第八話「王都、崩壊寸前」
しかし、全てが順調なわけではなかった。
王都では、新たな問題が浮上していた。
「枢機卿様、大変です!」
神官が血相を変えて飛び込んできた。
「どうした?」
「北の国境で、魔物の群れが! 聖女様の結界の祝福が切れて、魔物が侵入し始めています!」
枢機卿の顔が青ざめた。
「何だと!?」
*
王城では、緊急会議が開かれていた。
「状況を報告せよ」
王が厳しい顔で言う。
「はっ。北の国境に、約五百体の魔物が出現。村を襲い、既に三つの村が壊滅しました」
騎士団長が報告する。
「聖女の結界は?」
「完全に消失しています。リゼル様が定期的に施していた祝福が切れたためかと」
「くそ……!」
王太子が拳で机を叩いた。
「だから言ったのだ! 聖女を手放すべきではなかったと!」
「殿下、今は責任追及の時では……」
「黙れ! 聖女がいれば、こんなことにはならなかった!」
会議室が騒然となる。
*
その頃、村ではリゼルが平穏な日々を送っていた。
「今日もいい天気」
畑で野菜を収穫しながら、リゼルは微笑んでいた。
「リゼル、手伝うわ」
エマが駆け寄ってくる。
「ありがとう」
二人で黙々と作業をする。
「ねえ、リゼル」
「何?」
「王都、大丈夫かな」
「……多分」
リゼルは少し不安そうに言った。
「ミナたちが頑張ってくれてるはずよ」
「そうだといいけど」
*
その夜、リゼルは悪夢を見た。
炎に包まれる王都。
魔物に襲われる人々。
そして、ミナの叫び声。
『リゼル様! 助けて!』
「っ!」
リゼルは跳ね起きた。汗びっしょりだ。
「夢……?」
でも、妙にリアルだった。
「まさか……」
不安が胸を締め付ける。
*
翌朝、村に旅人が訪れた。
「大変だ! 王都が魔物に襲われるらしい!」
「何だって!?」
村人たちが騒ぎ始める。
「北の国境から魔物の群れが南下してるって! このままじゃ王都が……!」
リゼルは息を呑んだ。
「やっぱり……」
「リゼル、これって……」
エマが心配そうに見る。
「聖女の結界が切れたんだわ」
リゼルは震える声で言った。
「私が定期的に施していた、国境の防御結界……」
「それって、あんたしかできないの?」
「ええ……多分……」
*
その日の夜、リゼルは眠れなかった。
「どうしよう……」
王都が襲われる。ミナが、枢機卿が、あの街の人々が危険に晒される。
「でも、私が行ったら……」
また聖女に戻されるかもしれない。
せっかく手に入れた自由を、また失うかもしれない。
「どうすればいいの……」
リゼルは頭を抱えた。
*
翌日、さらに悪い知らせが届いた。
「魔物の群れ、王都まであと三日!」
「騎士団が迎撃に出たが、数が多すぎて……!」
村人たちがパニックになる。
「このままじゃ、王都が落ちる!」
「俺たちの村も、いずれ襲われるぞ!」
リゼルは決断を迫られていた。
「私が……行けば……」
「リゼル、まさか……」
エマが止めようとする。
「でも、このままじゃみんなが……!」
「あんたは悪くない! あんたが全てを背負う必要はないのよ!」
「分かってる……でも……!」
リゼルの目に涙が溢れた。
「ミナが……みんなが死んじゃうかもしれないのに、見てるだけなんて……できない……!」
*
その時、村の教会から光が漏れた。
「あれは……」
リゼルが駆けつけると、祭壇が淡く光っていた。
『リゼル』
神の声。
「神様……!」
『君は、どうしたい?』
「え……」
『命令ではない。君自身は、どうしたいのか聞いている』
リゼルは考えた。
「私は……」
本当は、分かっていた。
「行きたい。みんなを助けたい」
『なら、行きなさい』
「でも……私が行ったら、また聖女に戻されるかもしれません……」
『それでも?』
「……それでも」
リゼルは涙を拭った。
「私は、ミナを……みんなを、見捨てられない」
『なら、答えは出ているね』
神の声が優しく響く。
『リゼル、君は強くなった』
「え……」
『自分で選択できるようになった。それが、本当の強さだ』
光が強くなる。
『行きなさい。そして、君の意志で奇跡を起こしなさい』
「はい……!」
*
リゼルは村を出る準備を始めた。
「本当に行くの?」
エマが心配そうに聞く。
「うん。ごめんね、せっかく平和に暮らせてたのに」
「謝らないで。あんたらしいわ」
エマは微笑んだ。
「困ってる人を放っておけない。それがあんたの良いところだもん」
「エマ……」
「でも、約束して」
「何?」
「必ず帰ってくること。あんたの居場所は、ここにあるんだから」
「……うん!」
二人は抱き合った。
*
リゼルが村を出ようとした時、村人たちが集まっていた。
「リゼル、これを持っていけ」
村長が食料の入った袋を渡してくれた。
「ありがとうございます」
「無理すんなよ」
「あんたは、もう十分頑張ったんだから」
村人たちが次々と声をかけてくれる。
「みんな……」
リゼルは涙を堪えた。
「必ず、戻ってきます」
「ああ、待ってるぞ」
*
王都への道を急ぐリゼルの前に、突然人影が現れた。
「誰!?」
「落ち着いて、リゼル様」
それはミナだった。
「ミナ!? どうしてここに!?」
「あなたが来ると思って、迎えに来ました」
ミナは微笑んだ。
「分かってたの?」
「ええ。あなたは、困ってる人を見捨てられない。そういう人だから」
「ミナ……」
「さあ、急ぎましょう。王都まで、時間がありません」
二人は馬に乗り、王都へ向かって駆け出した。
*
道中、ミナが状況を説明した。
「魔物の群れは約五百体。このままでは、明日の夕刻には王都に到達します」
「騎士団は?」
「迎撃に出ましたが、聖女様の祝福がない武器では、魔物に傷をつけることすら難しく……」
ミナの声が震える。
「既に騎士の三分の一が負傷しています」
「そんな……」
「リゼル、あなたに頼るのは本当に申し訳ない。でも……」
「いいのよ」
リゲルは微笑んだ。
「今回は違う。誰かに命令されたわけじゃない。私が、私の意志で決めたの」
「リゼル……」
「だから、謝らないで。これは、私がやりたいことなんだから」
*
王都に到着したのは、翌日の正午だった。
街は混乱していた。人々が荷物をまとめて逃げ出そうとしている。
「聖女様だ!」
「リゼル様が戻ってきた!」
人々が駆け寄ってくる。
「助けてください!」
「お願いします!」
でも、リゼルは立ち止まらなかった。
「ミナ、大聖堂へ!」
「はい!」
*
大聖堂では、枢機卿が待っていた。
「リゼル……!」
「枢機卿様、状況を」
「魔物の群れは、あと数時間で王都に到達する。騎士団は持ちこたえられない」
枢機卿は苦渋の表情で言った。
「君に頼るのは、本当に心苦しい。だが……」
「分かっています」
リゼルは真っ直ぐ枢機卿を見た。
「私は、国境に結界を張り直します」
「本当か!?」
「ええ。でも、条件があります」
「何でも聞こう」
「これが最後です。私はこれで、本当に聖女を引退します」
リゼルの声は確固としていた。
「二度と、私を呼ばないでください」
「……分かった」
枢機卿は深く頭を下げた。
「約束しよう」
*
リゼルは大聖堂の最上階、かつて自分の執務室だった部屋に入った。
「懐かしい……」
机も、椅子も、窓からの景色も、全て覚えている。
「でも、もう私の場所じゃない」
リゼルはクローゼットから、白い聖女衣を取り出した。
「最後だから……ちゃんとした格好で」
聖女衣を身に纏う。久しぶりの感触。
「さあ、行きましょう」
*
大聖堂の広場に、人々が集まっていた。
貴族も、平民も、商人も、皆が不安そうにリゼルを見ている。
「皆さん」
リゼルは壇上に立った。
「私は今から、国境に結界を張り直します」
どよめきが起こる。
「でも、これが最後です」
リゼルの声が響く。
「今回の結界は、十年間持続します。その間に、皆さんは自分たちで国を守る方法を考えてください」
「十年……」
「奇跡に頼らず、人の力で」
リゼルは微笑んだ。
「皆さんならできます。私は、信じています」
会場が静まり返った。
そして──拍手が起こった。
「ありがとう、リゼル様!」
「あなたは、本当の聖女だ!」
人々の声援が広場を包む。
*
リゼルは大聖堂の屋上に立った。
ミナと枢機卿だけが、そばにいる。
「リゼル、準備はいいか?」
「はい」
リゼルは深呼吸をした。
「これが、私の最後の奇跡」
両手を天に掲げる。
体から光が溢れ出した。
『神よ、どうか力を』
祈りが響く。
『この国を、人々を、守りたまえ』
光が強くなる。
『でも、これが最後です』
リゼルの声が震えた。
『次は、人々が自分たちで守ります』
光が空へ昇っていく。
『だから、どうか──』
涙が零れた。
『この最後の奇跡を、お受けください』
*
光は空高く昇り、星のように輝いた。
そして──国境へ向かって流れ星のように飛んでいく。
北の空が、白く光った。
「結界が……!」
枢機卿が叫ぶ。
「張られた! 国境全域に、巨大な結界が!」
魔物の群れが結界に阻まれ、弾き返されていく。
「やった……!」
ミナが歓喜の声を上げる。
でも──。
「リゼル!」
リゼルの体が、崩れ落ちた。
「リゼル様!」
ミナが駆け寄る。
「大丈夫……ちょっと、力使いすぎただけ……」
リゼルは弱々しく笑った。
「結界は……?」
「完璧です! 十年は持ちます!」
「良かった……」
リゼルの目が閉じかけた。
「ミナ……約束、守ってね……」
「え?」
「もう、私を……呼ばないで……」
「リゼル……!」
リゼルの意識が遠のいていく。
(第八話・終)