第四話「神の声はもう聞こえない」
夢を見ていた。
真っ白な空間。どこまでも続く光の世界。
リゼルは裸足でその中を歩いていた。
「ここは……」
見覚えがある。五年前、聖女として覚醒した時に見た光景。
「また、ここに来たんだ」
『リゼル』
声が響いた。神の声。
「神様……」
『よく来たね』
光の中に、人型のシルエットが浮かび上がる。でも、はっきりとした姿は見えない。
「どうして……私を呼んだんですか」
『君に、話があるんだ』
リゼルは警戒した。
「もし、王都に戻れって言うなら……」
『違うよ』
神の声は優しかった。
『君を責めるために呼んだんじゃない。謝るために呼んだんだ』
「謝る……?」
『そう。君を、追い詰めてしまったことを』
リゼルは目を見開いた。
「神様が……謝る……?」
『私は君に、聖女の力を与えた。でも、その力の使い方までは教えなかった』
神の声が続く。
『君は真面目で優しいから、全ての願いに応えようとした。自分を犠牲にしてでも』
「それは……」
『でも、それは間違っていたんだ』
リゼルの胸が熱くなった。
「何が……間違っていたんですか」
『奇跡は、無限じゃない。君の心と体を削って生まれるものだ』
神は言った。
『それなのに、人々は奇跡を当然のものだと思い込んでしまった。君も、断ることができなくなってしまった』
「でも、私は聖女として選ばれたんです。人々を救うのが、私の使命じゃないんですか」
『使命と、自己犠牲は違う』
神の声が強くなった。
『君が壊れてしまったら、誰も救えない。だから、私は君が逃げたことを──正しいと思っているよ』
涙が溢れた。
「神様……」
『休みなさい、リゼル。君は十分に頑張った』
「でも……奇跡が消えて、困ってる人がたくさんいます」
『それは、人々が学ぶべきことなんだ』
神は言った。
『奇跡に頼らず、自分たちの力で生きることを』
「本当に……それでいいんですか」
『ああ。君は何も心配しなくていい』
光が強くなっていく。
『ゆっくり休んで、また笑えるようになったら──その時は、また会おう』
「待って、神様!」
リゼルは叫んだ。
「私は……本当に、このままでいいんですか? 聖女として、もう何もしなくていいんですか?」
『君は、もう十分にした』
神の声が遠くなる。
『次は、人々が動く番だ』
「神様……!」
『さよなら、リゼル。また会おう』
光が消えた。
*
「はっ……!」
リゼルは跳ね起きた。
朝日が窓から差し込んでいる。夢だった。
「神様……」
涙が頬を伝っていた。でも、不思議と心は軽かった。
「許してくれたんだ……」
五年間、ずっと自分を縛っていた「聖女としての責任」。
それから、少しだけ解放された気がした。
*
その日、リゼルは村の畑仕事を手伝っていた。
「リゼル、そっちの雑草取って」
「はーい」
エマと一緒に、黙々と作業をする。
泥だらけになりながら、汗を流す。
「ねえ、リゼル」
「何?」
「楽しそうだね」
「え?」
「顔。すごく穏やかになった」
リゼルは手を止めて、自分の顔を触った。
「そうかな」
「うん。村に帰ってきた時は、まだ苦しそうだったけど。今は、ちゃんと笑えてる」
「……ありがとう」
二人は微笑み合った。
�*
夕方、村の井戸端で、村人たちが集まっていた。
「新しい井戸、掘り終わったぞ!」
「おお! 水は?」
「綺麗だ! 飲めるぞ!」
歓声が上がる。
奇跡の浄化がなくても、人々は新しい井戸を掘った。時間はかかったけど、自分たちの力で問題を解決した。
「やったね、エマ」
「うん! みんな頑張ったもんね」
リゼルはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
「奇跡がなくても……人は、生きていけるんだ」
胸が温かくなった。
*
しかし、全てが順調なわけではなかった。
その夜、村に旅人が訪れた。
「頼む……誰か、治癒の奇跡を……!」
男は血まみれで、肩に矢傷を負っていた。
「盗賊に襲われて……仲間が、まだ森に……!」
村人たちが慌てて駆け寄る。
「誰か医者を!」
「でも、この村には……!」
「聖女様がいれば、すぐに治せるのに……!」
リゼルは固まった。
目の前で、男が苦しんでいる。治癒の奇跡を使えば、すぐに助けられる。
でも──。
「私が……やれば……」
足が震えた。
一度奇跡を使ったら、また聖女に戻ってしまう。また、あの生活に引き戻される。
「リゼル……」
エマが心配そうに見ている。
「大丈夫……私は、もう……」
リゼルは拳を握り締めた。
「私は、聖女じゃない……」
男は村人たちの応急処置で、何とか命を取り留めた。
でも、リゼルは一晩中眠れなかった。
*
翌朝、エマが訪ねてきた。
「リゼル、昨日のこと……」
「ごめん……私、何もできなかった……」
「謝らないで。あんたは何も悪くない」
エマは優しく言った。
「あの人は助かったわよ。村の薬草で傷を塞いで、今は安静にしてる」
「そう……良かった……」
「ね え、リゼル」
エマは真剣な顔で言った。
「あんたが助けなかったことを、誰も責めてないよ」
「でも……」
「みんな分かってる。あんたに頼るのは、もう違うって」
リゼルは涙を堪えた。
「私……本当に、これでいいのかな」
「いいのよ。あんたは、あんたの人生を生きればいい」
二人は抱き合った。
*
その夜、リゼルはまた教会を訪れた。
「神様……私、まだ迷ってます」
祭壇に向かって呟く。
「誰かを助けられるのに、助けないのは……罪ですか?」
答えは返ってこない。
「でも、自分を守るのも……大切ですよね」
リゼルは深く息を吐いた。
「もう少し……もう少しだけ、時間をください」
星空が、静かに輝いていた。
(第四話・終)