姿見の水面
補修の翌日。
学校終わり次第、執務室にくるように櫻井さんから指示があった。
(なんだか最近よく呼び出されるな…)
執務室の扉をノックし、静かに扉の向こうへ呼びかける。
「柚紀です」
「…開いているぞ」
しばらくして遠くから返ってくる声を確認して、扉に手を掛けた。
「失礼します」
扉を開くと、櫻井さんは一瞬だけ視線を上げたのち、また視線を落として書類に向き合いながらつぶやく。
「葉月から聞いたぞ。期末試験の結果が出たそうだな、どうだった?」
「どうって、いつも通りですよ」
再度視線を上げた櫻井さんに、俺は微笑みを返した。
そう、国語が苦手なのは今に始まったことじゃない。
嘘は、言っていない。
「……国語」
空を見つめたまま櫻井はため息のように、ぽつりとつぶやく。
思わず肩が跳ねる。
視線を落とす俺とは裏腹に、櫻井さんは視線をじっとこちらに向けている。
「何があった」
「……文学的感性の、方向性の違いです」
「バンドでもしているのかお前は」
「…してないです。すみません」
まあ、ピンポイントでこの科目を突いてくるあたりバレてて当然だ。
正直者の葉月から話を聞いている時点で呼び出しがあったことも聞いているだろうし、
そこまで聞いたなら期末試験の結果が良くなかった可能性に辿り着くのも櫻井さんなら容易なことだろう。
「今まで成績上位の君がここまで落ちるなんて…この前から、本当になにもないのか?」
席を立った櫻井さんが、何気なく俺の肩に手を置く。
心配そうに肩を握る櫻井さんの手にぎゅ、と軽く力が入る。
力を入れているつもりはないのだろう。
それでも、その手が触れた瞬間、負傷した肩に鋭い痛みが走った。
(っ……!)
言葉にならない痛みを唇を噛んで噛み殺す。
しばらくの沈黙ののち、櫻井さんは目を伏せて手をそっとおろした。
「……わかった。君が赤点を取ったこと自体はどうでもいい。問題の本質は、その状態まで休まなかったことだ」
背を向けたまま語る櫻井の表情は、全く見えない。
(呆れられている…?)
居場所が追われるようなこの感じ。
このまま職をおろされそうな嫌な予感に、思わず非を詫びるような言葉が、口をついて出た。
「今回の成績はすみません。今後は支障のないようにしますので」
「いや。俺が言いたいのはそうじゃなくてだな…無理して悪化させて、必要な時に動けないほうがよほど“無責任”だと言っているんだ」
櫻井さんの言葉は、俺の中にあった当たり前を、静かに揺らした。
(……休むのって、逃げじゃない…のか…)
とはいえ、まだ言いよどむ俺の不安を払うようにこう補足した。
「まあそう心配するな。葉月も休ませる。最近バタバタしてたが、今は忙しいわけでもないからな。ちょうどいいだろう」
「わ、かりました…」
わかればよし、とつぶやくと櫻井さんは手元の書類をまとめて席を立つ。
時計を気にしているあたり、どうやら次の会議の時間のようだ。
先に執務室を出ていく途中、振り向きざまに指をさしながら再度釘を刺す。
「いいな?この一週間、無理に動くな。それが今の君の“仕事”だ」
誰もいなくなった執務室で、新たな価値観に戸惑いながらも、俺も執務室を後にした。




