繊細な弱さ
明るい昼休み。
授業で固まった体と心を解放できる夢のような時間。
でも僕にとっては——悪夢のような時間だ。
まだ暑い十月。
給食が終わり、教室が騒がしくなっていく。
室内で走る男子、大声で噂話を楽しむ女子たち。
「うるさい…。」
そう呟く僕は繊凪。
僕は頭が熱くなるのを感じながら、教室を出た。
うるさいのも嫌いだが、短気のような僕も嫌いだ。
人でごった返した後の古びた階段を見て、僕は心なしか同情する。
可哀想な階段を降りて、ある扉の前で止まる。
そこは図書室だ。僕は少し堅い引き戸を引く。
入った瞬間、涼しい風が僕を包み込んだ。
大きな本棚、部屋の広さに対して少ない大きな机。机に負けずに今日も人がほとんどいない。
ここにいるのが僕の夢の時間だ。
僕は好きな小説を取り、洞窟に探検にでもいくかのように、奥へ、奥へと進んだ。
本棚に腰をかけて座り、小説をひらいた。
窓に目をやると、
———少女がこちらを見ていた。
「へ?」
僕は思わず声を出す。
ここに人が来たことはほとんどない。仮に来たとしても、見つからないよう隅で隠れて読んでいたのに。でもこの少女は僕をぼんやりと、それでもしっかりと僕を視界にとらえてみつめていた。
「『へ?』じゃないでしょ。ここに人が来ないのが当たり前みたいじゃん。」少女は気怠げにに言う。
長い黒髪、向こうが透けて見えそうな白い肌、自然と惹かれる、深くて濃い碧眼。
そこには背景に溶け込んでしまいそうな少女がいた。
少女と言っても、上履きの色が僕と同じなので、同学年だが。
「誰ですか?」と、思わず無愛想に聞く。
「乃半。よろしくね」
——『よろしくね』とは。
その後、図書室をさっさと立ち去りトイレで時間を潰した。
あの乃半という少女は何者なのか。明日は会わないだろうと思ったが、翌日も、バッチリ来た。僕が本を読むタイミングを見計らっていたかのように…。
「初対面の会話をしよう。」
突然、乃半はそう言い始める。
「初対面の会話?」
「そう。初めて会った人にする、沈黙を作らないための他愛のない会話をしよう。」
「というか初めて会ったのは昨日だから、今日は初対面ではないと思うんだけど。」
彼女は聞く耳を持たずに、
「まずは…好きな食べ物は?」と言った。僕は諦めて、
「カレー」と言った。
「奇遇だね、私もだよ。」…なんか意外だ。
「次、好きな…色!」
「紺色」というと、彼女は少し目を開け、「…同じ。」と呟いた。
「好きな植物は?」
「花。」
「何ていう花?」
「ストック」
「まじか」
それから似たような質問を何度かされたが、ほとんどの答えが乃半と同じだった。
「変なのー」彼女は嬉しそうな、面白がってそうな声で言った。
本当にそう思う。
…ただ、一つだけ、僕と違う所があった。
乃半は、人と話すのが好きだった。
秋を感じさせない十一月。
学期末テストが終わった。
「疲れた…」僕はいつものように図書室へ向かう。
今でも変わらずに、涼しい風が僕を包み込む。
今日も人はほとんどいない。僕は並ぶ本棚の間を、奥へと進んでいく。
本棚に腰掛ける、そして乃半がいる。
最近は彼女について考えるのを放棄している。なんとなくだが、あんまり考えると、いろんなことに手がつかなくなりそうなのと、馬鹿になりそうな気がしたからだ。
「期末テストどうだった?」乃半が聞く。
「あー…そこそこ?」というが、正直な所結構自信ある。
「嘘だね。目が泳いでるし口は笑いを我慢しながらちょっとずつ上がってる。」全てお見通しのようだ。
「じゃあ乃半はどうなの?」
乃半は腕組みをして、足を組み替えながら、自信ありげに、
「そこそこ!」と言った。そこで僕は
「じゃあクイズ出してどれくらいか競おう。」と提案してみた。
乃半は少し口に指を当てた後、
「いいだろう。卑怯な手は使うなよ。」
と格好つけて言った。
——数分後。
「唾液はでんぷんを何に変える働きがある?」
「麦芽糖やブドウ糖などに変える。次は私、『私は本を買う予定です』を英文にして。」
「『I'm going to buy a book.』次、白文を読めるようレ点などをつけた文のことを何ていう。」
「それ一年の時の内容じゃん、ずるしたー!」
「馬鹿じゃなきゃわかるわ馬鹿。」
「うるさい阿呆、馬鹿より阿呆の方が悪口なんだよ知ってた?」
「知らんわ馬鹿阿呆。」
いつのまにか喧嘩になっていた。だけど、この時間が楽しくて、なんとなく幸せだった。
冬を越えた三月。
放課後の図書室。
今日で今年度図書室に来られるのは最後になる。
とはいえ、進級するだけなのでそんなに実感はない。
「いやー私も3年生かー」不思議そうに言う乃半。
「実感湧かないな」乃半に賛成するように呟く。
「え、繊凪は留年するんじゃないの?」
「中学ではないだろ。ていうか僕成績いい方なんだけど。」
「そういえばそうだったねー忘れてた。」
今日も変わらずに、他愛のない会話が続く。
来年度も変わらないだろうなと思いつつ、それでも僕は少し期待していた。
「クラス替えが楽しみだなーやっとあのクラスから解放される…。」
「よかったねーおめでたいおめでたい。」乃半は乾いた拍手をする。
今日はそれでもよかった。
「じゃあおやつ食べたくなってきたから帰るね。」乃半はふらりと歩き始めた。
「 ま た ね 」
乃半が出ていく。
いつも聞いているはずの挨拶が、今日はふわふわと浮いて聞こえた。
花が道を造る四月。
進級、クラス替え当日。
少しの期待を膨らませながら、配られたクラス替えの紙を見る。僕はすぐに見つかった。一組だ。
———乃半は一組にいない。
無意識にため息をつく。少しの期待が一気に萎む。
だが今度はもう一つの期待が膨らんだ。隣のクラスを見る。
…いない。
もう一つの期待も萎む。
「何組にいるのかな…。」
探した。ざっくり、それでもじっくりと探した。探した。
「…いない…?」
見つからない。名字は知らなかったが、名前の読みで見つかると思った。
…ない。乃半はいない。
それから始業式、旧クラスでの学活、新クラスでの学活を終えるまで、図書室に行くまで、そのことで頭がいっぱいだった。
上履きの色は確かに僕と同じだった。
じゃあなぜ乃半がいない?
図書室に行った。
精一杯静かに急いだ。
大きい本棚が僕を見下ろしている。早歩きで奥へ行く。
乃半は見当たらない。どこにいるんだ…?
"ドサッ”
音のした方を見ると…いた、乃半が。
初めて会ったときと同じようにぼんやりと、それでもしっかりと僕を視界に入れて眺めていた。
「その感じだと、気づいたっぽいね。」
乃半が当たり前のように言う。
「…クラス替えの名簿を見ても乃半の名前がなかった。」声が震えていた。
わからない。乃半がなんなのか、僕は今まで何と会話していたのかが。
「私は君の… 夢だよ。 」
…へ?
間抜けな声が出そうになる。
「私は繊凪の夢。『もう1人の繊凪』。」
小さな子供に教えるように、乃半はゆっくり、はっきりと繰り返す。でも、まだわからない。
「夢っていうのは、私は繊凪の夢の中にしか現れない。だから私は図書室に来た時はいなくて、座って本を開いたらいたでしょ?それは君が座って寝ているから。先刻の音はあなたが倒れて寝た瞬間の音。」
まだ完全にはわからない。でも、普段小説を読んでいるおかげか、なんとなく受け入れては来ている。
「じゃあ、もう1人の僕ならなんで僕と違うところがあるんだ?…人と話すのが好きとか。」
「それは…」乃半が口をつぐむ。
「…夢にはもう一つ意味があって、私と繊凪が違うのは…私は繊凪のなりたいと思う繊凪の擬人化だから。」
人と話すのが好き?…ありえない。僕は1人なのが好きだ。大人数で集まるなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。
———それでも、僕は薄々気づいていたのかもしれない。
「人を妬んだり、羨んだりするのは、その人が自分にないものを持っている時が多い。だから…」
繊凪は孤独が好きじゃない。
…そうか。今まで話していた乃半だから、なんとなく説得力があった。
僕は人に興味がないと思っていた。でも、心の底から誰かを羨んだりしたこともあったし、可哀想だと思ったこともあった。
それは単純だけど、人に興味がないわけじゃないんだろう。
乃半のおかげで…いや、『僕』のおかげでわかった。
自然と口角が柔らかく上がる。
「僕って、結構嫌味なやつなのかな。」
乃半は少し不思議そうに見つめた後、柔らかく微笑んだ。
「そうだね。」
新学期。
最初の授業、先生の話を聞き流しながら考えた。
あの日以降、図書室の奥には行かなくなった。もちろん、乃半に会うことも無くなった。
それでも僕はうまくやれていると思う。
僕は僕自身が嫌いだと思っていた。
でも乃半に少し惹かれていたのは、少なからず僕自身を好きだったからなんじゃないかと思う。
「隣の人とペアを組んでくださーい。」
先生が指示する。
僕は膝を隣に向け、顔を上げた。
始めは全く気にしていなかった隣の人は、
「初めまして!クラス替えの時話かけれなかったけど、わたし希愛って言うんだ!あなたは?」
前だったら苦手だった、グイグイくるタイプ。
でも、今だったら。
乃半に会えた僕だったら。
「半乃繊凪です。」
僕はにこやかに微笑んだ。