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坊ちゃま、「婚約破棄する」と言うタイミングは今です! ほら早く! ……坊ちゃま?

作者: ミズアサギ

 

「一体どうして!」 バシッ

「貴方という人は!」 バシッ

「そこまで婚約者に嫌われるのですか?!」 ドカッ



 ハプスブルク伯爵家の応接室でタコ殴りにされているのは、伯爵家の跡取りミヒャエルである。自分の仕える主が弱っていく姿を、侍女のヨハンナは応接室の端からじっと見守っていた。


「ライストナー伯爵令嬢、シュラム子爵令嬢、ヴェークマン伯爵令嬢……もう三人よ、三人。どうして毎回婚約者に逃げられてしまうのよっ」


 最後にそう言うと、ミヒャエルの姉レベッカは手にしていた扇子をミヒャエルに投げつけた。二年前にユーネル伯爵家に嫁いだレベッカは、ミヒャエルの婚約破棄の噂が面白おかしく流れるたびに婚家親族から揶揄われるらしい。

 特に今回婚約を破棄してきたヴェークマン伯爵家は、婚家であるユーネル伯爵家からの紹介ということもあり、怒りが収まらなかったのだろう。


「すみません、お姉様。毎回どうしてこうなるのか、僕にも……」


 情けなくも二十一歳にもなって涙を浮かべる弟に、レベッカは拳を振り上げて詰め寄ろうとした。



「ユーネル伯爵夫人」


 今まで黙って控えていたヨハンナがレベッカの動きを止めた。ヨハンナはレベッカに近寄り、振り上げた拳をそっと両手で包み込んだ。


「……レベッカ様。こんなに手が赤くなっています。ヨハンナはレベッカ様の白い手が今でも大好きです」


 レベッカより三歳年上のヨハンナは、レベッカが嫁ぐまで主従関係ではあるものの姉妹のように過ごしていた。


「そ、そうね。ありがとう、ヨハンナ。私はお父様にご挨拶だけして帰るわ」


 毒気を抜かれたレベッカは、力無く応接室を出ようとする。そんなレベッカの肘をそっと掴んで、ヨハンナはレベッカに耳打ちをした。


「レベッカ様は望まれてユーネル伯爵家に行かれたのです。大きい顔をしていらっしゃい」


 レベッカは驚いてヨハンナを見返す。


「大体なんですか。あの三人のご令嬢たちは。好きな人が出来た、好きな人がいた、ミヒャエル様が気に入らないという理由で貴族の婚約を一方的に破棄だなんて。それを許す親も親です。よろしかったじゃありませんか、そんな貴族の風上にも置けない人たちがこの伯爵家に入ることにならなくて」


 レベッカは目を大きく見開いた。確かにヨハンナの言う通りだ。同時にヨハンナも男爵家の令嬢だと言うことを思い出した。一人の貴族令嬢から見てもやはりあちらがおかしいのだろう。


「ありがとうヨハンナ。その通りだわ。ミヒャエル、ごめんなさいね。手当はヨハンナにして貰ってちょうだい」



 そう言うとレベッカは今度こそ応接室を出て行った。

 ヨハンナがミヒャエルの方を振り返ると、ミヒャエルは頭を抱えてソファに崩れるように座るところだった。


「坊ちゃま。今すぐ手当をしましょう」


「ヨハンナ。坊ちゃまはやめて」


 貧しい男爵家の長女であるヨハンナは、十六歳の時に当時十歳のミヒャエルの侍女として伯爵家に仕え始めた。

 あれから十年経つが、ヨハンナにとってミヒャエルはあの十歳のお坊ちゃまのままなのである。


「はいはい。では坊ちゃま、少し滲みますよ」


 ヨハンナが冷やしたタオルを、レベッカに連打された頬に当てる。やはり滲みるのか、ミヒャエルがレベッカのスカートをギュッと握る。これは小さい時からのミヒャエルの癖だ。

 頬を冷やし、かたく瞑った目を拭いてやり、ヨハンナはミヒャエルの顔をまじまじと見つめた。


 男性にしては色が白く、きめ細かい綺麗な肌。ゴールドブラウンの髪と同じ色の長いまつげが揺れている。長年侍女を務めているという贔屓目を除いても、ミヒャエルの見た目はそこまで悪くはない。

 しかし昨今の騎士団ブームのために、神経質そうに見える細身長身色白のミヒャエルは女性からモテないのだろう。

 実際、騎士ブームの先駆けである辺境伯の嫡男に、ミヒャエルの長年の婚約者だったライストナー伯爵令嬢は心身共に奪われたのだ。




 ライストナー伯爵令嬢とは十年の婚約期間を経て、あとは結婚式を待つだけだった。そんな時に大勢の人が集まる舞踏会で、声高々に婚約破棄を突きつけたライストナー伯爵令嬢の腰には、今をときめく辺境伯嫡男のたくましい腕が回されていた。

  普通の伯爵家より辺境伯家に娘を嫁がせた方が良い。そう考えたライストナー伯爵家と辺境伯家から支払われた相当の慰謝料と引き換えに、ミヒャエルは噂の的となり嘲笑された。


 そんなミヒャエルを気の毒に思ったハプスブルク伯爵は、すぐに次の婚約者を探してきた。

 ミヒャエルより三歳年下のシュラム子爵令嬢は、とても印象の良いご令嬢だった。

 しかし、婚約して初めてのデートの時、人の多い公園に突如現れた恋人だと名乗る男性にミヒャエルはいきなり殴られた。

 シュラム子爵令嬢はミヒャエルを心配することなく、恋人にすがりつき、その場で婚約破棄をミヒャエルに伝えた。

 これを機に、ミヒャエルは怪我とショックで屋敷に引きこもるようになってしまう。


 ヨハンナが休日に他家の侍女仲間に聞いた話によると、シュラム子爵令嬢の恋人は子爵家の使用人で、既に二人は出奔してしまったらしい。実際は子爵が匿っているのだろう。

 ミヒャエルは伯爵家を継ぐべく、父であるハプスブルク伯爵について仕事を学んでいる。

 しかし、度重なる婚約破棄ですっかり意気消沈したミヒャエルは、外に出ることができなくなってしまった。


 ハプスブルク伯爵は今度こそ、とミヒャエルより一つ年上のヴェークマン伯爵令嬢を婚約者にしようとした。ヴェークマン伯爵令嬢は気が強いため縁談がまとまらないとの噂があったが、逆にそれぐらいの方がミヒャエルにはいいとハプスブルク伯爵は考えたのだ。

 ヴェークマン伯爵はいつまでたっても嫁の貰い手のない愛娘に降りかかった縁談に、最初の打診で婚約を結んでしまった。

 婚約を結んだ後の初顔合わせ。ハプスブルク伯爵家の応接室に入るや否や、げんなりと座っているミヒャエルに向かってヴェークマン伯爵令嬢は金切り声を上げた。


「なぜ私が、こんなひ弱そうで陰気くさい顔をした男の元に嫁がなきゃならないのよっ!」



 その場に居合わせたヨハンナでも、その時のことは思い出したくない。当事者のミヒャエルはもっと思い出したくないだろう。

 ヨハンナは、いつまでも瞼を閉じたままのミヒャエルの頬からタオルを離す。もう赤みは引いただろう。

 しかし、ミヒャエルはヨハンナの手首を掴み、タオルを頬に当て直す。

 末っ子気質で甘えん坊なのは昔からだ。そういうところだとヨハンナはため息を吐いた。

 ヨハンナが呆れている様子が伝わったのか、ミヒャエルが重い口を開いた。


「ねえ、ヨハンナ。僕はどうしたら女性に選ばれるようになるのだろう」


 三回の婚約破棄騒動は、たった半年の間に起こってしまった。ミヒャエルが自信を失うのは当然だし、残念だが人々がこんな面白いスキャンダルに沸くのは仕方のないことだ。


「そうですね。毎日、腹筋と剣の素振りを千回ほどすれば、それなりになるかと……」


 ヨハンナが素っ気なく答えると、ミヒャエルは千回とつぶやき動かなくなってしまった。昔から体を使うことを嫌い勉強を好む。千回の腹筋で諦めたのだろう。


「僕も婚約者に婚約破棄を突きつけてみたい」


 ヨハンナは目を見開いた。虫も殺さぬ穏やかな坊ちゃまがとうとう闇に墜ちてしまった。ヨハンナはそう思った。


「坊ちゃま。坊ちゃまが婚約破棄を突きつけられた時、とても悲しくありませんでしたか? 次のお相手にそんな思いをさせるのですか?」


 冷たい口調で言うヨハンナに、ミヒャエルはようやく目を開けた。ぼーっとヨハンナを見つめていたミヒャエルは、さらにヨハンナを驚かせる言葉を吐いた。


「じゃあ、次の婚約者は婚約破棄されることを了承した人にして欲しい」




 ***




「だそうです。以上が、坊ちゃまからのご要望です」


 その日の夜。

 ハプスブルク伯爵の書斎に呼ばれたヨハンナは、伯爵に昼間のミヒャエルとのやりとりを全て報告した。ヨハンナの話を聞き終わると、伯爵は頭を抱え、ミヒャエルの母である夫人はハンカチで目頭を押さえた。


「度重なる婚約破棄でそりゃあ心が弱っているとは思っていたが、まさか闇墜ちするほどに病んでいたとは……」


 青い顔をした伯爵は、力なく椅子の背もたれに体を沈めた。


「うちのミヒャエルが一体何をしたというの?! 少し線が細いだけで、真面目で優しい子なのに」


 夫人は怒りすぎて体が震えている。ヨハンナはそっと夫人の背中を摩った。しばらく考えこんでいた伯爵が、独り言のように呟いた。


「こうなったら金にものを言わせても、婚約破棄ごっこに付き合ってくれる家を探すか」


 最初は馬鹿なことをと怒っていた夫人も、次第に何やら考え込むようになった。ヨハンナは嫌な予感がした。


「一度、婚約破棄を突きつけるという、言わば復讐のようなことをしてしまえば、ミヒャエルも納得して次に進めるだろう。自信を取り戻して、前のように仕事にも精が出るかもしれん」


「正気ですか、旦那様」


 さすがにヨハンナが口を挟んだ。伯爵夫妻には雇って貰った恩がある。だから自分は結婚もせずに伯爵家に仕えてきた。その大切な伯爵家が、一家で闇に墜ちようとしている。口を挟まない訳にはいかない。


「いいですか。その条件をのんでくれる家やご令嬢がいたとしましょう。はい、無事に坊ちゃまが婚約破棄を言い渡せました。その後はどうなると思いますか?」


 ヨハンナの問いに夫妻は首を傾げる。


「婚約破棄されたと思ったら今度は婚約破棄を言い出すイカレた伯爵令息だと、新作の噂が広がりますよ。そうなると、今世での坊ちゃまのご結婚は望めないでしょうね」


 ヨハンナに現実を突きつけられて、夫妻は揃って項垂れた。


「でも、どうしてもあの子の願いを叶えてあげたいのよ! このままじゃ、あの子は婚約破棄にダメにされた落ちぶれた独身男になってしまうわ。そうだわ! 役者を雇うのはどうかしら?!」


 夫人がものすごい勢いで伯爵に言い寄る。息子可愛さでおかしくなっているのだろうが、深夜に近い時間には、どう考えてもまともな案は出てきそうにない。

 ヨハンナは夫人の体調も気遣い、そろそろ夫人を部屋に送ろうと考えた。夫人の肩にショールを掛けるヨハンナを、先ほどから伯爵がこちらをじっと見つめているのに気がつかなかった。



「ヨハンナ・クラウゼ男爵令嬢」


 もう十年近く呼ばれていないラストネームで呼ばれ、ヨハンナは思わず固まった。


「ヨハンナ。いや、クラウゼ男爵令嬢。愚息の願いを叶えてやってはくれないだろうか」


 急に射るようにヨハンナを見る伯爵に、ヨハンナは何も言えなくなった。主人としてはだいぶ気安く接してくれる伯爵だが、爵位を出されればヨハンナが意見を言える相手ではない。


「あ、あなた! いくらなんでもヨハンナにそんな酷いことを……」


 酷いことを企んでいる自覚が夫人にあったとわかって、ヨハンナは少しほっとした。今度は夫人がヨハンナを気遣い、ヨハンナの背を撫でた。


「何もタダとは言わない。ヨハンナは男爵家の借金を返すために長年うちに仕えてくれているだろう。来年は末弟が学園に入るために金が掛かると聞く。どうだ、末弟の学費を全額うちで出すというのは」


 ヨハンナは思わず息をのんだ。実家の事業の失敗で出来た借金はもうすぐ返済の目処がつく。しかし、末の弟の学費が新たな借金となることが最近の悩みなのは否定できない。

 いつもははっきりものを言うヨハンナが黙っているので、夫人も何かを察したのだろう。ヨハンナの両手を包み込んで言った。


「ヨハンナが嫌なら無理にとは言わないわ。でも、あなたも借金があると結婚も出来ないでしょう? 婚約破棄の後は、絶対にヨハンナの不利にならないようにする。縁談も探すわ」


 ヨハンナは夫人の目を見つめながら全力で計算していた。確かに美味しい話ではある。クラウゼ男爵家の評判は元々地に落ちているし、結婚なんてとっくの昔に諦めていた。

 すぐに破棄されるとしても、一度婚約というものを体験するのも悪くない。

 それに相手はあの坊ちゃまだ。坊ちゃまを助けると思えば……。


「わかりました。お受けしましょう」




 ***




「と、いうことが決定しました。従って、本日からしばらく実家に帰って事情を説明してきます」


 翌日の朝、ミヒャエルの着替えを手伝いながら、ヨハンナは簡単に事情を説明した。

 当のミヒャエルは、まさかこんなことになっているとは思っていなかったのだろう。さっきから口をパクパクさせたまま声も出せない様子だ。


「坊ちゃま、お口を閉じて下さいませ。私が戻ったら、一世一代の婚約破棄の練習をいたしましょう」


 そう言い残して、ヨハンナは颯爽と実家へと帰ってしまった。



 一週間後、事情を聞いたクラウゼ男爵からの婚約承諾書を携えてヨハンナが伯爵家に戻って来た。

 その日から、ヨハンナは侍女ではなく婚約者として伯爵家に滞在することとなった。


「ひと月後、うちの家族が挨拶に参ります。その時が婚約式となります。事情が事情なだけに、婚約式は両家だけで執り行います。その場で婚約破棄を宣言するのが一番効率が良いかと」


「ちょ、ちょっと待って。ヨハンナは本当にそれでいいの?」


 淡々と説明するヨハンナを、ミヒャエルが遮る。ヨハンナは怪訝そうな顔をした。


「いくら何でも、婚約破棄を言われるために婚約するなんて、ヨハンナはおかしいよ!」


「そのおかしなことを言い出したのは坊ちゃまです」


 ヨハンナにぴしゃりと言われて、ミヒャエルは黙るしかなかった。確かに自分が原因だった。


「それに、婚約破棄されるとわかっているのに婚約させられる不幸な令嬢が私でほっとしています」


 ミヒャエルはもう何も言えない。確かにあの時のミヒャエルは相手のことなど一つも考えずに、私怨だけで話していた。冷静になった今は、それがどんなに相手に対して失礼なことだったのか理解している。

 深刻な顔をして黙るミヒャエルを見ていると、家庭教師から逃げて叱られていた時のミヒャエルを思い出し、ヨハンナは思わず吹きだした。


「それに、これが坊ちゃまへの最後のご奉仕です。精一杯受け止めますので、全力で婚約破棄して下さいね!」


 いい笑顔で言うヨハンナに、ミヒャエルが慌てた。


「最後ってどういうこと!?」


「私は侍女からミヒャエル様の婚約者になったのです。婚約破棄後は、もう一度侍女として伯爵家に出戻るという訳にはいかないでしょう。それこそミヒャエル様の醜聞になり、次の縁談に差し支えますよ」


 退職金もガッポリと頂きましたと笑いながら言うヨハンナを見て、ミヒャエルは事の重大さを思い知らされた。



 それからは、本来なら婚約者としてお互いを知る甘い時間は全て、ヨハンナの指導のもと、いかに格好よく婚約破棄を突きつけられるかの練習に充てられた。


「三十五点です」


「お、俺はき、貴様との婚約をは、破棄しゅる……」


「二十三点です」


 本来優しい性格のミヒャエルにとって、婚約破棄の宣言というものは想像以上に難しいものであった。

 何度も台詞を考えて、絶妙なタイミングを計る。何度も何度も練習をして、そして婚約式前日、最後の練習が終わった。


「五十五点です」


「これ以上は無理だよ……。先のご令嬢たちは、なんで息をはくように婚約破棄を言い出せたんだ。プロか何かなのか」


 連日の練習に目の下にくまを作ったミヒャエルが自嘲気味に呟いた。やつれたせいか、少し精悍な顔つきになったなとヨハンナは頷いた。


「坊ちゃま。五十五点です。半分は超えています。明日は自信をもって婚約を破棄して下さいませ」


 そう言って部屋から出て行くヨハンナを、ミヒャエルが複雑な表情で見送った。




 ***




「では、ハプスブルク伯爵家嫡男ミヒャエルと、クラウゼ男爵家長女ヨハンナの婚約が成立したことを宣言する」


 ハプスブルク伯爵家の広間には、長いテーブルを挟んで両家の面々が何とも言えない顔で座っていた。

 ミヒャエルの姉レベッカは、馬鹿な弟のせいで大好きなヨハンナがとんでもない目に遭うと聞きつけて、無理矢理婚約式に参加した。レベッカはテーブルの真ん中にヨハンナと向かい合って座るミヒャエルを、殺さんばかりの目で睨み付けている。

 その様子を見て、ヨハンナは笑いを堪えるのに必死だった。この場で笑う余裕があるのはヨハンナだけである。しかしヨハンナからすると、大好きな伯爵家の面々を見られるのも今日が最後。悲しいが最後の大仕事は忠実にこなしたい。


「では、無事婚約したということで、ミヒャエルから一言」


 伯爵がこわばった表情で言った。いよいよだ。伯爵のこの台詞の後で、いよいよミヒャエルによる婚約破棄が言い渡される。

 伯爵夫人がハンカチで目頭を押さえた。レベッカの目が血走った。ヨハンナの父と母は、自分たちの借金のせいで娘が酷い目に遭うことになり、不甲斐なさで落ち着かない。

 ヨハンナは座り直し、背筋をピンと伸ばして真っ直ぐにミヒャエルの胸元を見つめた。

 ホール中が緊張に包まれ、皆の意識がミヒャエルに集中した。

 ミヒャエルが「んんっ」と軽く咳払いした。いよいよだ。



 …………。


 長い長い沈黙が伯爵家のホールを包み込む。

 ヨハンナは思わず目線を上げて、ミヒャエルの顔を見る。ミヒャエルは口を閉じたままで動かない。あれほど練習したはずなのに、まさかタイミングを忘れてしまったのだろうか。

 ヨハンナはミヒャエルに向かって声を出さずに唇を動かした。


 ──坊ちゃま、「婚約を破棄する」と言うタイミングは今です! ほら早く! 


 ミヒャエルの視線はヨハンナの口元を見ている。絶対にヨハンナの言いたいことは理解しているはずだ。


 ──坊ちゃま、「婚約を破棄する」と言うタイミングは今です! ほら早く! ……坊ちゃま?


 もう一度ヨハンナは繰り返す。が、ミヒャエルはヨハンナの唇を見つめたままで動かない。



「ミ、ミヒャエルは嬉しさのあまり声が出ないようです。今日はこれでお開きに」


 居たたまれなくなった伯爵がそう言うと場の空気が少し緩み、ああそうだな、そうね……と皆ホールからそそくさと出て行ってしまった。

 一番最後に立ち上がったレベッカは、固まったままのミヒャエルの背中にドンと肘鉄を食らわせて行った。

 ホールに残されたミヒャエルとヨハンナは、しばらく黙ったままでいた。



「採点不可です。坊ちゃま」


 ヨハンナが静かに言うと、やっとミヒャエルは息を吐いた。


「す、すまない。少し緊張したみたいで……。次! 次こそはしっかりと婚約破棄するよ!」


 元気に宣言したミヒャエルに呆れたヨハンナだが、次の機会が訪れたのは、なんと結婚式当日だった。




 ***




「坊ちゃま。一体、どうして今日という晴れの日を迎えることになったのですか」


 街の外れにある、伯爵家嫡男が挙式を行うには小さすぎる教会の控え室。

 綺麗に化粧をされ、真っ白いドレスに身を包んだヨハンナが、白いタキシードを着たミヒャエルに詰め寄った。

 しばらくヨハンナをボーッと見つめていたミヒャエルが我に返った。


「形だけの婚約でも、婚約証明書は教会に提出しなきゃいけないんだ。あの婚約式の後に執事が教会に出向いたんだが……」


 要は、何度も婚約破棄されているのを気の毒に思っていた司祭が、一日でも早く挙式できるよう気を回してくれたらしい。

 そして婚約式からひと月という前代未聞の早さで、ミヒャエルとヨハンナの挙式が行われることになったのだ。



 ヨハンナはため息を吐きながら、さきほどチラリと見た礼拝堂の中の様子を思い出した。

 小さな教会だというにも関わらず、噂のハプスブルク伯爵家嫡男の挙式を一目見ようと集まった人でいっぱいだった。きっと教会の外にも野次馬は溢れているのだろう。


 前の席に着いているハプスブルク伯爵と夫人は、晴れの日なのに曇った表情で前だけを見て動かない。

 ヨハンナの父と母は、聞いていた婚約破棄劇と違う事の成り行きに、ただただ戸惑っている。

 レベッカは、ヨハンナですら見たことのないような鬼の形相だ。

 母はかつて自分が着たウエディングドレスを、どのような気持ちでヨハンナに着付けてくれたのだろう。

 そう思うと、ヨハンナは隣で何故か頬を染めているミヒャエルに怒りが湧いてきた。


「坊ちゃま。最後のチャンスです。誓いの言葉の時にビシーッと決めて下さいよ!」


 そう睨み付けるヨハンナに、ミヒャエルはコクコクと何度も頷いた。


「あ、当たり前だよ! あれから何度も練習したから、今日はバッチリだ!」


 そう自信満々に答えるミヒャエルに、ヨハンナは不安しかなかった。

 同じく不安しかない伯爵夫妻とクラウゼ男爵夫妻、怒りしかないレベッカ、この婚約が成就するのか興味津々の参列者。

 司祭が緊張してしまうほど異常な空気の中、式はつつがなく進行していった。



「新郎ミヒャエル・ハプスブルク。誓いの言葉を」


 式も終盤。いよいよ宣誓の時。ヨハンナはミヒャエルと向かい合う。

 ミヒャエルを見上げる。ミヒャエルは落ち着いているのか、静かにこちらを見つめていた。今回は大丈夫そうだ。ヨハンナはハプスブルク伯爵家と縁が切れることに少し寂しさを覚えて目を伏せた。いよいよ……



 …………。


 長い長い沈黙が礼拝堂を包み込む。

 ヨハンナは思わず目線を上げて、ミヒャエルの顔を見る。ミヒャエルは口を閉じたままで動かない。まさか、またなのか?! またタイミングを忘れたのか、この坊ちゃんは?!

 ヨハンナはミヒャエルに向かって声を出さずに唇を動かした。


 ──坊ちゃま、「婚約を破棄する」と言うタイミングは今です! ほら早く! 


 ミヒャエルの視線はヨハンナの口元を見ている。絶対にヨハンナの言いたいことは理解しているはずだ。


 ──坊ちゃま、「婚約を破棄する」と言うタイミングは今です! ほら早く! ……坊ちゃま?


 もう一度ヨハンナは繰り返す。が、ミヒャエルはヨハンナの唇を見つめたままで動かない。

 ヨハンナは焦った。焦ってしまい、つい小さな声が出てしまう。


「ほら、はや……」


 ヨハンナが「早く」と言おうとして、最後の「く」を言うために唇をすぼめた瞬間……



 ちゅっ。



 礼拝堂は静寂に包まれる。ヨハンナは何が起こったのか理解できないでいた。次に意識が戻った時、礼拝堂は拍手喝采に沸いていた。


「誓いの言葉より先に、誓いのキスをしてしまったな!」


「待ちに待った結婚だから仕方がないさ!」


「あらー、待てなかったのね。本当に良かったわね」


 参列者が口々にはやし立て、司祭も苦笑いしながら祝福を与える。横目に見えた両家両親は呆気にとられ、レベッカは顎が落ちるかと思うほど口をあんぐりと開けていた。




 ***




「採点不可どころか出禁です」


 挙式後。二人は、花嫁を迎えることはないが形だけ、と伯爵家に作られた若夫婦の寝室にいた。


「す、すまない。少し緊張したみたいで……。次! 次こそはしっかり……」


「もう次なんてありません! どうするのですか、無事挙式まで終えてしまって!」


 いつも冷静なヨハンナの勢いに一瞬たじろいだミヒャエルだったが、何やら意を決して様子でヨハンナに近づいた。


「あの、ヨハンナ……実は」


「あっ! そうだわ。この手があったわ!」


 ミヒャエルの言葉を遮り、ヨハンナは興奮した様子でミヒャエルを見上げた。


「初夜によくあるアレをするのです! 『君を愛することはない』っていう、アレです!」


「君を愛することはない、だと?」


「はい! よくあるみたいですよ。どうしても結婚したくない新郎が、初夜の時に花嫁に言う……」



 そこまで言って、ヨハンナは急に視界が反転したことに驚いた。

 さっきまでベッドサイドに立っていたはずが、背中がふかふかのベッドスプリングに沈んでバインバインしている。それどころか、目の前には自分に覆い被さるミヒャエルの顔がある。そして、近い。


「坊ちゃま。何もないところで躓きましたか?」


 坊ちゃまは最近めっきり外に出なくなってしまったので、足腰が弱ってしまったのか。ヨハンナはミヒャエルを押しのけようとした。しかし、その両方の手首はミヒャエルに掴まれてしまう。ようやくヨハンナは、ミヒャエルの異変に気がついた。


「……坊ちゃま?」


「ずっと側にいるものだと思っていた。ヨハンナがいなくなることは受け入れられない」


「坊ちゃま?」


「ずっと側にいろ。初恋の相手を逃す馬鹿な男にはなるつもりはない」


「……」


「何とか言って。ヨハンナ」


 さっきまでとは全く違うミヒャエルに、ヨハンナは頭に、顔に、体中に心臓があるのではないかというぐらいドキドキ、バクバクと激しい鼓動に襲われる。

 三度の婚約破棄、噂、侍女としての立場、伯爵夫妻と両親のこと、十歳から見ていた六歳も年下の……

 様々なことをフル回転で考える。考えて考えて、ヨハンナの口から言葉が出た。



「満点です。ミヒャエル様」








最後までお読み下さりありがとうございます。

ハッピーエンドじゃなかったら事件だぞ、バカ息子と思われた方もそうでない方も、評価や応援していただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
婚約破棄を言い出した婚約者たちも酷いが、こんなことを言い出す坊っちゃまもけっこうヒドイ。 ちゃんと奥さんに叱られなさいね、坊っちゃま改めだんな様。 それでもちゃんと好きな相手に好きと伝えられるのはい…
タイトルが「婚約者破棄」になっているので、脳内にちょっと怖い絵面が浮かんでしまいました。 オチが良かったです。
坊ちゃまの迷走ぶりが可哀想なのに面白く、最後には満点を貰えるハッピーエンドで見ていてにっこりしました! 可愛いお話をありがとうございます!
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