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自分より大きな本棚に身を隠し、ギシギシと詰められた背表紙をなぞる。つるつるしてたり、ざりざりしたり、さらさらしたり、つっかえたり、いろんな触覚を楽しむ。本ってやつは、こうでないと、と思う。
次の本棚へ移動するときに、チラリと先生を盗み見る。先生は本を読んでいた。昔聞いたことがあった、どうして本を読むのかと、別に本は好きでも嫌いでもないけど時間が経つから読んでいる。と言っていた。そんな気持ちで読むのは、もったいないなあ。と、思ったけど、読み方なんて人それぞれだから、その時の俺も口を噤んだ。
「なにをそんなに熱心に、見つめているのかな?」
「うわあっ!」
突然背後からした音に驚けば、「そんなに驚くことないじゃあないか」とお兄さんが楽しそうに笑う。
「……背後から声かけるの、やめてくださいよ」
「いやあ、君の反応がおもしろいからねえ。つい、ね」
茶目っ気に笑うお兄さんは、この月白書店の唯一の従業員であり、いつも外につる植物と戦っている。
「それで坊ちゃん、今日はどうしたのかな?」
「ただ先生に会いに来ただけですけど」
「ああ、だからあの人でなし、あんな不機嫌なのかあ」
「え、不機嫌なんですか?」
お兄さんと本棚に隠れながら、こっそり先生を見る。やっぱり俺には、ただ本を読んでいるようにしか見えない。お兄さんには違うように見えるのが、少しだけ羨ましかった。
「きみ、そこのろくでなしの事は気にしないほうがいい。関わってもロクなことにしかならないぜ」
「なんだとう! それなら私だって言わせてもらおうか! 坊ちゃん、この人でなしの言うことなんて聞かなくてもいいとも、最後の最後で責任を被せられるぞう! 逃げるなら――――――イッタァ!!?」
とてつもない速さで、先生の方から飛んできた筆箱がお兄さんの顔面へと直撃した。
「アテテ……」と、自分の顔を抑えながらも、床に転がった筆箱を拾って先生のもとへ返しに行くお兄さんは、なんというか真面目な人なんだろう。……でも、先生は一切見ずに、なんなら謝罪もなしに静かに受け取っていた。
「まったく、ヒドイめにあったなあ」
言葉とは裏腹に少し楽し気なお兄さんに、今浮かんだ疑問をぶつけてみよう思う。
「あの、一つ質問してもいいですか?」
「もちろんだとも! なあに、坊ちゃんからの質問なら一つと言わず、いくらでも答えようじゃあないか」
揚々と宣言するお兄さんの後ろで、疑うような目で先生がこちらを見ている。また筆箱が飛んで来るかもしれない恐怖に俺は唾を飲み込む。
「どうして先生のことを〝人でなし〟って、呼ぶんですか?」
まぁ、確かに、人間とは思えないほど顔がいい。って意味なら理解できる。きっと表通りに出たら、芸能事務所にスカウトされてしまって、女子中学生からお茶の間の主婦にまで人気が出て、果てには介護施設の住人にだって目の保養として人気を博すんだあ。
「どんな想像をしているかわからないけども、私がアレのことを〝人でなし〟と呼ぶのは、言葉のままだと覚えていておくれ」
「はあ……、言葉のまんまっすか」
言葉のままと言うのなら、まさに先生は〝人ではない〟ってことなのだろうか。どう見たって、先生は人間にしか見えないけど……。
首を傾げる俺に、お兄さんはケラケラと笑う。
「なあに、何れわかる日は来るさ。―――坊ちゃんが、あの人でなしを知りたいと願い続けるならね」
喉が恐怖で、渇いていく。
笑っているはずなのに、瞳の奥はこれぽっちも前向きな感情はなく、そこに転がっているのは薄暗い何かだった。
なにか言いたいのに、なにを言っても無駄な気がして、ただただ漠然と責められている気がするのは何故だろうか。
「だから言っただろう。―――これに懲りたら〝ろくでなし〟に関わるのはやめろよ」
「……せんせい」
俺を庇うように声をかける先生は、お兄さんに「早く外のつる植物をなんとかしてきなよ」と、外へ出そうとする。
「はぁ、わかったとも。いつも通りでいいのだろう?」
「あぁ、それで構わない」
「やれやれ、人使いが荒いんだから」
「早く行ってくれないかな」
大人しく外へ出ていったお兄さんを先生と二人で見送れば、「あっ」なんて先生が言葉を零した。不思議に思って先生を見れば、先生も俺を見ていた。また苦虫を嚙み潰したよう表情で俺を見ているものだから、負けじと俺は苦虫なんて食ったことないから、生のゴーヤに齧りついたときの顔で応戦する。
「なんて顔をしてるんだい」
「先生の真似」
「ぼくはそんなふざけた顔はしていないよ」
「してましたよ」と、言い返せば先生は、両目をすっと細めた。
あまりの鋭さに俺は、小さな声で「……し、てないです」と返した。正直めちゃくちゃ怖い。なにより大人げないと思うが、まぁそれも先生だ。一人納得していれば、先生がくるりと踵を返し、本の森へ進んでいく。
そんな後ろ姿を眺めて――どうしようかな。と悩んでいたら、先生が気だるげに振り返る。首を傾げれば、少しだけ視線を彷徨わせてから口を開いた。
「せっかく書店に来たんだ。きみにお勧めの本がいくつかあるから、それを買って帰っておくれよ」
「ありがとうございます。………少しでも赤字に貢献させていただきます!」
「きみは一言余計なんだよなあ」
ぽりぽりと後頭部を掻く先生は、優しい人だった。
変わらず俺は月白書店へ通う毎日を続けている。止める気は、今のところない。先生も口では嫌そうなことを言うが、その態度はわかりやすかった。お兄さんも、いつもと同じようにつる植物と戦いながら働いていた。
その日は珍しく先生がいなかった。
「あれ? せんせー、いないんですかー」
返事がない室内は、いつもと同じ照明が点いていて明るいはずなのに、薄暗く感じるのは何故なのだろうか。逸る鼓動に誘われるように、そろりそろりと本棚の間を縫って隅から隅まで探してみても、先生はどこにもいなかった。
――もしかして、二階か?
きっと二階は先生のプライベート空間なのだろう、と思う。気にならないと言えば噓になるが、かってに上がるほど常識知らずではない。書店の鍵は開いていたのだから、営業はしているのだろう。
「先生が来る前に本探すか」
本屋さんなので普通の事なのだが、本が大量にある。よくよく見れば、この本どうやって手に入れたんだ? とか、これ春画じゃねぇか! とか、同人誌か。……いや、自作ポエム集だ。とか、もういろいろある。有名な作者から、全然知らん人の本だって置いてあるもんだから、本好きにとっては楽しくて仕方がない場所だ。先生とお兄さんしかいないから、人数の少なさも相まっての評価である。
「―――ぁ」
視線が、足が、指先が止まった。
気が付けば、おとぎ話の棚に来ていた。知っている物語から知らない物語まで、全部終わりは一緒だ。それに物語の登場人物たちは、人でも、人じゃなくても、自分の〝運命〟と出会っているわけで。
運命の人と出会う確率は0・00034%らしい。
この間、なんとなくネットで調べたら出てきた。クラスメイトが言っていた「ガチャの排出率0・1%は、ほぼ確定だと思っている」という言葉も同時に思い出したのは記憶に新しい。
運命の本があるのなら、その本と出会う確率はどれぐらいなのだろうか。
眼前の本は、俺にとって〝まさに運命の本〟だった。
本と本の間に隠れるように挟まったその本を引っこ抜く、小さく――ビリッ! なんて、音が聞こえ、ちょっとドキマギしたが、真っ二つにはなっていなかった。一安心。
「にしても、すごくボロボロだな」
表紙から裏表紙まで茶色に変色し、一つ崩れたらそこから全て崩れ落ちていきそうなほど脆そうな印象を受ける。
どこかで見たことあるような表紙をまじまじ見ても、タイトルもなければ、作者名もない。それに本というより、ノートのようである。適当に数ページめくれば、中身はどうやら小説のようであった。拙い字で、一生懸命書かれた文字は間違えていたり、逆さ字だったりと、小さな子どもが書いたような感じだ。とんでもなく読みづらいはずなのに、不思議と、続きが気になって誤字脱字なんて気にもならず、どんどん読み進めていく。
気が付いた時には最後のページまで来ていた。
「あ、これ」
この話は未完成だった。
なんとも拍子抜けな最後に、溜息だってでない。
内容としては、よくある恋愛ものだった。
登場人物は二人しかおらず、主人公の〝わたし〟と、好きな人……というか、憧れの人の〝あなた〟だけ。登場人物が二人しかいないのに〝あなた〟は、序盤でいなくなった。いい感じの事を言って〝わたし〟を置いて、どこかに行った。それから〝わたし〟の長い一人の時間が始まるが、〝あなた〟との再会を夢見る少女。ついに〝あなた〟と再び出会い、口を開いたところで終わっている。
――俺なら、なんて言うんだろう。
自分に置き換えても、恋愛のれの字も知らない俺には、言葉なんて一つも出てこなかった。
「やぁやぁ、坊ちゃん!」
「ぉうわあっ!?」
背後から突然話しかけられたせいで、驚いた俺は持っていた本を落としてしまった。ばさり。と、それなりに大きな音を立てて落ちた本を、お兄さんが悪びれることなく、俺をケラケラと笑いながら本を拾った。
「いやあ、すまないね。そんなに驚くとは思っていなかったよ」
「あ、いや」
「それにしても、毎回おもしろいぐらい驚いてくれるね」
「あははは」と、笑うお兄さんに少し腹が立って、カステラ一切れ分の文句を言おうと口を開けば、お兄さんは両目を見開いて、食い入るように手に持った本を凝視していた。その鋭い視線に、不満のカステラは胃の中へ落ちていった。
「……ねぇ、坊ちゃん」
「な、なんでしょう?」
お兄さんの物々しい雰囲気に、どっちゃりと手汗が一気に噴き出した。普段と違う態度に、違った意味で心臓がバクバクと駆け足になる。
「この本はどこにあったのかな?」
「どこって、この本と本の間に……」
お兄さんは、まるで獲物を定めた夜中のフクロウのような瞳で俺を見る。どこかへ吸い込まれそうなほど見つめあえば、瞬きの次に―――ニコリ。と笑った。突然の笑顔に面食らう俺を置いて、「ありがとう! 本当にありがとう!」とお兄さんは本当に嬉しそうに、俺の両肩を叩きながら感謝の言葉をシャワーのように浴びせかけてきた。
「わか、わかりましたから! イタッ、どういたしまして! ちょ、痛いですって!」
「ふふ、すまないね。少し興奮しすぎてしまったよ」と、笑顔を崩すことなく、少し落ち着いた様子のお兄さんは、愛おし気にボロボロの本を見る。
よほど大事な本なのだろう。
「この本が気になるかい?」
悪戯っ子みたいに笑うお兄さんは、いつもおしゃべりだが、自分に関することを話そうとするのは初めてだった、と思う。
「気にならないと言えば、嘘になりますね」
「ふふ、子どもは素直じゃないとねぇ。―――そうだなぁ、坊ちゃんは魔法とか、超能力とか信じるかい?」
魔法や、超能力を信じているか? だって、そんなもの決まっている。
「信じてないですね」
きっぱりと言い放つ俺を見て、何がそんなにおもしろいのかゲラゲラと笑うお兄さんは本当に変だ。ひーひーと肩で息をするお兄さんが落ち着くのを待つ。
数秒経って落ち着いたのか、今にも崩れそうな本を掲げる。
「坊ちゃんは今日〝ノート〟を買って帰る」
「なんですか、その予言。俺がその本を買うんですか?」
「違うさ、君はこの本を買うんじゃない。新品のノートを買うのさ」
「ちなみに、どうしてですか?」
「そんなの、私が知るわけないだろう」
なんだこの人。
「それにこれは予言じゃあない」
一拍おいてから、お兄さんは言葉を続ける。
「この本がここにあるのが、坊ちゃんがノートを買うという証明なのさ」
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「やあ。遅かったじゃあないか」
「もう少し速かったら、彼に会えたのにね」
「え? なに、彼じゃないって、それはそうだけども」
「まあ、でも」
「――――――次は会えると思うよ、よかったね」
「はは、驚きのあまり喜ぶこともできないのかい?」
「昔は、あんなにも会いたい、会いたいって泣いていたじゃあないか。懐かしいねぇ。ちょっと泣いてみなよ」
「そんなに怒ることないだろう」
「僕の魔法というか、能力というか、あれは【需要】が合わないと発動しない」
「それでも、この本がこの時間まであるということは、めでたいことに彼はノートを買ったということだね」
「……なあに。結末なんてものは、現在のボクたちにはわからないことさ」




