第六話「それでも私は退職します」
王都に着いたのは、三日後のことだった。
「変わってない……」
リゼルは城壁の前で呟いた。
大聖堂の尖塔が空に聳え立つ。かつて自分が住んでいた場所。
「リゼル、大丈夫?」
ミナが心配そうに声をかける。
「ええ。行きましょう」
二人は城門を潜った。
*
しかし、街の様子は異常だった。
「水を! 水をください!」
「誰か医者を! 子供が熱を!」
路地には病人が溢れ、人々は疲弊していた。
「ひどい……」
リゼルは息を呑んだ。
こんなにも、奇跡がない世界は過酷なのか。
「疫病が蔓延してから、もう一ヶ月になります」
ミナが説明する。
「医者たちは必死に治療していますが、薬も人手も足りません」
「……」
「聖女様の大規模治癒の儀式があれば、一度に数百人を癒せるんです」
罪悪感が胸を締め付ける。
「私が、もっと早く来ていれば……」
「いいえ」
ミナは首を振った。
「あなたは何も悪くありません。悪いのは、あなたに頼りすぎた私たちです」
*
大聖堂に着くと、枢機卿エルヴィンが待っていた。
「よくぞ戻られた、聖女様!」
「聖女様ではありません。リゼルです」
リゼルは毅然と言った。
「私は一度だけ、治癒の儀式を行うために来ました。それ以上でも、それ以下でもありません」
枢機卿の顔が強張る。
「……分かりました。では、すぐに準備を」
「待ってください」
リゼルは手を上げた。
「その前に、話したいことがあります」
「話?」
「ええ。この聖堂の全神官と、王都の貴族たちを集めてください」
「何を……」
「私の、最後の言葉を聞いてもらいます」
*
一時間後、大聖堂の大広間には数百人が集まっていた。
神官たち、貴族たち、そして王太子までもが出席している。
リゼルは壇上に立った。普通の旅装束のまま。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」
静寂。
「私は、元聖女のリゼル・アルティナです。今日は、皆さんにお伝えしたいことがあります」
リゼルは深く息を吸った。
「奇跡は、仕事ではありません」
会場がざわついた。
「五年間、私は聖女として奇跡を起こし続けました。でも、それは『業務』として処理されました」
「何を言って……」
枢機卿が口を挟もうとする。リゼルは手で制した。
「朝から晩まで、申請書を処理し、スケジュールをこなし、評価され、もっともっとを求められました」
会場が静まり返る。
「奇跡は、神の恵みのはずです。でも、いつからか『当たり前のサービス』になっていました」
「聖女様、それは……」
「私は人間です」
リゼルの声が響く。
「心も体も限界でした。だから、私は逃げました。自分を守るために」
王太子が立ち上がった。
「では、疫病で死んだ三百人は!? 干ばつで苦しむ農民は!? 全て見捨てるというのか!?」
「見捨てたのではありません」
リゼルは真っ直ぐ王太子を見た。
「私は、私を守っただけです」
「身勝手だ!」
「身勝手で結構」
会場が騒然とする。
「私は一人の人間です。全ての人を救う義務はありません」
「神に選ばれた聖女だろう!?」
「神は私に、力を与えました。でも、奴隷になれとは言っていません」
リゼルの言葉に、会場が凍りついた。
「皆さん、考えてください」
リゼルは静かに言った。
「奇跡に頼りすぎていませんでしたか? 自分たちで解決する努力を、忘れていませんでしたか?」
「だが、奇跡があれば解決できることを……!」
「それは、私の心と体を削って生まれるものなんです」
リゼルの声が震えた。
「私は、もう疲れました。だから、辞めました」
*
長い沈黙の後、一人の老医師が立ち上がった。
「リゼル様……いえ、リゼルさん」
「はい」
「私は王都の医療院で働く医者です。正直に言います……私たちは、あなたに頼りすぎていました」
会場がざわつく。
「治癒の奇跡があれば、どんな病気も一瞬で治る。だから、私たちは医術の研鑽を怠っていました」
老医師は頭を下げた。
「あなたがいなくなって、私たちは気づきました。自分たちがどれだけ無力か。そして、それがどれだけ恥ずべきことか」
「先生……」
「疫病で死んだ三百人……確かに、あなたがいれば救えたかもしれません」
老医師の声が震える。
「でも、本来なら私たち医者が救うべきだった。それができなかったのは、私たちの責任です」
リゼルの目に涙が滲んだ。
「ありがとうございます……」
「いいえ。謝らなければならないのは、私たちです」
老医師は深く頭を下げた。
「あなたを、道具のように扱ってしまって……申し訳ありませんでした」
*
その時、一人の農民が立ち上がった。
「俺も言わせてくれ」
粗末な服を着た、日焼けした中年男性。
「俺は辺境の農民だ。今年の干ばつで、畑は全滅した」
男は拳を握りしめた。
「正直、聖女様を恨んだよ。豊穣の祝福があれば、作物は育ったのにって」
「……」
「でも、村の長老が言ったんだ。『昔は祝福なんてなかった。それでも人は生きてきた』って」
男は笑った。
「だから、俺たちは考えたんだ。祝福なしで、どうやって畑を守るか」
「どうやって……?」
「灌漑路を作った。川から水を引いて、畑に流す水路だ」
男の目が輝いた。
「時間はかかった。村総出で三ヶ月。でも、できたんだ。自分たちの力で」
会場に驚きの声が広がる。
「来年は、祝福がなくても作物が育つ。なぜなら、俺たちが自分で守るからだ」
男はリゼルを見た。
「聖女様……いや、リゼルさん。あんたが辞めてくれて、良かったのかもしれない」
「え……」
「俺たちは、自分の足で立つことを思い出した。それは、奇跡よりも大切なことだったんだ」
男は深く頭を下げた。
「ありがとう」
*
一人、また一人と、人々が声を上げ始めた。
「私たちの村も、自分たちで井戸を掘りました」
「医者たちが協力して、新しい治療法を編み出しています」
「商人たちが助け合って、物資を分配しています」
リゼルは呆然と聞いていた。
奇跡がない世界で、人々は確かに苦しんだ。
でも──自分たちの力で、立ち上がろうとしている。
「みんな……」
涙が溢れた。
「私は……私は間違ってなかったんですね……」
「ああ」
枢機卿エルヴィンが立ち上がった。
「私も……謝らなければならない」
会場が静まり返る。
「リゼル、私はあなたを追い詰めた。休むことも許さず、もっともっとと要求した」
枢機卿の声が震える。
「それは、聖堂の威信を保つためだった。聖女がいれば、人々は聖堂に従う。権力を維持できる」
「枢機卿様……」
「私は、神のためではなく、自分のためにあなたを利用していた」
枢機卿は深く頭を下げた。
「許してくれとは言わない。だが……すまなかった」
リゼルは震える声で言った。
「私も……少し意地になっていました。全てを拒絶することで、自分を守ろうとして」
「いや、それでよかったのだ」
枢機卿は顔を上げた。
「あなたが去ったことで、私たちは気づくことができた。奇跡とは何か。信仰とは何か」
「……」
「奇跡は、神からの恵みだ。それを当然だと思い、要求し、管理しようとした私たちが間違っていた」
枢機卿は壇上のリゼルを見た。
「だから、リゼル。あなたはもう聖女に戻らなくていい」
「え……」
「あなたは自由だ。自分の人生を生きなさい」
会場から拍手が起こった。
リゼルは泣き崩れた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
*
しかし、王太子が声を荒げた。
「待て! 理想論はもういい!」
会場が静まる。
「現実問題として、今も疫病で苦しんでいる者がいる! 彼らをどうする!?」
「それは……」
「聖女の治癒がなければ、さらに数百人が死ぬぞ!」
王太子はリゼルを指差した。
「お前が一度儀式を行えば、全て解決するんだ! それをせずに去るのか!?」
「私は……」
リゼルは迷った。
確かに、今すぐ治癒の儀式を行えば、多くの命が救える。
でも──。
「それでも、私は退職します」
リゼルは毅然と言った。
「え……?」
「一度儀式を行えば、また同じことの繰り返しになる。人々は奇跡に頼り、私は再び道具になる」
「だが、命が……!」
「だからこそ、です」
リゼルは真っ直ぐ王太子を見た。
「今ここで私が屈したら、何も変わらない。人々は『やっぱり奇跡に頼ればいい』と思ってしまう」
「貴様……!」
「私は、人々を信じます」
リゼルの声が響く。
「奇跡がなくても、自分たちの力で乗り越えられると」
*
その時、ミナが立ち上がった。
「王太子殿下」
「何だ?」
「私たち聖堂の神官が、できることがあります」
「神官? お前たちに奇跡は使えないだろう」
「奇跡は使えません。でも、看護はできます」
ミナは力強く言った。
「私たちは今まで、ただ聖女様の補佐をするだけでした。でも、私たちにも手があります。足があります」
他の神官たちも立ち上がり始める。
「医者たちと協力して、病人を看護します」
「水を運び、薬を配り、手を握ります」
「奇跡ではなく、人の手で」
リゼルは驚いて見ていた。
「ミナ……みんな……」
「リゼル、あなたが教えてくれました」
ミナは微笑んだ。
「奇跡は、神が起こすものじゃない。人の心が起こすものだって」
「だから、私たちは自分たちで奇跡を起こします」
会場から再び拍手が起こった。
*
王太子は悔しそうに舌打ちして、座り込んだ。
「……好きにしろ」
リゼルは壇上から降りた。
集まった人々が、一人ずつ彼女に頭を下げていく。
「ありがとう、リゼル」
「あなたのおかげで、目が覚めました」
「どうか、幸せに」
リゼルは一人一人に微笑みを返した。
*
大聖堂を出る時、枢機卿が声をかけてきた。
「リゼル、最後に一つだけ」
「はい」
「もし、いつかまた奇跡を起こしたくなったら……その時は自分の意志で起こしなさい」
「……はい」
「命令されるのではなく、心から誰かを救いたいと思った時に」
枢機卿は優しく笑った。
「それが、本当の奇跡だ」
「ありがとうございます」
*
ミナが門まで見送ってくれた。
「リゼル、本当にもう会えないの?」
「ううん。また会えるわ」
「本当?」
「ええ。今度は友達として」
リゼルは微笑んだ。
「もう上司と部下じゃなくて、対等な友達として」
「うん……!」
ミナは涙を流して頷いた。
「必ず、また会いに行くね」
「待ってる」
二人は抱き合った。
*
リゼルは王都を後にした。
振り返らずに、故郷への道を歩く。
「私は、私の人生を取り戻した」
空は晴れ渡っていた。
奇跡のない世界。
でも、人々は自分の足で歩き始めている。
「これでいいんだ」
リゼルは微笑んだ。
(第六話・終)