止まない雨
燐の語りが終わったあと、公園の空気はひどく静かだった。
さっきまでそこにあった街のざわめきでさえ、どこか遠くに聞こえる。
俺はすぐに言葉を返せなかった。
どんな言葉を返せばいいのか、わからなかった。
「……悪い、なんか重くなっちまったな」
燐がそう言った。
いつもの挑発的な口調ではなく、少しだけ疲れた声で。
「いや……話してくれて、ありがとな」
本当に、それしか言えなかった。
慰めなんて、そんな軽いものじゃない。ただ——逃げずに耳を傾けた自分が絞り出せたのは、この一言だけだった。
燐はふっと小さく笑った。笑った……ように見えただけかもしれない。
「別に、お前にどう思われようが関係ねぇけどさ」
「……そうか」
「でもまあ……お前なら、話してもいいかなって思っただけだ」
そう言いながら、燐は立ち上がった。
街のほうを一度だけ見て、肩をすくめる。
その時ぽつ、と地面に水滴が落ちた。
(……雨か)
空を見上げると、どんよりとした灰色が広がり始めていた。
燐もそれに気づいたらしく、小さく舌打ちした。
「ちっ……降る前に帰るわ。話はもう終わりだろ」
「……ああ」
踵を返して歩き出す燐の背中は、どこか小さく見えた。
けれど——触れられない。
俺が何か言ったところで、何も変えられない気がしたからだ。
燐は振り返らず、片手を軽く上げて別れの合図をして、手を振るとそのまま住宅街の方へ消えた。
残された俺は、しばらくその場に立ち尽くした。
胸の中で渦巻くのは、消化できないもやもや。
(……正義って、なんだろう)
今日まで疑ったこともなかった。
悪いことした奴は捕まって、罪を償う。
俺たちはそのために力を使う。
それが「正しい」と信じて疑わなかった。
けれど、現実はどうだろうか。
燐の両親を殺した男は、生きている。
“証拠がない”というたったそれだけで、自由になっている。
その姿を目の前で見せつけられた燐は、どんな思いだったんだろう。
ぐっと胸に痛みのようなものが走った。
(こんなのって……ありかよ)
正義って、本当にあるのか。
俺たちは今まで何を“信じて”ここにいたんだ。
ぽつ、ぽつ、と落ちる雨は次第に大きくなり、傘も持っていなかった俺の肩を濡らしていく。
だが、帰ろうとは思えなかった。
足がしばらく動かなかった。
——こんなに強く揺らいだのは、初めてだ。
自分が今いる場所が
“本当に正しい側”なのかどうか。
立場上で言えば燐と関わるべきじゃないのは明白。
頭では理解しているのに、どうにも腑には落ちない。
そんな矛盾を抱えたまま、俺はようやく足を踏み出した。
雨の中、ひとりで寮へ戻っていく。
◇ ◇ ◇
キッチンでグラタンにチーズを乗せていたとき、玄関の鍵が「カチャ」と静かに開く音がした。
「ゆず、おかえり——」
そう声を掛けようとして、私は息を呑んだ。
廊下に立つゆずは、まるで雨の中に長時間置き去りにされたみたいに全身ずぶ濡れだった。
「えっ、ゆず!? 傘……持ってなかったの? お風呂すぐ沸かすね!」
「……うん」
返事はあった。けれど、そこに“温度”がない。
濡れた髪の先から滴る雫。
靴下までしっかり濡れていて、歩くたびにぴちゃりと音がする。
まるで、ここじゃないどこかに心だけ置き忘れてきたみたいだった。
私は急いで浴室へ向かいながら、何度も振り返った。
ゆずは、ただ立っていた。
ぼんやりと濡れた前髪の隙間から、何かを失くしたような目で。
(……なにがあったんだろう)
声をかけるべきかどうか迷うほどの、深い沈黙。
お湯が溜まり始める音を確認して戻ると、私はゆずの正面に立ち、そっと言った。
「今日はね、グラタンなの。焼けたらすぐ食べよ?」
一瞬だけ、ゆずが顔を上げた。
そして——笑った。
いつもの笑みじゃない、頬の筋肉だけが無理に動いたみたいな、痛々しい笑みだった。
「……あとで、食べるから」
その声はまるで遠くの人のものみたいで、胸がきゅっとなった。
結局その夜、ゆずは食卓に来なかった。
「調査報告まとめるから」と言って、自分の部屋に閉じこもってしまった。
たまに扉の隙間から聞こえてくる紙の擦れる音だけが、唯一生きている気配のように部屋から漏れてくる。
私は一人で食卓につきながら、さっきの笑顔が頭から離れなかった。
(……雨に濡れただけじゃないよね)
寮の外で降り続いている雨音が、まるでゆずの心をなぞるみたいに止む気配を見せなかった。
その夜、私はゆずの部屋の前まで何度か行ったけれど——ノックはできなかった。
ゆずが初めて、“手の届かないところ”にいる気がしたから。
気づけば、夜は静かに深く沈んでいった。




