第二話「退職届、提出します」
雨が降り続いていた。
王都を出て三日目。リゼルは故郷の村へ向かう街道を歩いていた。荷物は最小限。聖女の証である白い外套も、祝福の杖も、全て置いてきた。
「寒い……」
秋口の雨は冷たい。でも、不思議と心は軽かった。
五年ぶりの「ただの旅」。誰かに予定を決められるわけでもなく、奇跡を求められるわけでもなく、ただ自分の足で歩く。
「これが、普通の人生……」
リゼルは小さく笑った。
街道沿いの宿場町に着いたのは、日が暮れる頃だった。
*
「いらっしゃい。一泊三銅貨だよ」
宿屋の主人は陽気な中年男性だった。リゼルは懐から小銭を取り出す。
「お願いします」
「あんた、旅人かい? こんな雨の中、大変だったろう」
「ええ、まあ」
部屋に案内されると、リゼルは濡れた服を脱いで暖炉の前に干した。久しぶりの「自分だけの時間」。
誰も命令しない。誰も要求しない。
「……幸せ」
呟いて、ベッドに倒れ込む。
でも──。
「なあ、聞いたか? 王都で奇跡が起きなくなったらしいぜ」
下の階から、客たちの話し声が聞こえてきた。
「マジかよ。聖女様がいなくなったとか……」
「いや、聖女が裏切ったんだとさ。神に背いて、どっか逃げたって」
リゼルの心臓が跳ねた。
「裏切り者、か」
予想していたことだ。聖女が辞めるなんて、前例がない。きっと彼女は「神への反逆者」として語られるだろう。
「それより、うちの村も大変なんだ。井戸水が濁ってな。聖女様の浄化の祝福がないと、飲めやしない」
「うちも畑の祝福が切れてる。このままじゃ来年の収穫が……」
罪悪感が胸を締め付ける。
でも、リゼルは毛布を被って耳を塞いだ。
「私は……悪くない」
自分に言い聞かせる。
「私だって、人間なんだから」
*
翌朝、雨は止んでいなかった。
リゼルは宿を出て、再び街道を歩き始める。故郷まであと三日。
でも、街道の様子がおかしい。
「通行止めだ」
橋の手前で、村人たちが立ち往生していた。
「川が氾濫しかけてる。このままじゃ橋が流される」
「聖女様の治水の祝福があれば、すぐ収まるのに……」
リゼルは息を呑んだ。
治水の祝福──それは彼女が定期的に各地の川に施していた奇跡だ。川の氾濫を防ぎ、水を清める。
でも、今は誰もそれを行えない。
「すみません」
リゼルは村人に声をかけた。
「迂回路はありませんか?」
「あるにはあるが、三日はかかる。しかも山道で危険だ」
「分かりました。ありがとうございます」
リゼルは踵を返した。
──今すぐここで祝福を使えば、川は収まる。
──でも、それをしたら私だとバレる。
葛藤が胸を焼く。
「私は……もう聖女じゃない」
呟いて、山道へ向かう。
背後から、村人たちの溜め息が聞こえた。
*
山道は険しかった。
雨で地面はぬかるみ、何度も足を滑らせた。
「っ……!」
転んで、手のひらを擦りむく。血が滲んだ。
以前なら、こんな傷はすぐに自分で癒していた。でも今は──。
「治癒の奇跡、使ったらバレるよね」
リゼルは苦笑して、ハンカチで血を拭った。
「普通の人は、こうやって生きてるんだもんね」
傷の痛みが、妙に新鮮だった。
五年間、自分の体は「神の器」だった。傷つけることも、疲れさせることも許されない。常に完璧な状態を保つために、奇跡で修復し続けた。
でも今は、ただの人間。
「これで、いいんだ」
*
山を越えたのは、二日後だった。
小さな村に辿り着いたリゼルは、村の酒場で休憩することにした。
「お嬢さん、大変そうだったね。よく来たね」
酒場の女将は優しく笑って、温かいスープを出してくれた。
「ありがとうございます」
久しぶりの温かい食事。体に染み渡る。
「それにしても、この雨はひどいね。もう五日も降り続けてる」
「……そうですね」
「聖女様がいなくなったからだって噂だよ。神様が怒ってるんだって」
リゼルの手が止まった。
「でもね、あたしは思うんだ」
女将は窓の外を見ながら言った。
「聖女様だって、人間だろう? 疲れることもあるさ。それなのに、みんな当たり前みたいに奇跡を求めて……そりゃ逃げたくもなるよ」
「……」
「あたしらがおかしかったのかもしれないね。神様の奇跡を、便利な道具みたいに使って」
リゼルの目に涙が滲んだ。
「ありがとう、ございます」
「ん? 何が?」
「いえ……美味しいスープを、ありがとうございます」
女将は笑って、リゼルの頭を撫でた。
「ゆっくり休んでいきな」
*
その夜、リゼルは村の小さな教会を訪れた。
誰もいない礼拝堂。祭壇の前に跪き、久しぶりに祈りを捧げる。
「神様……私は、間違ってますか?」
答えはない。
「五年間、あなたに仕えました。でも、もう無理です。私は……私の人生を生きたい」
沈黙。
「奇跡が消えて、困っている人がたくさんいます。それは分かってます。でも……」
涙が零れた。
「私を責めないでください。お願いします」
その時──。
祭壇の奥から、微かな光が漏れた。
『リゼル』
声が聞こえた。神の声。
「神様……!」
『君は、間違っていない』
リゼルは息を呑んだ。
『君が壊れるのを見たくはなかった。休みなさい』
「でも、奇跡が……」
『奇跡は、君一人のものではない。人々が自ら歩み、助け合うことも──奇跡なのだよ』
光が消えた。
リゼルは呆然と祭壇を見つめた。
「神様……」
心が、少しだけ軽くなった。
*
翌朝、雨が止んでいた。
リゼルが村を出る時、女将が見送ってくれた。
「気をつけてね、お嬢さん」
「はい。本当にありがとうございました」
「あんた、いい顔になったよ。昨日より、ずっと」
リゼルは微笑んだ。
「少し、吹っ切れたのかもしれません」
街道を歩きながら、リゼルは空を見上げた。
雨は止んだけど、世界はまだ混乱している。奇跡のない世界で、人々はどう生きるのか。
「でも、それは私の責任じゃない」
初めて、そう思えた。
──リゼルは知らなかった。
王都では、彼女を探す捜索隊が組織され、「聖女奪還作戦」が始まっていることを。
そして、その中心にいるのが──彼女の元部下、ミナであることを。
(第二話・終)