わたしの居場所
週末の昼下がり。
賑やかなリビングから逃げるように、私は席を立った。
「私は少し出かけてくるわ」
「おう、気を付けてな!」
燐は笑顔で手を振って送り出すと、すぐに東雲に向き直った。
今までだったら、絶対にどこへもついていくと言っていた、あの燐が。
あれ以来、東雲は度々訪れる。
燐はあの通りすっかり気を許しているようで、唯も相変わらず無表情の割には、まんざらでもなさそうだ。
既に上書きされかけているアジトの空気は、なぜだか息苦しい。
(あそこに居場所がないのは、私だけね……)
ひとりぼっちは今に始まったことじゃない。
けれど、こうしてみると、なんだかんだ一緒にいる時間で、多少は気が紛れていたらしい。
静かだと、どうにも余計なことを思い出してしまいそうになる。
(せっかく男装しているんだし、たまには町に出てみようかしら)
雑踏に紛れていれば、少しはマシだろう。
そう考え、最寄りの小さな駅へと向かった。
電車に乗るのは、かなり久しぶりだ。
必要なものはドットが手配してくれるから、無駄に顔をさらして出歩く必要はない。
男性陣に言えないようなものは、時折こっそり実家の留守中に調達していた。
――しかし、つい先日。
いつものように実家に戻ると、鍵が変わっていた。
周辺住民の噂から、父が最近再婚したのだと知る。
鍵が変わっていたのは、見て見ぬふりをしていた私の出入りも、これを機に完全に断つという意味メッセージなのだろう。
つまり、今後は自分でどうにかするしかない。
近所では顔を覚えられる危険がある。
できるなら、電車で少し離れた店に行きたい。
久しぶりに改札をくぐり、ホームに立つ。
三度、深呼吸をした。
定刻どおりに到着し、去っていく電車。
機械仕掛けのように、滑らかに乗り降りする人々。
この歯車を、乱してはいけない。
緊張した足取りで、到着した車両に乗り込む。
車内を見渡すが、席はすべて埋まっている。
仕方なく隅に近い座席の前に立ち、つり革を掴んだ。
なによりも――見知らぬ人と身体が触れる距離に押し込められる、この空間。
(乱しては……だめ。こんなところで……)
そう思えば思うほど、首を締め付けるような圧迫感に、息が吸えなくなる。
落ち着こうとする意識とは裏腹に、冷や汗が滲んだ。
呼吸が浅くなるにつれ、周囲の視線が刺さる。
ふと、隣の男性がつり革を掴もうと伸ばした手が、私に触れた。
瞬間、反射的にそれを強く払いのけ、触れた手を抱えるように握りしめる。
「おっと、失礼。……大丈夫かい?」
低い声が頭上から落ちてきて、思わず視線を上げた。
恰幅のよい男性が、分厚い肩と腕で空間を塞ぐように立っている。
逃げ道という概念そのものが、存在しないように見えた。
その姿が、“あの日”と重なる。
同時に、条件反射のように息が詰まる。
(……まずい……)
そう思った瞬間。
到着のアナウンスが響き、ドアが開き始めた。
完全に開ききらない隙間から、無理やり押し出るようにホームへ転がり出る。
何人かとぶつかった。
背後でぼやく悪口が、背中にのしかかる。
それでも構っていられない。
息を吸おうとする意識とは逆に、身体は体内の空気を吐き出そうとするばかりだ。
(落ち着け……落ち着け……)
「大丈夫ですか!」
一度だけ振り返ると、ぼやけた視界の向こうから、こちらへ駆け寄る少女の姿が見えた。
少女は私の背中にそっと手を当て、撫でるようにさする。
優しい声音で、言った。
「ゆっくり深呼吸しましょう。吸って」
言われるがまま、目を閉じ、限界まで息を吸う。
「吐いて」
ゆっくりと、吐く。
「そうそう。もう一回いきましょう」
柔らかな声と、背中をさする手に身を委ね、同じリズムで呼吸を繰り返す。
ほのかな体温と、掌の感触が、背中にじんわりと伝わる。
目を開いた頃には、冷や汗も動悸も、いつの間にか引いていた。
「ありが――……」
そう言いかけて、言葉を飲み込む。
そこにいたのは、見間違えるはずもない。
東雲葉月だった。
「よかったぁ。もう大丈夫そう?」
葉月は安堵したように笑う。
「あ、でも、なにか飲んだ方がいいかも。よかったら、これどうぞ」
(……気づいて、ない?)
男装のせいか、葉月の表情も態度も、微塵も変わらない。
私の動揺など意に介さず、葉月は鞄から水筒を取り出し、カップに注いだ。
白い湯気が立ちのぼる。
両手で包むと、ほどよい温かさが、冷えた指先をゆっくり溶かしていく。
一杯を飲み干す頃には、体の芯まで温まっていた。
「……ありがと。それじゃ」
できるだけ声のトーンを下げ、必要最低限の言葉だけ残し、踵を返す。
すると、背中に声が届いた。
「あ、ねぇ!」
呼び止められた瞬間、胸が跳ねる。
振り返れないまま立ち止まっていると、葉月は続けた。




