第1話 アンダーヴェイル
鉄の肺のように、都市は絶え間なく呼吸を繰り返していた。
天空を突く〈ハーモニクス・スパイア〉から、幾百もの煙突が白煙を吐き出し、上層都市の空は灰色に染まる。その雲の隙間からわずかに覗く青は、下層に暮らす者にとって遠い幻のようでしかない。
陽光は届かず、絶え間ない機械の駆動音が大地を震わせる。下層都市──〈アンダーヴェイル〉。
そこは都市の影に寄り添う「もう一つの街」だった。かつて工業区として繁栄したが、時代の流れに取り残され、今では廃線の列車や錆び付いた機械が骨組みとなり、人々はその残骸の隙間に寄生するように暮らしている。
上層と下層を隔てるのは、鋼鉄と石材で築かれた巨大な橋梁群だ。空を覆うように張り巡らされた通路は、都市交通の大動脈であり、富裕層の屋敷や商会の社屋が軒を連ねている。昼となればエーテル駆動の貨物列車が轟音を上げて走り抜け、夜にはガス灯が列をなし、まるで天空の街路のように輝く。
だが、その光は下層には届かない。〈アンダーヴェイル〉に差し込むのは煤に濁った残照と、廃熱の赤だけだ。
街の底を歩けば、空を見上げるたび鉄骨の迷宮が広がっているのが分かる。積み重なった配管が天井を埋め尽くし、エーテル炉から漏れる青白い光が霞のように漂っている。古い給水管はところどころ破裂し、滴る水が路地裏に常湿の霧を生んでいる。まるで都市そのものが汗を流しているかのように。
下層の川には黒く濁った水が流れ、ところどころに沈んだ空中列車の車体が橋代わりに使われていた。街の子供たちは、その残骸の上で鬼ごっこをし、時に足を滑らせて濁流に飲まれることもある。だが誰も助けを呼ばない。ここでは「生き延びられる者だけが、生き延びる」のが常識だからだ。
市場に足を運べば、そこは混沌そのものだ。
露店では違法に改造された義肢や機械仕掛けの小鳥、正体の知れないエーテル薬品が並び、値段は交渉次第で二転三転する。裏通りでは鉄くずを拾い集める老人が「これは古代機械の部品だ」と喚き、別の角では闇医者が古い蒸気炉を背負ったまま往診に向かっている。
油と焦げた肉の匂い、鉄粉のざらついた空気、そしてどこからともなく聞こえてくる即興の弦楽器。耳と鼻と目に押し寄せるのは、汚濁と猥雑と、そして妙に生き生きとした熱気だった。
治安は表向きこそ自警団が取り仕切っているが、その実態を知る者は誰もが笑い飛ばすだろう。彼らの多くは裏組織と繋がり、金さえ積めば見て見ぬふりをする。むしろ人々が信じているのは、盗賊団〈黒羽の牙〉のような存在だ。彼らは悪党ではあるが「筋を通す」ことで知られ、スラムの民を無闇に脅かすことはない。少なくとも、他のギャングに比べればましだと誰もが思っていた。
だが、どれほど荒んだ景色の中にも、わずかな輝きは確かに残っていた。
夜更け、廃工場の屋根に溜まった水面には、煤に霞んだ空を越えて、星々が微かに映り込む。〈アンダーヴェイル〉の人々は、それを「天に還れぬ星」と呼び、子供たちは数を数えて遊び、大人たちはその光を酒の肴に語らう。祭りも歌も持たぬ彼らにとって、それはささやかながら心を繋ぎ止める儀式のようなものだった。
その喧騒の只中を、一人の青年が歩いていた。
軽やかな足取りに、肩からは場違いなほど鮮やかなスカーフ。煤で曇った街の中では異様に目立つその色は、あえて周囲を挑発するかのようだ。笑みを絶やさぬその顔は、路地裏に潜むスリや情報屋にとって馴染み深いものだった。
ジーク・クローヴァ。〈黒羽の牙〉の末席に名を連ねる若き盗賊にして、アンダーヴェイルが育んだ一人の夢追い人。
その身は貧しさにまみれながらも、心だけは空に向かって解き放たれている。
今日も彼は、煙に霞む空を見上げては冗談めかしに呟く。
──「さて、今日はどんな星を盗みに行くか」
その言葉は、仲間に聞かせるための軽口であり、同時に彼自身の心を支える呪文でもあった。
やがてこの街を揺るがす運命の渦に巻き込まれることを、まだ誰も知らない。