表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/6

第3話 ざわめきの中の空白



日が沈みきった頃、グレインフォール区画の夜は一層濃さを増す。

路地のあちこちで灯りがともり、屋台の鉄板がじゅうじゅうと音を立てる。蒸気の漏れる配管が白い靄を生み、その向こうからは喧騒と笑い声、どこか調子の外れた楽器の音色が重なり合って響いてくる。


その中心にあるのが、酒場〈煤けたランタン亭〉だ。

錆び付いた看板には、かつて船の帆柱を模した意匠が刻まれているが、今では赤茶けた鉄板の下でかろうじて判別できる程度だ。

表の戸口は夜ごと押し開けられ、光と熱気を路地に吐き出す。通りを歩く者は、その音と匂いに誘われるように足を踏み入れるのだった。


中に入れば、まず鼻を突くのは混ざり合った匂い――エールの麦芽、焦げた油、擦り切れた木材の湿り気。

黄ばんだ裸電球が天井から吊られ、漏れる蒸気と混ざって、酒場全体を靄のかかったような空間にしている。壁は煤で黒ずみ、古びた時計は止まったまま飾られていた。

粗末なテーブルは脚が欠け、椅子はがたつき、時折大柄な客が座れば悲鳴を上げるように軋む。だが客たちは気にも留めない。ここに求めるのは贅沢ではなく、酔いと喧騒と、一夜の安らぎだけなのだから。


客の声は絶えず渦を巻いていた。

労働帰りの男たちがジョッキを傾け、賭場の勝ち負けに一喜一憂し、女給の腰に手を回して叱られる。隅では楽士が古びたバイオリンをかき鳴らし、空き瓶を叩く子供が拍子を取る。調子は外れているが、それすらも場を賑わせる装飾にしかならない。

ここに集う誰もが、日々の苦労と貧しさを忘れようと、この混沌に身を投げていた。


そのざわめきのただ中に、ひときわ賑やかな笑い声が混ざっていた。

ジーク・クローヴァは、すでに仲間たちとジョッキを掲げていたのだ。


「だからよ、あの親父の顔ったら! 目玉が飛び出しそうになってさ!」

片足の義足を卓にどんと乗せながら大笑いするのはゴード。周囲の客が振り返るほどの豪快さで、ジョッキの泡が飛び散る。

「馬鹿ね、あんたのせいで余計に仕事減ったんじゃないの?」

呆れ顔で言うのはリナだが、その手は器用に肉の煮込みを取り分け、皆の皿に押し込んでいる。

「まぁまぁ、減った仕事の分は俺が稼いでくるってことで」

ジークが軽口を叩けば、すかさずカリルが鼻で笑う。

「はっ、またおとぎ話みたいな夢を。金持ちになるんだろ? だったらまずこのエール代、立て替えてくれよ」

「それは……未来の俺に任せるさ」


テーブルがどっと笑いに包まれた。

ジョッキがぶつかり、泡が床に滴り落ち、皿に盛られたパンがすぐにちぎられて消えていく。

エールは苦くて薄く、肉は固く筋張っている。それでも、今この場で分け合う食事は、ジークにとって何よりうまいご馳走だった。


音と笑いに包まれたその一角は、まるで世界から切り離された小さな島のようだった。

ジークは喉を潤しながら、仲間たちの顔を順に眺める。煤にくすんだ頬、疲れを隠さない眼差し。それでも笑って酒を酌み交わす姿は、彼にとって何よりの支えだった。


――だが、視界の片隅で、ジークはある違和感を覚えた。

ざわめきの中に奇妙に静かな空白がある。

そこに視線を向けると、白いマントを纏った影と、その隣で周囲を警戒する大柄な男の姿が目に入った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ