第3話 ざわめきの中の空白
日が沈みきった頃、グレインフォール区画の夜は一層濃さを増す。
路地のあちこちで灯りがともり、屋台の鉄板がじゅうじゅうと音を立てる。蒸気の漏れる配管が白い靄を生み、その向こうからは喧騒と笑い声、どこか調子の外れた楽器の音色が重なり合って響いてくる。
その中心にあるのが、酒場〈煤けたランタン亭〉だ。
錆び付いた看板には、かつて船の帆柱を模した意匠が刻まれているが、今では赤茶けた鉄板の下でかろうじて判別できる程度だ。
表の戸口は夜ごと押し開けられ、光と熱気を路地に吐き出す。通りを歩く者は、その音と匂いに誘われるように足を踏み入れるのだった。
中に入れば、まず鼻を突くのは混ざり合った匂い――エールの麦芽、焦げた油、擦り切れた木材の湿り気。
黄ばんだ裸電球が天井から吊られ、漏れる蒸気と混ざって、酒場全体を靄のかかったような空間にしている。壁は煤で黒ずみ、古びた時計は止まったまま飾られていた。
粗末なテーブルは脚が欠け、椅子はがたつき、時折大柄な客が座れば悲鳴を上げるように軋む。だが客たちは気にも留めない。ここに求めるのは贅沢ではなく、酔いと喧騒と、一夜の安らぎだけなのだから。
客の声は絶えず渦を巻いていた。
労働帰りの男たちがジョッキを傾け、賭場の勝ち負けに一喜一憂し、女給の腰に手を回して叱られる。隅では楽士が古びたバイオリンをかき鳴らし、空き瓶を叩く子供が拍子を取る。調子は外れているが、それすらも場を賑わせる装飾にしかならない。
ここに集う誰もが、日々の苦労と貧しさを忘れようと、この混沌に身を投げていた。
そのざわめきのただ中に、ひときわ賑やかな笑い声が混ざっていた。
ジーク・クローヴァは、すでに仲間たちとジョッキを掲げていたのだ。
「だからよ、あの親父の顔ったら! 目玉が飛び出しそうになってさ!」
片足の義足を卓にどんと乗せながら大笑いするのはゴード。周囲の客が振り返るほどの豪快さで、ジョッキの泡が飛び散る。
「馬鹿ね、あんたのせいで余計に仕事減ったんじゃないの?」
呆れ顔で言うのはリナだが、その手は器用に肉の煮込みを取り分け、皆の皿に押し込んでいる。
「まぁまぁ、減った仕事の分は俺が稼いでくるってことで」
ジークが軽口を叩けば、すかさずカリルが鼻で笑う。
「はっ、またおとぎ話みたいな夢を。金持ちになるんだろ? だったらまずこのエール代、立て替えてくれよ」
「それは……未来の俺に任せるさ」
テーブルがどっと笑いに包まれた。
ジョッキがぶつかり、泡が床に滴り落ち、皿に盛られたパンがすぐにちぎられて消えていく。
エールは苦くて薄く、肉は固く筋張っている。それでも、今この場で分け合う食事は、ジークにとって何よりうまいご馳走だった。
音と笑いに包まれたその一角は、まるで世界から切り離された小さな島のようだった。
ジークは喉を潤しながら、仲間たちの顔を順に眺める。煤にくすんだ頬、疲れを隠さない眼差し。それでも笑って酒を酌み交わす姿は、彼にとって何よりの支えだった。
――だが、視界の片隅で、ジークはある違和感を覚えた。
ざわめきの中に奇妙に静かな空白がある。
そこに視線を向けると、白いマントを纏った影と、その隣で周囲を警戒する大柄な男の姿が目に入った。