第五話「元部下、ミナ来訪」
村に秋の風が吹き始めた頃、ミナが再び訪れた。
「リゼル様」
今回は騎士団を連れていない。一人で、旅装束で。
「ミナ……また来たの」
リゼルは村の畑で、野菜の収穫をしていた。泥だらけの姿。聖女時代からは想像もできない姿。
「はい。お話があって」
「王都に戻れって言うなら、答えは変わらないわ」
「分かってます」
ミナは静かに言った。
「今日は、お願いではなく……現状をお伝えしに来ました」
「現状?」
「ええ。王都が、どうなっているか」
*
村の小さな酒場で、二人は向かい合って座った。
「王都では、混乱が続いています」
ミナは疲れた顔で話し始めた。
「疫病はまだ収まっていません。治癒の奇跡がないので、医者たちが必死に治療していますが……死者は三百人を超えました」
リゼルの顔が青ざめる。
「辺境では干ばつが深刻化しています。豊穣の祝福がないので、今年の収穫は壊滅的です」
「……」
「それだけではありません。浄化の奇跡がないので、各地で水が汚染されています。飲み水を求めて、人々が争い始めています」
ミナの声が震えた。
「全て……リゼル様がいなくなったせいです」
「やめて……」
「でも、事実です」
ミナは涙を浮かべた。
「私たちは、あなたがどれだけ大切な存在だったか……失ってから気づいたんです」
リゼルは俯いた。
「私のせいで……そんなに多くの人が……」
「リゼル様、お願いします。戻ってきてください」
「ミナ……」
「私は、あなたがどれだけ苦しんでいたか……今なら分かります」
ミナは震える声で続けた。
「あなたが倒れた日、私は何もできませんでした。ただ、次の予定を告げることしか」
「ミナは悪くない……」
「悪いです! 私は、あなたを道具のように扱っていました!」
ミナは泣き崩れた。
「だから、今度は違います。お願いですから……せめて、一度だけでも……!」
*
長い沈黙の後、リゼルは言った。
「ミナ、ちょっと散歩しない?」
「え……?」
「話したいことがあるの」
二人は村の外れ、丘の上へ向かった。
*
「綺麗……」
ミナは息を呑んだ。
丘の上からは、村全体が見渡せる。夕日に照らされた田園風景。
「ここが、私の故郷」
リゼルは穏やかに言った。
「五年ぶりに帰ってきて、こんなに美しい場所だったんだって気づいた」
「リゼル様……」
「聖女になってから、私は景色を見る余裕もなかった。いつも次の仕事のことばかり考えてた」
リゼルは座り込んだ。ミナも隣に座る。
「ミナ、聞いて」
「はい……」
「私がここに来て、一番驚いたこと。それはね──」
リゼルは微笑んだ。
「奇跡がなくても、人は生きていけるってこと」
「え……」
「この村も最初は困ってた。井戸水が濁って、浄化の祝福がなくて。でもね、村人たちは新しい井戸を掘ったの」
「……」
「時間はかかった。でも、自分たちの力でやり遂げた。その時の彼らの笑顔……奇跡で解決した時よりも、ずっと輝いていた」
ミナは黙って聞いていた。
「奇跡って、便利だけど……人から『自分で解決する力』を奪ってしまうのかもしれない」
「でも、リゼル様」
ミナは言った。
「新しい井戸を掘れない人はどうするんですか? 医者がいない村の病人は? 干ばつで全てを失った農民は?」
「……それは」
「全ての人が、自力で解決できるわけじゃありません。奇跡が必要な人は、確かにいるんです」
リゼルは言葉に詰まった。
「私は……どうすればいいの……」
「分かりません」
ミナは正直に言った。
「でも、少なくとも……王都に戻って、一度だけでも大規模な治癒の儀式を行えば、疫病は収まるはずです」
「一度だけ……?」
「はい。それで、とりあえずは最悪の事態は避けられます」
リゼルは考え込んだ。
「一度だけ……なら……」
「お願いします、リゼル様」
ミナは深く頭を下げた。
「あなたの人生を奪うつもりはありません。ただ、一度だけ……力を貸してください」
*
リゼルは夜空を見上げた。
星が瞬いている。
「神様……私、どうすればいいんですか……」
答えは返ってこない。
でも──。
「分かった」
リゼルは立ち上がった。
「一度だけ、王都に行く」
「リゼル様!」
「でも、条件がある」
「何でしょう!」
「私は聖女としてではなく、一人の人間として行く。だから、聖女衣は着ない」
「はい……!」
「それと、儀式が終わったら、すぐにここに帰る。引き留めないで」
「分かりました!」
ミナは涙を流して頷いた。
「ありがとうございます、リゼル様……!」
「リゼルでいいわ。もう聖女様じゃないから」
「リゼル……ありがとう……!」
二人は抱き合った。
*
翌朝、リゼルは村人たちに別れを告げた。
「少しの間、王都に行ってくる」
「リゼル……大丈夫なの?」
エマが心配そうに言う。
「大丈夫。すぐ帰ってくるから」
「無理しないでね」
「うん。ありがとう、エマ」
リゼルはミナと共に、王都への道を歩き始めた。
久しぶりの「聖女の仕事」。
でも、今回は違う。
「私は、私の意志でやる」
リゼルは自分に言い聞かせた。
「誰かに命令されるんじゃなく、自分で決めた」
その一歩が、彼女を大きく変えることになる。
(第五話・終)