第九話「呼ばれた聖女」
リゼルは、また夢の中にいた。
真っ白な光の空間。神の領域。
『リゼル』
「神様……」
リゼルは立ち上がった。
「また、呼んだんですね」
『ああ。君と、話がしたくてね』
神の声は優しい。
『最後の奇跡、見事だったよ』
「……ありがとうございます」
リゼルは複雑な表情をした。
「でも、もう本当に最後です。私は……」
『分かっている』
神は言った。
『君はもう、聖女ではない』
「はい」
『でも、君には聞きたいことがある』
「何ですか?」
『君は、後悔していないか?』
リゼルは考えた。
「……していません」
「本当に?」
「ええ。確かに、五年間は苦しかった。でも、あの経験があったから、今の私がいる」
リゼルは微笑んだ。
「自分で選択する勇気を持てた。それだけで、十分です」
『そうか』
神の声が嬉しそうに響く。
『なら、もう一つ聞こう』
「何でしょう」
『君は、奇跡を起こすことは嫌いか?』
リゼルは首を振った。
「嫌いじゃありません。誰かを助けるのは、嬉しいことです」
「ただ……」
「ただ?」
「強制されるのが嫌だっただけです」
リゼルは真っ直ぐ答えた。
「自分の意志で、心から誰かを救いたいと思った時に奇跡を起こす。それなら、私は喜んでやります」
『なるほど』
神は満足そうに言った。
『なら、君に提案がある』
「提案……?」
『君に、新しい役割を与えたい』
「え……?」
『聖女ではなく──"自由な奇跡使い"として』
リゼルは目を見開いた。
「それって……」
『君は組織に縛られない。誰の命令も受けない。ただ、君が救いたいと思った人を救う』
神の声が続く。
『それが、君の新しい役割だ』
「でも、それじゃ……」
『何も変わらない? いや、違う』
神は言った。
『君は自由だ。休みたい時は休む。奇跡を起こしたくない時は起こさない。全て、君が決める』
「私が……決める……」
『そう。君の人生は、君のものだ』
リゼルの目に涙が滲んだ。
「それって……本当にいいんですか……?」
『もちろん。君は、それだけの資格がある』
「神様……」
『さあ、目を覚ましなさい。新しい人生が、君を待っている』
光が消えていく。
『そして、リゼル』
「はい?」
『休むことも、立派な祈りだよ』
�*
「リゼル様!」
ミナの声で目が覚めた。
「ここは……」
「医療室です。三日間、眠っていました」
「三日……」
リゼルは体を起こした。まだ少し重いが、動ける。
「結界は?」
「完璧です。魔物は完全に撃退されました」
ミナは嬉しそうに言った。
「街は平和を取り戻しています」
「良かった……」
リゼルは安堵の息を吐いた。
「でも、リゼル」
「何?」
「あなた、本当に大丈夫? すごい力を使ったのに……」
「うん、大丈夫」
リゼルは微笑んだ。
「不思議と、体が軽いの」
「そう……なら良かった」
*
その日の午後、枢機卿が訪ねてきた。
「リゼル、体調はどうだ?」
「もう大丈夫です」
「そうか……良かった」
枢機卿は深く息を吐いた。
「君には、感謝してもしきれない」
「いえ……」
「だが、約束は守る」
枢機卿は真剣な顔で言った。
「もう二度と、君を聖女として呼ばない。君は自由だ」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。君のおかげで、我々は多くを学んだ」
枢機卿は微笑んだ。
「奇跡とは何か。信仰とは何か。そして、人の強さとは何か」
「枢機卿様……」
「さあ、もう行きなさい。君の故郷が待っている」
*
リゼルが大聖堂を出ようとした時、大勢の人々が集まっていた。
「リゼル様!」
「ありがとうございました!」
人々が口々に感謝を述べる。
「いえ、私は……」
「あなたのおかげで、私たちは守られました!」
「でも、無理はしないでくださいね!」
人々の言葉は、以前とは違っていた。
要求ではなく、感謝。
期待ではなく、労り。
「みなさん……」
リゼルは涙を流した。
「ありがとうございます」
*
ミナが門まで見送ってくれた。
「リゼル、またいつか会える?」
「もちろん。今度は友達として、ゆっくりお茶でもしましょう」
「約束よ」
「うん」
二人は抱き合った。
「ねえ、ミナ」
「何?」
「あなたなら、立派な聖堂の指導者になれるわ」
「え……?」
「だって、あなたは人の心が分かる。それが一番大切なことだから」
「リゼル……」
「頑張ってね」
「うん……!」
*
王都を出て、故郷への道を歩くリゼル。
でも、その足取りは軽かった。
「不思議……」
以前は、王都を去る時は罪悪感でいっぱいだった。
でも今は違う。
「やり切ったんだ、私」
自分の意志で、最後の奇跡を起こした。
誰かに命令されたわけじゃない。
自分が救いたいから、救った。
「これが、本当の奇跡なんだね」
空が青く、風が心地よかった。
*
道中、小さな村を通りかかった時、子供が転んで泣いていた。
「痛いよー!」
膝を擦りむいている。母親が慌てて駆け寄る。
リゼルは一瞬迷ったが──。
「ちょっといいですか?」
母親に声をかけた。
「はい……?」
「私、少しだけ治癒の心得があるんです。見せてもらえますか?」
「あ、ありがとうございます!」
リゼルは優しく子供の膝に手を当てた。
淡い光が漏れる。
「あ……痛くない……!」
子供の目が輝いた。
「すごい! ありがとうございます!」
「どういたしまして」
リゼルは微笑んで、また歩き出した。
「これなら……いいよね」
小さな奇跡。
義務ではなく、優しさから生まれる奇跡。
「こういう使い方なら、私も嬉しい」
*
村に帰り着いたのは、夕暮れ時だった。
「ただいま!」
リゼルが声をかけると、エマが飛び出してきた。
「リゼル!」
二人は抱き合った。
「おかえり! 心配したんだから!」
「ごめん、ごめん。でも、無事だよ」
「良かった……本当に良かった……」
エマは泣いていた。
「さあ、入って。みんな待ってるから」
「みんな?」
家の中には、村人たちが集まっていた。
「おかえり、リゼル!」
「よく頑張ったな!」
村人たちが口々に声をかけてくれる。
テーブルには、ご馳走が並んでいた。
「これは……」
「歓迎パーティーよ。あんたのために」
エマが笑った。
「さあ、座って。今日はゆっくり休みなさい」
「みんな……ありがとう……」
リゼルは涙を流しながら、椅子に座った。
温かい食事。
優しい笑顔。
これが、私の居場所。
「ただいま」
もう一度、心から言った。
(第九話・終)