復讐の火花
少年課の担当者にあの場を引き継いだ後。
俺は気持ちを落ち着かせるために、ショッピングモールの裏手の壁に背を預けた。
ここは廃工場エリアに近く、昼間でも人通りはほとんどない。今はなおさらだ。
また葉月に、あんな顔をさせるわけにはいかない。
櫻井にしたように、今度こそ——ちゃんとやらなくては。
俺は目を閉じ、深く息を吸って、吐いた。
少し頭を冷やしたら、モールに戻るつもりだった。
そう思って視線を上げた、その時。
少し先で、見慣れたポニーテールが揺れた。
(……捺?)
反射的にそう思う。
こんな場所にいるはずがない、と理性が告げるより先に、名前が浮かんでしまった。
声をかけようと、一歩踏み出した——その瞬間だった。
黒いワゴン車が、唸りを上げて曲がり角から飛び出してきた。
捺のすぐ横で、乱暴に急停車する。
スライドドアが開く。
伸びてきた腕が、捺の手首を掴んだ。
「きゃっ……!?」
「——ッ!?」
一瞬、頭の奥で“N.T”の文字がよぎる。
だが、すぐに否定した。
(違う)
車を出している時点で、辻褄が合わない。
未成年が、こんな運転をするはずがない。
——別口だ。
そう理解した瞬間、背中を冷たいものが走るが、考えるより先に、身体が動いていた。
「おい!!」
駆け出す俺の目の前で、捺は布のようなものを口元に当てられ、ぐったりと力を失った。
「やめろ!!そいつから離れろ!!」
「……ちっ、邪魔が入ったか」
車内から聞こえた声は、低く、濁っていた。
聞き覚えのある連中とは、明らかに違う。
車の陰から姿を現した男は、見覚えのある刺青を首筋に覗かせていた。
記憶が一気に繋がった。
(あの時の麻薬組織の残党か……!)
麻薬組織を潰した際に、確かに見た顔だった。
「ガキが……お前、あのときの“お利口なチクり屋”だな?」
ニヤリと笑う男の奥から、もう一人が顔を出す。
どちらも肉の壁のように体格がよく、同性の俺でもつい圧倒されてしまう。
——劣勢。
判断は早かった。
(深追いは無理だ。通報——)
位置情報を送れば、葉月だって駆け付けられる。
さっき来た少年課も、まだそう遠くないはず。
冷静に考えれば、それが最善だ。
「……お、通報する気か?」
視線もそらさずにポケットに手を伸ばしたとき。
男が、愉快そうに笑った。
「いいぞ。呼べよ、こいつがどうなってもいいならな」
(巻き込んだ…俺のせい…)
湧き上がった罪悪感に縛られてつい動きを止めてしまった。
そのほんの一瞬だった。
いつの間にか取られた背後から頭に大きな衝撃が走る。
陽の落ちた茜空。
それが俺の意識の最後だった。
◇ ◇ ◇
町はずれの廃工場の一角。
カビ臭いコンクリートの匂いと、割れたガラスの散らばる床。
「おい起きろよ。ガキのくせに寝てんじゃねぇ」
「……っ、く……!」
怒号と共に鳩尾に入った一撃に、肺の中の空気が全部押し出される。
目が覚めた時には、手首は後ろ手に縛られ、背中には壁の冷たさ。
まだじんわりぼやける視界の奥には、まだ意識の戻らない捺が椅子に縛りつけられているのが見えた。
「へぇ、思ったよりタフだな。さすが“警察のお坊ちゃん”ってところか?」
「ガキのくせに余計なことしやがってよ。おかげでこっちは大損害だぜ」
笑いながら、男たちは俺の頬を踏みつける。
口内に広がる鉄の味を、なんとか飲み込んだ。
(クソ。わかってたくせに……俺一人でどうにかなる相手じゃねぇって……)
それなのに、あの一瞬自分のせいで巻き込んでしまったことで、つい判断を迷ってしまった。
罪悪感のうえに積み重なる、自己嫌悪。
最悪な状況だが、捺がいる以上この中での最善を図るしかない。
幸い、パトロールの途中だったし、葉月とも合流する予定だったのでそろそろきっと探してくれてるはず。
それまでは捺に危害が及ばないように気を引き付けておかなければ。
「なぁ坊主。泣き叫べよ。録るからさ」
乱暴に髪を掴み上げ、スマホを構える男の顔に、怒りが沸き上がる。
殴り返すにしても縛られた腕じゃ限界があるが、この身一つくらいなら探しに来るまでの時間稼ぎになるだろうか。
一呼吸。
深く吸うと痛むわき腹に歯を食いしばり、意を決して、折れない姿勢を貫くことにした。
「……警察を、敵に回してただで済むと思うなよ……」
「あぁ? 誰が誰を敵に回したって?」
脳を揺さぶられるような一撃とともに、視界が滲む。
意識が遠のきかけた、その時——
ビリ、と空気が裂けるような音がした。
豪快な音ともに薄暗い外の明かりが微かに差し込み、舞い上がった砂埃に鈍く反射する。
「……なぁ、何勝手に盛り上がってんの?」
割れたドアの向こうに立っていたのは、フードを目深にかぶった少年。
「……あぁ? 誰だテメェ」
「んー……そうだな」
少年はゆっくりと室内に足を踏み入れ、そこらのガラクタをつま先で蹴り飛ばしながら続ける。
「そこの"アホ"が、ひとりで勝手に死にかけてんのを見過ごせなかった"バカ”ってとこ?」
「……燐……?」
擦れた声で名前を呼ぶと、燐は一度だけこちらを見た。
その視線に宿っているのは、呆れと——ほんの少しの怒り。
「マジで何やってんの、お前。ひとりで特攻とかバカじゃねぇの」
「な、うるさいな!」
「バカって言われて否定しねぇの、ちょっと可哀想になってきたわ」
軽口を叩きながらも、燐の足取りは迷いがない。
フードの奥で、その瞳だけが鋭く光っていた。
「おいガキ。俺たちが誰かわかってんのか?」
男のひとりが、ナイフをちらつかせながら近づいてくる。
燐は肩をすくめて、わざとらしくため息をついた。
「ヤクザの残りカス……だっけ。いや、元からカスか」
「テメェ、殺されてぇのか!!」
「あー、はいはい。そのセリフ何回目?」
次の瞬間だった。
目にも留まらぬ速さで、燐の足が男の手首を払う。
ナイフが床に転がるより早く、男の鳩尾に膝蹴りがめり込んだ。
「が、はっ……!」
一撃で、男は冷たい床に沈む。
(……速っ……!?)
あのひょろっとした身体のどこにそんな力があるのか。
驚いている隙にも、燐はもう別の男に向き直っている。
「おい、ガキだからってナメてると——死なねぇ程度には痛い目見るぞ?」
「調子乗ってんじゃねぇぞォ!!」
男は威勢よく飛びかかってくる。
燐はひらりとその拳を避け、背後に回り込むと、膝裏を蹴り払った。
「うっ……!」
「数いりゃ勝てるとか思ってんなら、甘すぎ——」
しかし、もう一人が後ろから振り下ろされた鉄パイプを、さすがの燐も完全には避けきれなかった。
鈍い音がして、彼の肩が大きく揺らぐ。
「——ッ……ってーな……!」
「燐!!」
縄で擦り切れた手首が、じくじくと痛む。
それでも、ここで何もできないまま座っているなんて耐えられなかった。
幸い、雑な結び目のおかげで微かに希望がある。
わずかな隙間を無理やりこじ開け、皮膚が裂けるのも構わず、縄の輪から手首をもぎ取るように抜いた。
縄が食い込み、血がにじんだ。
「……ちょ、東雲!? 立つなバカ!!」
「うるさい……っ」
壁に身体を預けながらも、俺は立ち上がった。
指先が痺れて、握る感覚が薄い。
左目の視界はまだ朧げ。足元はふらつく。でも——
(こいつに全部任せておくなんて、もっとムカつく――…!)
擦り切れた手で、燐を真似て力いっぱいに虚勢を張った。
「オラよそ見してんじゃねぇよ!」
「うるせぇっつってんだろ!!」
突っ込んでくる男の腹に、ありったけの力で蹴りを叩き込む。
体勢を崩したところを、燐がすかさず横合いから殴り飛ばした。
「タイミングくらい合わせろアホ!! 危ないだろ!!」
「合わせただろ今!! お前が崩して俺が仕留める!!」
「勝手にコンビみたいにするな!!」
言い合いながらも、身体は自然と噛み合っていた。
俺が前に出て、真正面から突っ込む。
相手の注意と攻撃は、すべて俺に向く。
その死角から、燐が容赦なく急所を狙ってくる。
膝。鳩尾。後頭部。視界の外側から、何度も蹴りやパンチをお見舞いしていく。
「下がってろバカ。正面で受けてんじゃねぇ」
「お前こそ、背中向けてると刺されるぞ!」
「刺される前に寝かせりゃいいだろ」
最後のひとりが、捨て身で燐に飛びかかる。
その瞬間、俺は無我夢中で飛び出した。
「——っ!!」
殴り飛ばされる覚悟で、身体を盾にするように割り込む。
しかし、どこからか伸びてきた足が、その男の顎を蹴り上げた。
乾いた音がして、男はその場に崩れ落ちる。
ようやく夜の静けさに包まれ、初めて微かな虫の音が遠くに聞こえる。
「……なに勝手に死のうとしてんだよ、お前」
静寂を破るようにぽつりと燐の声が響いた。
視線を上げると、肩で息をしながら、燐が俺を睨みつける。
「ひとりで突っ込むわ、背中ガラ空きだわ……。見ててイラつくんだよ。もうちょい自分の身体大事にしろ」
「……お前にだけは言われたくない……てか、関係ないだろ」
「はぁ?お前っ人がここまでしたのに…っ」
「……あ…れ…?」
燐の怒号に背を向けていると、か細い声が耳に届く。
振り返ると、捺がゆっくりと目を開けていた。
「捺、大丈夫か!?」
思わず駆け寄り、捺の拘束を解いた。
「……なんか、頭いた…てか、なにこれ………ケンカ?」
「はは、元気そうで安心した……」
無事を確認すると、力が抜けるように少し笑える。
背後の彼の存在に気づいた捺は、一瞬だけ警戒するように目を細めた。
「……誰?」
フードを深くかぶり直した燐は俯き加減のままつぶやく。
「ただの通りすがりの不良だ。今は味方と思っとけ」
「不良が味方ってどんな状況……」
苦笑しながらも、捺は縄を解かれた腕をさする。
足元はふらついていたが、自力で立つことはできそうだった。
その時、遠くでサイレンの音が聞こえた。
「……誰か、通報したか?」
「さぁな。通行人か、さっきの騒ぎ聞いた誰かだろ」
ふと後ろを振り向くと、倒れていたはずの男たちの姿が、いつの間にか消えていた。
床に残っているのは、血の跡と、引きずられたような痕だけだ。
燐は一度だけ窓の外を確認すると、俺の腕を乱暴に掴んだ。
「そこの女は、とりあえず外に連れてけ。人目のあるとこまで運んで、警察に拾わせろ」
「お前は?」
「片付け。お前と違って、俺は身元バレると面倒だからな。……それと」
燐は俺の顔を見て、露骨に眉をひそめ耳打ちする。
「お前、その肩と腹。今のままじゃ歩くのもやっとだろ。そいつに見られたらパニックだわ、バレんじゃねーよ」
「……っ……」
言われて無意識に腹を押さえる。
さっき入った蹴りの痛みが、遅れてじわじわと広がってくる。
「ほら行けよ」
「……わかった。捺、歩けるか?」
「柚紀くんこそ、大丈夫…なの?」
「大丈夫だって」
無理やり笑って見せると、捺はほんの少しだけ口元を緩めた。
「ありがと」
その小さな声を背中で受け止めながら、俺は捺の肩を支えて外へ向かう。
人気のある通りまで出たところで、ちょうどパトカーのライトがこちらを照らした。
制服の下、チェーンに通したリングが胸元で冷たく鳴った。
特殊捜査員の証明——それだけで警官の目つきが変わり、捺を引き取っていく。
「君も病院に——」
「いえ、俺は大丈夫なので、報告しがてら医務室寄ります。それより、彼女を頼みます」
できるだけ平静を装って頭を下げる。
その場を離れ、廃工場の裏手の死角を曲がった瞬間。
急に膝から力が抜けた。
「……っ!」
壁にもたれかかるようにして、なんとか倒れるのだけは耐える。
そのままずるずるとへたり込むとやっと現実に戻った気がしてくる。
(……本気で、死ぬかと思った……)
改めて、さっきまでの状況を思い返して胃が冷たくなる。
そこで、ふっと影が視界に差し込んだ。
「立てる?」
見上げると、フードを外した燐が立っていた。
さっきよりも、ほんの少しだけ表情が柔らかい。
「……なんで。まだいたのかよ」
「お前が警察にしゃべったら困るからな。そりゃ見届けるぜ」
「…別に言わないよ。このくらい少し休めば大丈夫だし」
言いながら、燐はため息をついた。
「その顔で、“大丈夫”は通らねぇよ。このまま戻ったら全部報告だろ。こっち来い」
「え…」
そういって肩を貸して俺を立ち上がらせると、無理やりに手を引いた。
◇ ◇ ◇
夜道を歩くうちに、街の灯りは徐々に少なくなり、より一層人気も途絶えていく。
燐は何も言わず、廃工場エリアを進んでいく。
「……おい。本気でどこ行く気だよ」
「不安なら引き返せよ。——ま、今の状態でまたやつらと鉢合わせしたら普通に死ぬけどな」
振り返った燐の悪戯な笑顔が月明かりに照らされる。
その言葉を聞いて想像してしまうとぞっとする。
燐の言う通り、仮に今出くわしたら逃げる気力すらない。
「お前、脅し方がえげつないんだよ……」
しばらく歩くと、例の壊れた塀の隙間が見えてきた。
猫の通り道みたいな細い道を抜けると、古めかしい木製の扉が現れる。
「ここ……」
「文句言うなよ。こっちも好きで連れてくわけじゃねぇし」
ギィ、と重い音を立てて扉が開く。
かつてバーだったらしいその空間には、見慣れないはずなのにどこか落ち着く空気が漂っていた。
「唯、真琴。帰ったぞ」
「…おかえり。なにそれ」
リビングで本を読んでいたであろう唯は驚く様子もなく、淡々と本を閉じる。
「拾った」
「捨てられてない。てかここ、まさか——」
「まあ、座れ。救急箱持ってくるから」
くだらない軽口を繰り広げたあと、有無を言わさず、燐は俺をソファに座らせる。
胸の奥が、少しだけざわついた。
(……ここが。こいつらの、“居場所”——)
少し前まで向かい合って対立していたというのに、今日は共に戦いその相手の家にいるなんて、理屈で考えたらおかしな話だ。
でも、不思議と——怖くはなかった。
乱暴で、口は悪くて、犯罪をしているくせに。
それでも確かに、さっき俺と捺を守ってくれたのは、この“犯罪者”だった。
燐は救急箱を持って戻ってくると、傷口を手当てしながら、ぶっきらぼうに言った。
「覚えとけよ。——今日からお前は、“俺が一回は助けてやったアホ”だからな」
「なんだそのカテゴリー」
「勝手に死なれたら、寝覚め悪ぃだろ」
「は?なんで」
「なんでもだよバカ!」
「いっ…」
俺の回答に不服だったのか、燐は手当てが終わったばかりの肩をぎゅっと掴む。
容赦なく掴まれた患部に走る激痛に、思わず情けない声が漏れる。
けれどその痛みが、まだ現実に戻ってこられている証みたいで、今は少しだけ悪くないと思えた。
それほどに燐の言葉が、やけにあたたかく響いた。
この夜を境に——
俺と燐の距離は、少しずつ、確実に変わり始めた。
◇ ◇ ◇
『タクシー、手配するね。……支払いはいつもの口座で』
唯の声が、妙に現実的で。
その一言でようやく、俺の中の“事件”が“事後処理”へと切り替わった。
——帰ったら、報告書だ。
櫻井さんには、会わずに済ませる。
——あいつらは、まだ終わっていない。




