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ゆさゆさと揺れる体に、固い床で寝たせいかバキバキの体が悲鳴を上げる。
「ぅう……いた、いたい……」
うめき声を上げながら目を開ければ、二次元から飛び出してきたような少女が、ドアップで映る。俺を完全に起こすために、激しく体を横に揺らす。
「おきて、おきてください」
「痛い痛い! 痛いから! おきた、起きました! はい!」
起きたことを証明するために、冷たい床から体を起こす。
確認するように周りを見渡せば、昨日最後に見た光景と寸分違わず同じだった。床の冷たさが、これは現実だと教えてくれる。
少女を見れば、飾られる人形と同じようにそこにいた。
「おはよう……、ございます?」
「えっと、おはよう」
慣れない挨拶のやりとりに、少女の纏う空気は嬉しそうだ。生贄と紹介されるぐらいだ。他人とのやりとりなんてしてこなかったんだろう。てか、生贄て。雨乞いでもしてるのか? いやいや、どう考えたって、お兄さんに雨を降らせることはできないだろう。知らんけど。
「やあやあ! お二人さん、早起きだねえ」
軽快に、軽薄とともに、お兄さんは現れた。
「さて、未来からのお客人」
「なんです?」
「今日は外に出ようか。なあに、私が一緒なら大丈夫だとも!」
揚々と朝から一人で騒がしいお兄さんに、隣の少女は反応を返さない。返さないというか、慣れすぎて微動だにしてないだけなのか?
俺が少女を見ていたからか、お兄さんは「彼女はここにいるほうが安全だから、連れて行けないよ」と先回りをする。
「この場所の方が安全って、どういうことですか?」
「ま、彼女は生贄だからねえ。捧げたはずの人間が生きていたら、大変なことだろう?」
「それは、……そうなのか?」
捧げた人たちからは、死んだと思われているのか。それはちょっと、あまりにも可哀そうじゃないか。俺がどれだけ可哀そうとか、なんとかしたいって思っても、それでも彼女はここから出ないのだから、考えても無駄だ。無駄だってわかっているのに考えてしまうのは、どうしてなのだろうか。
「ほらほら、行くぞう! はやく外に出た給えよ!」
促されるまま檻から出れば、くん、と、服の裾を引っ張られた。振り返れば檻の隙間から、短く、小さな手が俺の服の裾を掴んでいた。大して力は入っていないから、簡単に振りほどけるだろう。振りほどけるはずなのに、体が氷のようにカチコチに動かせなくなる。伺うように服を掴む彼女の表情を見れば、やはり無表情であった。でも、その無表情の中に寂しさがある、と勝手に思い込んでしまうのは、俺のそうであってほしい。という願望なのかもしれない。
「えっと、また戻ってくるからさ、手を放してくれないかな?」
へらり、と笑えば、なにか気に食わなかったのか余計に力が入る。なんで??
「おーい! キミはいいけれども、そこのお客人には、なにか食べるものも必要だろう? だから、放してあげなさい」
どこか咎めるような声に、少女の手はするり、と、いとも簡単に離れた。
「………ほんとうに?」
俺が答える前に、お兄さんが先に口を開いた。
「私が嘘を言ったことがあったかい?」
「あった」
「あちゃ~~~」
あまりの速さに、俺は苦笑いしかできなかった。なにより、相当その時のことを根に持っているのか、その目は日本刀のような薄く、細く、研ぎ澄まされた鋭さを放っていた。
「行く場所もないし、ちゃんと戻ってくるよ」
視線を合わせて、和ませるように笑う。そうすると何か言いたそうに口をもごもごと動かし始めたから、お兄さんに助け求めればニヤニヤと嫌らしく笑っていた。
「いや……。なんですか、その笑い方」
「いやいや、随分と懐かれたものだねぇ! キミも素直に言ったらいいじゃあないか。――――――別の場所が見つかったら、檻にはいてくれないのか? ってね」
そうか。
普通に考えれば、檻よりいい場所なんてたくさんあるだろう。そしたら、来ないって考えるのは普通だ。そう思うってことは、彼女も本当はここにはいたくないのだろうか? ここから出ないのは、生贄としての責任からなのだろうか。
なにも話さない俺に対して、彼女の二つの瞳が静かに揺れる。少しでも安心感与えられるように、にこり、と笑う。
「大丈夫。俺はちゃんと檻に戻ってくる、約束する」
「………そのことば、しんじます」
しんじます。という言葉が、こんなにも重たいことがあっただろうか。
「そこのお二人さん、いつまでやっているんだい? 今生の別れになるわけじゃあないんだ、もういいだろう」
「いまおわったところです」
ムッと、しながら答えた少女は、頑なに放さなかった手を放した。
ちゃんと手が放れたことを確認したお兄さんは、「それじゃあ、行こうか」と改めて歩き出した。その背を追って歩くが、後ろ髪を引かれるというのは、なんとも心の柔らかな場所がぞわざわするものだと初めて知った。
「キミは全然気づいていないから言っておくけど、ここは最上階なんだ」
「さいじょうかい?」
「そう、最上階」
彼女がいた檻の部屋? 部屋でいいのか? まぁ、部屋から出れば、ゲームの城ダンジョンにありがちな、螺旋階段が静かに俺を待ち構えていた。そっと下を覗き見れば、出入り口に扉は無いのか外からの光が、扉の形を模りながら床を照らしているのがなんとか見える。……なんて興味をそらしてみても、体はその高さに唾を飲み込み、足を震わせた。
「ここから落ちると死んでしまうからね。気を付けて下り給へ」
ステップを踏むように、跳ねながら降りるお兄さんにドン引きしながら壁伝いに階段を下りていく。落下防止も兼ねた手すりなど存在していない階段は、ただただ恐怖だった。命の保証がない分、遊園地の絶叫マシンよりも怖かったかもしれない。
ぐるぐる、ぐるぐると続く螺旋階段を無事に下りれば、お兄さんが入り口に立って、俺を待っていた。
「よし、来たね! それじゃあ、まずはキミの朝ご飯を調達しようか。昨夜もなんも食べていないだろう?」
「はあ……。ありがとうございます」
お腹もすいているが、今は飲み物がほしい。螺旋階段は下りにくいし、だんだん気持ち悪くなってくるし、手すりが無くて神経を擦り減らしたし、階段ということもあって、もう少しちゃんとした地面に慣れてから動きたい。
「ほらほらあ! 置いて行ってしまうよ!」と、お兄さんの催促に、溜息も、不安も不満も、飲み込んで「今行きます」と期待を吐き出した。
ずっと理解ができていなかったんだ。
過去という異世界に来てしまった事実も、生贄としてお兄さんに捧げられた少女も、魔法使いみたいなお兄さんも、なにもかも現実だったはずなのに、どこか夢だと思っていた。目が覚めたら忘れてしまうような、そんな取るに足らない夢だと信じていた。
眼前に広がる鬱蒼とした森、振り返れば寂しいレンガ造りの塔が聳え立っている。思い出に忘れ去られたような仄暗い場所だった。頬を撫ぜるように通り抜ける風に、ぶるり、と体が震えた。
「ん~~。朝だから木の実でもいいかい?」
「あ、はい、大丈夫です」
木の実なんて食べたことはない、なんてことはないのだが生かあ。贅沢なことを言える立場でもなければ、言える時代でもないのだろう。
「あはははっ! なあに、そんな覚悟を決めたような顔をしないでくれ給へよ!」
お腹を抱えながら、ひー、ひー、と笑うお兄さんは俺を置いて「ついてきなさい、この先に川があるんだ」と一人で歩き出した。……木の実は嘘ってこと?
とにもかくにも、歩き出したお兄さんの後を再びついていけば言葉通り川があった。遠くから見ても、その水面は美しく、おとぎ話に出てきそうであった。
「ここの水は美味しいし、魚もいるからね! キミにはタンパク質が必要だろう?」
茶目っ気にウインクを飛ばしてくるお兄さんに、舌打ちをしたくなったが無視をして川に近づいた。後ろで「あれれぇ……。キミも私を無視するのかーい?」と聞こえるが、聞こえなかったことにしよう。
「もしかして、私のあまりの美貌に照れてしまったのかな? あぁ! それならば、なんて私は罪深いのだろうか! おぉ、我が創造主よ! 未来からのお客人までをも虜にしてしまう、罪深い私を許し給へ!」
後ろで一人舞台を始めたお兄さんを無視し、水面に触れる。頬を叩かれたような冷たさに、違った意味で疲れが吹き飛んでいく。両手で掬って、そっと飲む。
――うまい。
比べるものではないとわかっているが、水道水よりうまい。というか、うまい水には味がある。口の中に残ることのない、爽やかなのど越し。これはクセになりそうだ。
「さあて、どれだけかかっているかな」
歌うように川に近づいてきたお兄さんは、躊躇いなく川に手を突っ込んだ。
「実は昨日、罠を仕掛けておいたのさ」
「あ、あったあった。――――――よいこらしょっ!」なんて、少し聞きなれない掛け声ともに、川から出したのは竹のようなもので編まれた籠であった。中からビチビチビチッ! と、激しい音が聞こえてくる。
「おっもいなぁ。少し逃がそうか、キミもたくさんは食べられないだろう?」
「食べれても二匹ですかね?」
「小食過ぎないかい? せめて五匹は食べたほうがいいと思うなあ」
「ご、五匹ですか?」
「えっ……? まぁ、五匹は多めに言ったが、四匹は食べると思っていたよ」
「多めに、って」
実際に予想していた量と、さして変わらないことに気が付いていないのだろうか。
「いやいや、キミが二匹で満足するならいいんだ。捕りすぎもよくないからね」
そう言いながら、籠の中の魚を一匹ずつ放流していく。
「お兄さんは、食べないんですか?」
「あぁ、私はこういったもの食べられないんだ。私の食事は違うものだから、気にしないでおくれ」
こちらを見ることなく告げられた言葉は、わかりやすく拒絶を含んでいた。それから俺は何も言えなくて、口を閉じた。お兄さんが何を考えているのか、そもそも何者なのかも知らない。……いや、薄々人間じゃないってことは、わかっていたけどもさ。
「……味がわからなくても、意味がなくても、嘘でも食べているフリができれば、よかったのだけどね」
寂しそうに話す口調とは別に、その横顔はあまりにも鋭かった。
「さて、と。それじゃあ、生のままじゃあ食べられなかったよね? 調理方法は加熱でいいかな?」
「はい、お願いします」
先ほどまでの鋭かった横顔は夢のように霧散して消えた。テキパキと焚火の準備をするお兄さんは、何か思い出したように俺を見た。
「せっかくの機会だ。いつまでここにいるのかわからないし、火の点けたぐらい覚えるといいさ」
お兄さんの言うことは、最もだと思い「最低限のサバイバルを教えてください」と、教えを乞うとしたとき――――――。
「教えるのめんどくさいから、点けてしまうね」
そんな言葉とともに、いつのまにか集められた枯れ枝に火が点いた。ゆらゆらと揺らめく橙色の炎は、俺の微妙な気持ちを温かく包んでくれた。
お兄さんが捕ってくれた魚を焼いて、食べる。塩しかかかっていないのに、とてつもなく美味しく感じるのは、魚が新鮮だからなのかだろうか?
食べ終わった俺は、再びお兄さんの案内で森を抜けていく。森の中を歩くのは小学生以来だ。小学校の裏にあった裏山に総合の授業で探検に行ったのを、よく覚えてる。だけど俺が中学生になったときに、無くなったと聞いたときは悲しくなったけな。普通の授業と違って、おもしろくて、楽しかったから余計にそう感じるんだろうな。
「さあて、この鬱陶しい森を抜けるよ」
言葉通りに森を抜ければ、視界が開け、広大な平原が俺を出迎えた。
「ひっろ」
「ま、この辺りは、彼女のいる塔が近いからね。もう少し歩けば人間が住んでいる場所に出るよ」
「……離れたところに住むのは、彼女が生贄だからですか?」
「あぁ、そうだとも」
たったそれだけの理由で、あんな寂しい場所に住まないといけないのだろうか? そもそも、お兄さんのために捧げられた生贄って、どういうことなんだ?
「おや、悩み事かい? でも、大丈夫さ! これから向かう場所で、ある程度キミの疑問は解消されるさ」
「って、ことは、まだ歩くんですね?」
普段あんまり乗らないくせして、自転車やバス、電車が恋しくなった。移動手段って、本当に大切だ。文明万歳。
それからというもの、なにもない平原をお兄さんに励まされながら歩き続けた。時々振り返って後ろを見れば、確かに通り抜けた森は少しずつ離れていく。中からは鬱蒼とし、かなり雰囲気のある森であったが、外から見れば普通の森にしか見えない。来るもの拒まず、去る者を引き留めるような森は、不思議とあの小さな女の子を守っているようにも感じた。
どれだけ歩いたのか正確なことはわからないが、たぶん小一時間は歩いたと思う。
「ほら、目的地に到着だ」
お兄さんは楽しそうに、俺を見る姿が視界の端に見えるが、そんなものどうでもいい。目の間に聳え立つ大きな門。門の左右から中を守るように塀が続いている。その圧迫感に、息が詰まりそう、というか、詰まった。
「……な、」
驚きすぎて音も出ない喉をからかうように、お兄さんは「言葉も出ないかい?」と歌うように言う。
「ようこそ、未来からのお客人! 遥かなる過去、夢の果てへ!」
甘言で人を惑わず蛇のように、恐ろしい道化師のように、名もない舞台役者のように、お兄さんは大げさに、わざとらしく、一つまみの侮蔑を込めて、俺を迎え入れるように恭しく頭を垂れた。それと同時に、閉ざされていた門がギィイィ、と、ぐずりながら開かれていく。
本当に、ゲームの世界や、おとぎ話にでも迷い込んでしまったようだ。
開かれた門の先には、活気にあふれる城下町が広がり、嫌でも目に付く大きく、豪勢な西洋の城が聳え立っていた。ゲームだったら、絶対にボスが根城にしていそうな感じだ。
門が開かれたことに気が付いた住民が、一斉にこちらを見る。ピッタリ合わさった行動に、気味悪さを感じた。正直、自分が不快だからと言って睨み返す……? いや、見つめ返す勇気はないので、テキトーにへらり、と笑っておく。多少、顔が引きつっていても、まだ笑顔の方がましだろう。
「みんな、元気にしていたかい?」
まるで友人のように片手をあげて挨拶をするお兄さんに、若干引いた。けれども、死んでしまったかのように静かな空間が、生き始めたように活発に動き出した。一つの生物のように蠢く街は控えめに言っても、先ほどとは違う気持ち悪さがある。
「うんうん、今日も騒がしいね!」
一人満足そうにしているお兄さんには悪いが、今後の予定がまったくわからないのはストレスを感じるし、移動するならするで早く案内してほしい。そんな俺の思いが伝わったのか、お兄さんは「まあ、待ちなよ」と、言葉を落とす。
「あ、ほら。来たよ」
「ほあら、こっち、こっちだ」と、手を上げる。
お兄さんの視線を追えば、まっすぐ俺たちに向かってくる一人の人間がいた。小走りで、少しだけ焦ったような表情は、移動教室のときに、忘れ物を教室まで取りに戻るような必死さに、僅かに親近感が湧いた。
俺たち、というより、お兄さんの目の前まで来た人はどうやら男の人だったらしい。遠くから見れば女の人に見えなくもない。膝に手をついて、肩で息をする。呼吸が整うまで待つつもりでいたが、お兄さんは笑顔で詰める。
「ん~~、遅いなぁ。私が来たら、もっと早く来ないといけないよ。あーあ、前の子は早くて、優しくて、体力もあって、――――――生贄の躾も上手だったのになあ」
怒っているとか、悲しんでいるとか、一切感じないのに、消えることのない焚火のような、溶けることのない氷のような、矛盾しているはずの二つが確かにあった。極めつけは、吐き捨てられた道端のガムを見るような、そんな感情の困っていない二つの瞳は「本当に使えないねえ」と嗤っていた。
あまりの怖さに、自分の呼吸のだって許されないような気がしてきて、静かにしなきゃと思うほど、うるさく聞こえるのは自分の呼吸ばかりだ。
「……す、すみま、せん……っ……!」
今にも消えそうな蠟燭の火を思わせる頼りない声に、ハッとする。
顔を上げたその人は、居心地が悪そうに、肩身が狭そうに、眉毛を八の字にして、謝罪を口にした。今にも泣きそうな表情に、なんとかしてあげたいが、いかんせん部外者だし、話もわからないから、変に突っ込んで悪化させたくもない。
「まあ、いいよ。ほら、はやく案内しておくれ」
「あ、はい。……こちらへ、どうぞ」
気弱そうな彼は俺に、不思議そうな視線寄こすが何も言うことはなく歩き出した。
彼の数歩後ろを二人でついていく。本当に状況が、よくわからない。お兄さんはわかると言っていたが、謎が重なっていくばかりだ。
「ね、お兄さん」
小声で話しかければ、お兄さんは俺の顔に耳を近づける。
「どこに向かってるんですか?」
「お城だよ、お城」
「おっ?! ……俺、お城なんて初めてなんだけど? マナーとか知らないですよ!」
「なあに、私と一緒だからね。大丈夫だとも。それに彼らはマナーなんて気にしないさ」
「わははは」と笑うお兄さんは、俺の事なんて一切心配していない。
内心びくびくと怯えながら、着いていく。目的地は動いてくれないから、ゆっくり進んでみても、城の前まで辿り着いてしまった。離れたところから見ても存在感があったのに、近くで見るとより迫力増し増しで、もう彼女が待っている檻に帰りたい。
そもそも、どうして城に来ないといけないんだ。なにがわかるってんだよ。あの檻でお兄さんが、教えてくれればよかっただけなんじゃないの? お兄さんからは、説明できない理由でもあるの?
ぶつぶつと、頭の中で不満を並べ立てていれば、お兄さんの背中に激突した。
「ッテ~~~」
お兄さんの背中は鉄板が仕掛けられてるのか? って、ぐらい固くて、背中にぶつけた鼻がすごく痛い。鼻血出そう。痛む鼻を抑えながら、お兄さんを見る。
「ダメじゃあないか。ちゃんと前を向いて歩かないと、怪我はないかい?」
「けがはしてないです。してないですけど、すごく痛いです」
「おお、それはそれは可哀そうに」
大げさに、わざとらしく俺を抱きしめて、よしよしと撫でる。少し大きな動きに隠すように、今度はお兄さんが俺の耳元に口を近づける。
「嫌かもしれないけれど、少しだけ我慢しておくれ」
「おー、よしよし。痛いねぇ、ちゃんと痛いって言えて偉いねぇ」と、小さい子を、ペットを褒めるように頭を撫でまわすお兄さんの手は、撫でるのが慣れていないのか、実際に撫でられたり、ぎりぎり撫でれていなかったりと、ほんのちょっとだけ、意外だと思った。
「さ、私の顔を見られて満足だろう? 私と彼は部屋に行くからね」
俺を抱きしめたまま移動するお兄さんに、抗議の声を上げようと腕の中から脱出しようとすれば、それ以上の力で腕の中に押し込められる。うめき声一つ上げることもできないまま、結局引きずられながら、どこかの部屋から出た。
出た後も、同じ体制のまま廊下を突き進む。糸くずのように絡みそうになる足を耐えながら、必死についていく。とにかく必死で足を動かせば、お兄さんが片手で部屋の扉を片手で開けた。雪崩れ込むように二人で部屋の中に飛び込めば、腕の中から投げ出された。突然のことで、受け身をとることができなかった俺は無様に床へ「ぐえぇ」と呻き声を上げながら倒れた。
「いやあ、すまないねぇ。わざとじゃあないんだよ」
誰も入ってこないように内側から鍵をかけるお兄さんを、恨めし気に見る。わざとじゃなくても、せめて一言声をかけるぐらいはできただろうに。そしたら俺だって、床に這いつくばることはなかったかもしれない。
「今回はいいですけど、次回から一声かけてくださいね」
「ぁぁ、約束しよう」
神妙な表情で頷くお兄さんは、正直信用できないけれど、そもそも信用しないとしょうがないので溜息を一つ飲み込んで立ち上がる。
「ささ、ここに座りなさい」
どこかに置いてあったのか、立派な椅子を持ってきたお兄さんに言われるがまま座る。クッションは敷かれていないが、座る部分がふかふかのため何時間座ってもお尻は痛くならなさそうだ。……高級品ってすげー。
「よいせ、と」と、お兄さんは俺の前にテーブルを置き、テーブルを挟んで向かい合う位置に自分が座る椅子を置いて、どかり、と座った。
「んー、そうだねえ。なにから聞きたい?」
ここに来てから、ずっとお兄さんのペースだし、何一つわからない。そうだ、わからないことがわからない。何から聞けばいいのかもわからない。うんうんと一つ目の質問を考える俺を見て、お兄さんはケラケラと笑う。
「まずは私のことから話そうか」
「えっ?!」
「え、なに? 私のことは興味ないのかい? それはあまりにも酷いじゃあないか! こんなにも親切にしてあげたのに、キミは恩を仇で返すタイプなのかい? あー、私はすごく傷ついた、傷ついてしまったよ!」
すんごい勢いで捲し立てるお兄さんを止めるために、大きめの声で「お兄さんっ!!」と、呼べば、二つの綺麗な瞳を大きく見開いた表情は猫に似ていた。
「き、キミそんな大きな声、出せたんだね……」
いまだに驚きの中にいるお兄さんを見て、申しわけないと思う。でも、お兄さんの口が止まらないのがいけない。こっちの話を聞くきがあるのか、ないのか……。
そろりと、お兄さんを見れば伺うように俺を見ていた。
「えっと、大きな声を出してすみませんでした」
「いいんだ、私もからかいがすぎた」
「じゃあ、お互い様の両成敗ってことで」
一区切りつけた俺たちの間に沈黙が流れる。沈黙の中、最初に言葉を発するのは勇気がいるが、お兄さんからは話す気はないのか、静かに俺を見ている。……絶対に俺から話し出すのを待っている。
気持ちを切り替えるために、咳ばらいを一つ。
「こほん。……改めて、お兄さんの事から教えてもらってもいいですか?」
「あぁ、もちろんだとも」
そう言って、お兄さんは歌うように話し出した。
お兄さんは語る。
自分は人間ではない。と。……もったいぶって言われたけど、そんな気はしていたからか驚きはなかった。
じゃあ、なにかと言えば、なんでもないそうだ。本人曰く妖精ではないらしい。むしろ、一緒にしてほしくない! なんて言って怒っていた。
「ま、妖精も、私もルールに縛られている、という点では同じだね」と、笑っていたが、それは本当に同じなのだろうか? 俺はオカルトや、ファンタジーには詳しくないし、あまり興味もないからテキトーに相槌だけ返しておいた。
「それで、これからキミはどうするのかな?」
「どうするって?」
突然の質問の意味がわからず首を傾げれば、お兄さんは肩をすくめながら「ここにいるかい?」と片目を意味もなく瞑りながら俺に問いかける。
「彼女のもとへ戻ってもいいし、ここにいてもいい。キミと私は仲がいいアピールもしたから、一人でここにいても大丈夫さ」
「―――いや、あの子のところへ戻るよ」
俺の言葉に嬉しそうに笑う。目の前にいる男の、こんなわかりやすい表情を見たのはこれが初めてだったかもしれない。
あの子のもとへ帰るのは約束もあるけど、ほんの少しだけここにいるのは怖かった。大丈夫と言われても、まったく大丈夫なわけがない。怪しすぎる。
「ここには留まらないけど、大丈夫な理由って聞いていいの?」
「あまりおもしろくない理由だけど、それでも聞くかい?」
あぁ、聞いてほしくないんだな。と思った。死ぬほど知りたいかと聞かれれば、そこまで知りたいわけでもない俺は「おもしろくないならいいや」と断った。
「私の事はもういいだろう。次はこの場所について話そうか」
遥かなる過去、夢の果て。って、言っていたっけ。
すべてのものが同じスクリーンにいる世界。立派な城があり、それに伴う城下町があり、彼女がいる塔がある。まず俺が住んでいた日本ではないことは間違いない。
「ここは誰もが思い馳せる過去であり、誰かの夢でしかない。……水面を夢見る泡の世界さ」
「もっと、簡単に、簡潔に説明してください。詩的すぎてわからないです」
「つまり、異世界ってことさ!」
あんなにも夢夢言っていたのに、結局は異世界なのかよ。あー、最初にもそう言われた気がするな。まーでも、夢であるこの場所が異世界なのは理解できる。けれど、本当の夢ではないから、覚めるのには時間がかかりそうだ。
「元の場所に戻れるか不安かい?」
「そりゃ、そうですよ」
右も左もわからず、生贄なんてものが常識の世界で、元居た場所に戻れるかどうか不安になるのはあたりまえのことだろう。……ここに来た方法も、ちゃんと教えてもらっていないわけで。
そんな俺の不安を理解しているような笑みで、お兄さんはあの時と同じように「大丈夫、キミはちゃんと戻れるさ」と予言めいたこと言った。
「それは予言ですか?」
「こんなものは、予言じゃあないさ。―――ただキミがここにいる、それが証明さ」
目を伏せたお兄さんは、やっぱり最初から知っているらしい。




