したらしい瞳に捕まって、俺の体はギシリと固まる。喉がどんどん渇いていき、なにかを言いたいのに「さようなら」の言葉だって口から出やしない。
不甲斐ない俺を置いて、彼女は口を開いた。
「―――また、みらいで」
そう言って、ぎこちなく口角を上げる少女に俺は――――――。
「――――――っ!」
やっぱり、なにも言えないまま、光に包まれてその不器用な笑顔を最後まで見ることができなかった。
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青年がいなくなった塔の中。
影も、形もなくなった青年を見送った少女は〝ろくでなし〟へと向きなおる。青年は気づいていなかったが、塔の外がやけに騒がしい。一人と一体は、わかっていた。気が付いていた。このまま、ここにいたら彼は傷ついてしまう。
「もういいだろう?」
その問いかけに首を縦に動かす。
少女の行動に、嬉しそうに、幸せそうに微笑むろくでなしは、恭しく少女へ頭を下げる。まるで、それは劇の始まりのようで、終わりのようであった。
近づいてくる複数人の足音を聞きながら、ろくでなしは顔をあげた。
「さあ! 私の、私だけのあなた! 愛おしいあなただけの願いを、どうか私に聞かせておくれ!」
大げさに少女の手を取り、ゆったりとした動作で傅いた。
少女の答えを静かに待つ。
永遠のような、刹那のような、愛が詰まった時間は終わる。
「わたしを、――――――どうか、わたしを〝ひとでなし〟にして」
ああ、いつぶりかの純粋な願いに、それの無いはずの心の瓶が満たされていく。
柔らかく目尻を下げたそれは、立ち上がり、少女を見下ろす。これでもかというほど顔を近づけ、お互いの呼吸音だけが聞こえる。
「後悔しないかい」
「ええ、まったく」
迷いだって感じない少女の音に、それは楽しそうに笑った。
「―――いいとも!」
それの了承の言葉ともに、少女は浮かび上がる。月の光のように美しい白髪は、毛先から墨を流し込んだように重い黒色へ変わっていく。変わっていくのは髪色だけではなく、確かに少女であったはずの身体は、醜い音を立てながら〝成長〟していく。変化していく痛みから、体を守るように蹲る。そして声を上げまいと下唇を噛み締め耐える。もみじのような小さな手は、大きな手へ。自分の体を支えるのでやっとだった足は、しっかりと立てるように大きくなった。短い胴も、足も伸びた。少女の体は、紛うことなく成人男性へと変貌していた。極めつけは、側頭部からヤギに似た角が生えていた。
「……いたい」
自分の喉から出た聞いたことのない低い音に、驚きのあまり口を押えた少女基ひとでなしを見てろくでなしはケラケラと笑う。小馬鹿したような表情に、ムっ、と眉を寄せながら、自分の体を確かめるように立つ。
少女から、成人男性へと大きさを変え、角だって生えたが大きく人間から外れてはいない。……角が邪魔だ。
「なあに、ひとでなしになるからといっても、人間の見た目から大きく変わるわけじゃあない。私だって人間ではないけど、人間そっくりだろ?」
「たしかに」
「それにしても、まさかこういう結果になるとは」
まじまじとひとでなしを見て、感慨深げに首を傾げるひとでなし。なにをそんな考えているのか質問しようとしたが、それを許さない者たちがやってきたため、ひとでなしは檻の外へ視線をずらす。ああ、足音がそこまで来ている。
「逃げてしまおうか」
「どうやって?」
「キミはもう人間じゃあないし、私だって人間じゃあない。人間から逃げるなんて楽勝さ」
あぁ、確かに。と納得したひとでなしは、ろくでなしとともに塔の中から、夢から覚めるように消えた。
逃げた先で二体は、おとぎ話の終わりのような生活をしていた。
小さな塔から飛び出し、小さな家屋で暮らしていた。
「あ、そうだ。忘れていたよ」
ろくでなしの言葉と、ひとでなしが角を落とす薬を完成させたのは同時だった。視線だけで、ろくでなしの話を促せば、がさごそと動いた後に、一冊のノートを出した。明らかに時代が違うノートを見て、ひとでなしは目を細める。
「ああ、お察しのとおりさ。このノートは遥かなる未来からのお客人の物さ。どうやら、一緒にやってきたみたいでね。返すのを忘れていたよ」
「あはははは」なんて、反省のはの字もない笑い声に、ろくでなしは溜息を吐き出した。
「それで、ぼくにどうしろって?」
「ノートは好きにするといいさ。坊ちゃんとの記憶を忘れないように日記にしてもいい、新品のまま保管は難しいが、使わずにしまっておいてもいい。―――それか、物語を綴るもいいだろうね!」
「はあ。とにかく、このノートはぼくが預かっておくよ」
「坊ちゃんとの大切な〝縁〟だ」
「わかっている。………会うために使うなら、彼だって許してくれるだろう」
さあ、遥かなる未来を目指していこう――――――。




