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TRUE♰LIE  作者: れむ
26/27

夜屋 唯

「じゃあ、いくぞー!」


「にいちゃんすごい! もっとやって!」


柔らかな日差しが差し込む部屋で、弟:朝日(あさひ)と無邪気に遊ぶ。


朝日の笑い声が跳ねるたび、胸の奥が少しだけ軽くなる。


この時間だけが。朝日だけが。


俺にとっての生きがいで、唯一の癒しだった。


 


「唯」


低く、冷えた声が背後から響いた瞬間、肩がビクリとすくむ。


恐る恐る振り返ると、そこには白衣姿の男――父が立っていた。


「私の部屋に来なさい。診察の時間だ」


「あ……はい」


「にいちゃ……?」


「ごめん、ちょっと行ってくる。いい子で待っててな」


心配そうに見上げる弟の頭を軽く撫で、俺は父の後を追うように部屋を出た。


ドアが閉まる音と同時に、胸ぐらをつかまれ、壁に叩きつけられる。


「っ……!」


衝撃で肺が圧迫され、肺の中の空気が一気に押し出される。


息を吸う間もなく、怒号と共に拳が飛んできた。


「ったくふざけんじゃねぇ……なんでこの俺が、クソガキどもに頭下げなきゃならねぇんだよ」


「……っ」


「患者は黙って先生様に従ってりゃいいんだよ。なぁ、唯?」


締め付けられた襟元でまともに呼吸もできず、言葉にならない喘鳴だけが食いしばる歯の隙間から漏れる。


切れた唇の端から、鮮やかな赤が流れ、ぽたぽたと床に落ちた。


「どいつもこいつも、俺をなめやがって……!」


「う゛っ……!」


一言吐くたびに、拳が顔や頭を正確に捉える。


痛みはとっくの昔に、ただの“感覚”に変わっていた。


殴られれば視界が揺れ、骨が軋む。ただそれだけだ。


父は、殴るだけでは満足しない。


ボロボロの身体、うまく呼吸できない苦しさ、喉の奥から漏れる嗚咽。


そして何より、その痛みから逃れたくて――目の前の医師にすがるように向ける、弱々しい視線。


それこそが、父が(もの)を痛めつける理由だった。


「さぁて、今日のぶんのお薬を出しておきますねぇ」


「っ……」


乱暴に腕をつかまれ、無造作に注射針が刺さる。


体内に冷たいものが流れ込むと同時に、吐き気と激しい頭痛が脳を揺さぶった。


視界がぐにゃりと歪み、足元が定まらなくなる。


それでも――抵抗など、許されない。


「おい、なんか言うことは?」


「あ……りがとう、ございま…す……先生……」


息も絶え絶えに絞り出すと、父は床に転がる俺を見下ろして満足げに目を細める。


最後に腹を一蹴すると、上機嫌で部屋を出て行った。


(ああ……今回の薬、なんだ……気持ち、悪……)


世界がぐらつくのを、ただぼんやりと眺めていた。


両親は“立派な”医者だった。


父は、大きな総合病院の院長。


母は、その付属の精神科医。


母はいつも献身的で、父を立てる良き妻――ということになっていた。


近所の人間は、口を揃えて「理想のご家庭ね」と微笑んだ。


それが、俺たち家族の“表の顔”。


本当は、父はその完璧な外面のストレスを、俺に暴力としてぶつけていた。


母は何もしない。ただ淡々と家事をこなし、床に広がる血を拭き取り、薬を並べる。


まるでそれが、“仕事”であるかのように。


事故に見せかけられるような殴り方。


違法な薬の投与、裏の治験。


診察が必要になれば、“主治医”は当然父。


カルテに「家庭内の問題」が記されることはない。


むしろ「院長先生はとても子煩悩だ」と評判を上げる材料にされるだけだった。


ふと、扉が小さく開いた。


「……にいちゃん?」


戻りが遅かった俺を心配して、朝日がそっと顔を覗かせる。


「大丈夫、大丈夫だから。……向こうに行ってな」


「……うん」


不安そうな朝日を安心させるために、笑顔を繕いながら朝日を遠ざけた。


朝日は、生まれつき病弱だった。


少し激しい運動や、ストレスで負荷がかかると発作を起こす。


気温の変化が激しい季節の変わり目には、必ず体調を崩す。


両親は、「面倒な手間は増やしたくない」と言って、朝日には手を上げなかった。


薬も検査も、朝日にだけは基本“正規ルート”のものだけ。


皮肉なことに、暴力に慣れすぎたせいか、俺の身体は妙に頑丈だった。


多少の薬や怪我では壊れないし、回復も早い。


だから、“実験”の相手には都合がよかったのだろう。


俺がすべてを引き受ければいい。


俺が“盾”になれば、朝日にだけは手を出されずに済む。


それが、この家族の中で、俺に課された役割だった。


――そう、思っていた。


 

           ◇ ◇ ◇


 

ある日、いつものように病院から帰ると、家の空気がおかしかった。


玄関には見慣れない靴が並び、リビングからは押し殺した嗚咽のような声が漏れている。


胸が、嫌な音を立てた。


「……ただいま」


絞り出すように声をかけると、すぐに母が振り返った。


「……ああ、唯。帰ってたのね」


赤く腫れた“ふり”をした目。


きちんと崩れたメイク。


完璧に作られた「悲しむ母親」の顔。


その隣で、父は低い声で言った。


「朝日の容態が急変してな。……さっき、息を引き取ったよ」


「……え?」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


朝日は、いつもみたいに布団の上で、退屈そうに天井を見ているはずだった。


今朝だって、「にいちゃん帰ってきたら、一緒にゲームしよ」と笑っていた。


その景色(きおく)が、音もなく崩れ落ちる。


「うそ、だろ……?」


膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。


誰かが何かを言っていた気もするが、耳には何も届かなかった。


通夜も葬儀も、すべてが機械のように進んでいった。


父は喪主として立派に挨拶をこなし、母はハンカチで目を押さえながら参列者に頭を下げる。


「こんなに早く逝くなんて」「あんなに可愛い子が」


飛び交う言葉は、どれも上滑りしていく。


朝日の小さな棺だけが、やけに現実感を伴ってそこにあった。


(……俺が、守るはずだったのに)


焼香の煙にむせながら、何度でも終わりのない反芻思考に溺れた。



           ◇ ◇ ◇

 


葬儀から数日が経ち、家の中は元の“静けさ”を取り戻していた。


それなのに、俺の時間だけが未だ止まったまま。


丈夫さだけが取り柄だというのに、眠れずに夜中に目を覚ます日々が続いた。


廊下の途中、朝日の部屋だけが、ぽっかりと空白になったように感じる。


窓もカーテンも、いつも通り。


なのに、この世界の色だけが少し薄くなった。


そんなことをぼんやり思いながら、二階の廊下を歩いていると、父の書斎から声が聞こえた。


『……今回のデータは非常に興味深いものでしたよ。やはり先天的な虚弱体質のケースは反応が顕著だ』


『謝礼の方も、話にあった額で振り込ませていただきます。これで例のプロジェクトも、グッと進みますよ』


聞き慣れない男の声と、聞き慣れた父の声が、笑い混じりに交わされる。


『いやぁ、こちらこそ。どうせ長くはない命だったんだ。最後に少しでも世の役に立ててやれただろう』


『それにしても、あんなに“従順な素材”が揃うとは思いませんでしたよ。兄の方も、かなり興味深い』


『ええ、あいつも今後、プロジェクトに組み込む予定です。ウチの病院なら検査データも操作し放題ですから』


血の気が、すっと引いた。


息を殺し、ほんの少しだけ開いたドアの隙間から室内に目を凝らすと、机の上には“治験同意書”の控えが数枚広がっていた。


その一番上には、朝日の名前が印字されている。


横に、父と母の署名。


その上には、小さく「実験コード:N-0」と記されていた。


『Nシリーズも、これでようやく本格稼働ですね。西鈴の連中も期待していましたよ。例の“プロジェクト”にぴったりの素材だって』


『ああ、あの警察のプロジェクトだろう? ……まったく、正義のためとあれば何でも許されるらしい』


父は、愉快そうに笑った。


『なにをおっしゃいます。正義なんてそんなものでしょう? では、今回も世間には“病死(いつもの)”でお願いしますね』


俺は、そこで限界だった。


音を立てないよう、ゆっくりと後ずさる。


(……病気じゃ、なかったんだ)


階段を下りる一歩一歩に、力が入らない。


(朝日は、“金”と“研究”のために殺された)


脳裏にいつもの朝日の笑顔が広がった。


(俺が、守るって決めてたのに…)


噛み締めた奥歯が亀裂と共に、欠けた気がした。


それからのことは、正確には覚えていない。


 


気がついたら、階段を下りて、俺はリビングで母親の前に立っていた。


「唯? どうしたの、そんな顔して…あら、あなた。遅くまでお疲れ様です」


母が俺の様子に一瞬首を傾げた。


が、その意識もすぐに後から入ってきた父へのねぎらいにすり替わった。


電話を終えてリビングへ入ってきた父は、ソファにふんぞり返ったまま、書類から顔すら上げない。


「父さん、母さん。ひとつ、聞きたいことがあります」


 震える拳を抑えるように、固く握りながら、恐る恐る問いかける。


「なんだ」


「朝日は、ほんとは……どうして死んだんですか」


一瞬だけ、空気が止まった。


沈黙の後、父は見下すように吹き出して笑った。


組んだ脚の上で広げた書類から視線も上げず、声だけを淡々と返した。


「……医者の息子のくせに、そんなことも分からないのか? 急性の心不全だ。診断書にもそう書いてあるだろう」


「…“例のプロジェクトのための、治験材料”じゃなくて?」


その言葉に、父が初めて顔を上げた。


目の奥が、ほんの僅かに細くなる。


「どこまで聞いた」


「……必要な分だけ」


笑っている自覚はなかったが、頬がひきつっているのは分かった。


「そうか。……まあ、いい」


父は肩をすくめる。


まるで、ゴミがひとつバレただけ、くらいの軽さで。


「どうせ長くはなかった。あの子は、いずれどこかで死んでいた。


それなら、少しでもこの国の役に立ってもらった方がいいだろう?」


「お金にも、なりましたしね」


母が静かに微笑む。


その笑みは、あの夜、朝日の棺の前で浮かべていたものと寸分違わなかった。


すべて、理解してしまった。


「そんな顔、するなよ。お前だってそうだろう? あれほど殴られて薬を打たれても、まだ生きてる。丈夫に生んでやったんだ、感謝してほしいくらいだね」


「……………………」


何かが、音もなく切れた。


怒り、と呼ぶには熱がなかった。


悲しみ、と呼ぶには涙が出なかった。


ただ、“ああ、やっぱりこの世界はこうなんだな”と、どこかで納得しただけだった。


気づいたときには、床に赤が広がっていた。


柔らかな悲鳴も、白衣の擦れる音も、もう何も聞こえない。


手の中の温度が、ゆっくりと下がっていく。


(――ああ、やっと静かになった)


それが、その瞬間の正直な感想だった。


それからの記憶は、ますます曖昧になる。


警察のサイレン。誰かの叫び声。


「ショック状態」とか「解離反応」という単語が、遠くで飛び交っていた気がする。


興味は、なかった。


すべてを我慢してきた。


痛みにも、暴力にも、無関心にも。


何をされても「仕方ない」と飲み込んできた。


でも、一つだけどうしても飲み込めなかったものがある。


朝日の死に、両親が一ミリも悲しんでいなかったことだ。


――だから、壊した。


この家を。


この家族を。


俺の中に残っていた、最後の“何か”を。



 


……後になって、燐の過去を知ったとき、少しだけ不思議に思った。


こいつは、まだ葛藤している。


復讐と正義のあいだで揺れて、泣いて、迷って、それでも何かを守ろうとしている。


そういう“良心”が、こいつの中にはまだ残っている。


(いいなぁ)


心のどこかで、本気でそう思った。


俺にはもう、そんな感覚は残っていない。


罪悪感も、後悔も、正義感も、とっくに擦り切れてなくなっている。


だから――世界を憎んでいる燐が、時々、眩しく見えるのだ。


期待しない。 夢を見ない。



閉じた瞳には絶望も、希望も







――…何も差し込まないのだから。

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