プロローグ
かつて、この星は静かに歌っていた。
風のさざめきも、海の律動も、大地の鼓動も、すべては調和の旋律として重なり合い、ひとつの大きな楽曲を紡ぎ続けていた。
人の耳に届かぬその歌は、確かに存在した。
星を抱く空の彼方で眠りにつく月と太陽さえも、その調べを聞き分け、ゆるやかに軌道を描いていたという。
だが、人類がこの星に文明を築き始めた時、歌は変わり始めた。
火を操り、鉄を打ち、やがて空を翔ける船を創った人々は、己らの栄光のために「星の声」を掬い取ろうとした。
星の中心に流れる光——〈エーテル〉。
それは循環する力であり、生命の血脈であり、世界の記憶そのものだった。
〈大調律合議国〉——グランド・ハーモニア。
この名を冠する連合国家は、星の力を制御し、秩序へと変換することこそ人類の使命であると宣言した。
調律塔〈ハーモニクス・スパイア〉はその象徴。天を突き、地を貫き、星の振動を刻む巨大な結晶の柱は、まるで星そのものの心臓を握りしめるかのように都市を輝かせ続けている。
空を滑る飛空艇、鉄の獣のような機械兵、昼夜を問わずきらめく街灯——。
人類は繁栄を手にした。
だがその繁栄は、均しく分け与えられたものではなかった。
塔の上層に近づくほどに都市は光を帯び、果てしなく贅沢な生活が広がる。
下層に降りれば降りるほど光は濁り、空気は埃に満ち、やがて影が影を呑み込むように「暗闇」だけが残る。
廃棄された工場、崩れ落ちた線路、エーテルの排気に蝕まれた空気。
そこに生きる人々は、誰からも顧みられることなく、ただ「存在しない者」として扱われていた。
それが、〈アンダーヴェイル〉と呼ばれる地下の街。
星は歌をやめたわけではない。
だがその旋律は濁り、途切れ、痛みに歪み始めている。
魔物たちが暴走し、荒野に新たな瘴気が広がるのも“循環の歪み”の一端に過ぎない。
翠樹王国〈エルドヴァルド〉は自然の循環を守ろうと叫ぶが、彼らの声は届かない。
氷冠連合〈フロストホルム〉は屈服し、砂漠の民は反乱を試みては鎮圧され、また血を流す。
合議国の覇権は揺るがず、星の痛みは加速していく。
そんな世界の片隅——。
誰にも注目されず、誰の記録にも残らない一人の少年がいた。
幼き日の記憶は断片的にしかなく、気がつけば孤児院の片隅で眠っていた。
だが孤児院は閉ざされ、彼は生きるためにスラムの裏通りをさまようしかなかった。
盗み、拾い、時には命を賭けて喧嘩に身を投じながら。
それが彼にとっての「世界」だった。
やがて彼を拾った者がいる。
黒羽の牙〈ブラックフェザー〉——スラムに生きる盗賊団。
金持ちの屋敷を狙い、闇市場を渡り歩き、権力者に逆らいながらも筋を通して生きるならず者たち。
彼らは少年を弟のように迎え入れた。
飄々と笑いながらも決して腐りきらぬ心を持つ彼に、団長は言った。
「お前はまだ道を選べる。だから、俺が面倒を見てやる。」
その日から、少年は盗賊として生きる道を歩み始める。
富を夢見て、自由を夢見て、誰にも縛られない空を夢見て。
彼の笑みはいつも軽やかで、どこまでも自由を望んでいた。
——だが、彼の存在そのものが、実は星の深部に刻まれた“秘密”によって形づくられていたことを、この時の彼はまだ知らない。
彼にはひとつの力があった。
戦う力もなければ、英雄と呼ばれるような才覚もない。
けれど、ただひとつだけ。
彼は、時を越えて「戻る」ことができた。
失敗をなかったことにし、選択をやり直すことができた。
その能力を仲間たちは奇妙な冗談として受け止めながらも、確かに彼の生存を支えてきた。
星は沈黙をやめ、やがて呻き始める。
その声を最も近くで聞くことになるのは、誰よりも軽やかに笑う、この少年にほかならなかった。
——彼はまだ知らない。
自らが歩む道が、やがて「星の生存」と「人類文明の延命」という二つの未来を分かつことになることを。
暗闇の底から始まる彼の旅路はやがて世界のすべてを呑み込み、
失われた旋律を取り戻すための長大な物語へと変わっていく。
それは、——星と人とをめぐる“調律”の物語。
そして一人の盗賊が紡ぐ、自由と宿命の叙事詩である。