雨の向こう側
雨脚が強くなってきたのは、ちょうど巡回を終えて寮に戻った頃だった。
夜の廊下は静かで、雨が打つ音だけが規則的に響いている。
(……にしても、よく降るな)
傘を畳ぎながら歩いていると、廊下の奥。
東雲の部屋の前で足が止まった。
そういえば今日は的場のもとへ行かせたはずだが、柚紀からは何も報告がない。
いつもなら愚痴を盛大に織り交ぜながらも必ず報告には来る生真面目なやつだ。
だからこそ、胸の奥に小さな違和感が灯る。
帰宅しているかの確認も含めて、部屋をノックする。
パタパタと駆けてきて扉を開けたのは、葉月だった。
「あれ、櫻井さん。お疲れ様です。珍しいですね、こんな時間に」
「ああ、遅くに悪い。柚紀は戻ってるか?」
その名を出した途端、あからさまに葉月の表情は曇った。
「部屋にいます、けど…」
「けど?」
続きを言いよどむ葉月は、ゆっくりと首を振った。
「わからないんです…帰ってきたときはずぶぬれで、帰ってきてからずっとこもりきりで…」
言葉を紡ぐ葉月の顔には、はっきりとした不安が浮かんでいた。
その表情だけで、櫻井には十分すぎる情報だった。
(……やはりなにかあったか)
柚紀の部屋の前。
扉の前で一度立ち止まり、軽くノックする前に、息を整える。
感情で踏み込むべき場面じゃない。
「……柚紀、起きてるか?」
紙の音が、ぴたりと止んだ。
室内が急に静まり返る。
まるで、
息を潜めているような、隠しているような沈黙。
櫻井は小さく眉を寄せる。
返事が来るまでの数秒が、妙に長い。
「……起きてます」
抑えた声。
普段よりも、低い。
(やっぱりおかしいな)
櫻井は扉を軽くノックした。
「開けていいか?」
「……少し、待ってください」
数秒後、扉が少しだけ開いた。
ほんの10センチ。
顔の半分も見えない開き方だった。
そのわずかな隙間から漏れる空気で、櫻井は確信した。
——何かあった。
「ずいぶん濡れたらしいな。帰りに降られたか?」
「……はい。ちょっと」
「“ちょっと”でその濡れ方にはならねぇよ」
軽口で探りを入れる。
しかし、東雲は苦笑すら見せなかった。
目の奥の揺れ。
焦点の合わない視線。
それは“疲労”とも“落ち込み”とも違う。
もっと渦の深い——“疑い”や“迷い”に近い何かだ。
櫻井の胸に、ひどく嫌な予感が広がった。
「……何かあったのか?」
柚紀は一瞬だけ息を呑む音を立てた。
けれどすぐ首を振る。
「なにも。大丈夫です」
(嘘だな)
櫻井は言いたかった。
だが、追い詰めるようなことは言えなかった。
柚紀には“言えない理由”がある。
それが声と態度からすでに伝わってくる。
「……そうか。ならいいが」
引き下がるふりをして、櫻井は扉から身を離した。
しかし去り際に一言だけ置く。
「柚紀。何かあったら、必ず俺に言え」
「……はい」
返事はあった。
だが扉が閉まる直前——
ちらりと覗いた柚紀の表情は、
まるで雨に溶けていくように曖昧だった。
(……だめだな。あれは“大丈夫な”顔じゃねぇ)
櫻井は歩き出しながら、胸の重みを深めた。
東雲はこれまで、任務にも、仲間にも、葉月にも
揺るぎない“芯”を持って立っていた。
その彼が──初めて、雨に打たれたみたいな顔をしていた。
(どこで……何があった)
雨の音が、やけに耳に残る。
“何も起きていない”と自分に言い聞かせようとしても、
心はその言葉を拒んでいた。
(……嫌な予感がする)
胸の奥がざわつく。
それは長年の勘に近いものだった。
『何か、大きな変化が起きる前の静けさ。』
櫻井は、窓の外の暗い空を見上げた。
(明日、柚紀と話す時間を作るか……)
雨はまだ、止む気配もないまま。




