どこじゃ、どこじゃ、毒蛇はここじゃ~千鶴と美里の仲良し事件簿~
一
「前から急いで来はるん、ちづちゃんのおじいちゃんと違う? ほら、電車道渡って来はる人」
いっしょに下校していた美里は、千鶴のそでを引いた。
「そうや。なんやえらいあわててるみたい。汗ふきふきこっちへ来るわ」
祖父の徳治は、もともとおっとりした性格で、よほどでないとあたふたすることはない。それが、半分駆けるようにして歩いてくる。
千鶴は手を上げた。
「おじいちゃん、なんでそんなに急いでるのん?」
止められた祖父は、みけんにシワを寄せ、わずらわしそうに答えた。
「ちょっと、急用があるねん。帰ったら、すぐ高野山へ行くんや。ほな、行くで」
返事もそこそこに、徳治は自宅の方へ立ち去ってしまった。そのあわてぶりに、千鶴は首をかしげた。
二
「ただいま」
クツをそろえた千鶴は、台所の母に声をかけた。
「お帰り。きょうは早いねぇ。みさちゃんと道草食うて来なんだんか」
自分の部屋に入った千鶴は、ランドセルを机に置いた。
「途中でおじいちゃんに、会うたよ。えらい急いでて、家に着いたらすぐに高野山へ行く言うて、駆けていきはったわ」
返事を聞いたとたん、母親が叫んだ。
「えぇーっ、あかんがな! あと半時間もしたら、司法書士さんとこへ一緒にいくことになってるのに、何でそんな山へ登るんや」
エプロンで手をふきふき、母が千鶴の部屋へ入ってきた。
「いややわあ、おじいちゃん、また忘れてしもうてるんや。大事なことやから、昨日の晩も電話で念を押したのに。ほんまか?」
うなずく千鶴を見た美津子は、ばたばたとリビングの電話台まで駆けて行き、番号を押した。
呼び出し音が聞こえてくるが、だれも出ない。しばらく受話器を耳に当てていたが、あきらめて電話を切った。
「おかあちゃん、これから駅まで行ってくるわ。帰りに会うたんなら、まだプラットホームにでもいてるかわからへん。連れて戻ってくるわ」
そう言い置くなり、母はエプロン姿のまま表へ飛び出して行った。
三
トイレから出てきた徳治は、手を洗っていた。
「ああ、ほっとした。帰って来る途中でおなかの調子が悪うなってえらいこっちゃ。お昼に食べたお造りが傷んでたんやろか。三日、いや四日前やったかに買うて忘れてたのを、もったいないと思うたんが悪かったんやろか」
最近は、刺し身をお造りと呼ぶ人も少なくなった。彼は、習い性というより、わざと古い言葉を使う。
「そやけど、千鶴ら、高野山て便所のことやとわかったやろか。高野山→お坊さん→髪の毛を落とす→紙を落とす→便所やなんて、大阪弁はおもろい」
このように、相手のわからない言い回しをし、困惑するのを見て喜ぶという厄介な性格なのだ。
生魚は前日でも、なんとなく気持ちの良くないものだが、三日以上も冷蔵庫にほうっておいて、そのまま食べるという神経がわからない。
封を切って残ったハムを、賞味期限があるからと何日もおいてある。だから、美津子がときどきのぞいて整理する。
妻に先立たれ、いまは一人住まいの徳治だが、若いころから住み込みで働いたので、家事は一通り何でもこなす。男所帯でも不自由はない。だが、年のせいか、最近、物忘れがひどくなってきて弱っている。
何かを取りに二階へ上がりながら晩ご飯のおかずを考えていると、着いたときには、もう何をしにきたのかわからない。
階下に下りたとたん思い出し、もう一度のぼっていくなどは日常茶飯だ。最後までわからないことも多い。そんなときは、もしやあの病気かもと、額に暗いすだれが下がる。
忘れていていいこともあるが、火の元は失敗できない。フライパンからチャーハンを皿に移して食べかけていたら、焦げ臭い。よくみると、ガスの火を消さず、空のフライパンをもう一度かけ直していた。
だから、オール電化にした。消し忘れても、ふつう火は出ない。料理中に過ってそでを焦がしたりする心配もない。
早くから都会へ働きに出て、故郷に直系の親族はもういない。家も土地もほうったらかしのままである。そこで、このたび山林などの不動産を処理しようと、きょう美津子と司法書士のところへ出向くことになっていた。
「事務所で落ち合うことになってるから、そろそろ出かけんとあかん。ほな行こか」
と、玄関まで出てきた。
クツを履こうと、げた箱に目をやると、上に紙包みがのっているのに気づいた。
「あ、便所に入ってる間に持ってきてくれたんか。戸が開いてたから、気を利かして置いててくれたんやなあ」
不用心なことに、玄関は開けっ放しだった。
帰ってきたときは、カギどころではなかったのである。とにかく目に映るのは、便所の扉一枚のみ。
目は血走り、履き物を脱ぐのもそこそこ、便器に座るのと、開門が紙一重という状態だった。大太鼓を合図に始まる西宮戎の福男選びを想像していただけるとありがたい。
紙包みとともに、彼はDKまで戻った。反対側の手に持っていた携帯電話をテーブルに置いて、包みをその横へ並べようとしたとき、同じ柄の紙包みが横にもあるのに気づいた。
このまま並べておいたらまた間違えると、紙包みをもったまま部屋をうろうろし始めた。フェルトペンを探しているのである。
使用したものが、まともに元あった場所へもどっていることはない。なぜ、こんなところにしまったのか、自分でも首をかしげるときがたびたびだ。
やっとペンを見つけ、包みの上に中身を書いてテーブルに置きなおした。ごていねいにも、携帯電話の上へである。目も、うとくなった。見ているようで、まったく見ていない。
そのまま、さっそうと彼は出て行った。
四
「やっぱりおらへん。もう電車に乗って行ってしもうたんやろか。しょうがないなあ」
プラットホームに人影がないのを見て、美津子はがっくり肩を落とした。
「携帯にも出えへんし、千鶴に頼んでおじいちゃんの家に行ってもらおか」
そうつぶやいたあと、自宅へ電話をかけ、娘を呼び出した。
「あ、千鶴か。わるいけどなあ、ちょっとおじいちゃんのとこへ行ってきてほしいねん。携帯もかからんし、もしかして家で倒れててもあかんから」
宿題中の千鶴に頼んだ美津子は、プラットホームの階段を下り出した。
五
「ここや、ここや。ここやねん、おじいちゃんの家」
美里を誘い祖父を訪ねた千鶴は、同じような家の並ぶ一軒を指さした。
ガラスの格子戸がはまった古い造りの長屋である。通りから、石畳が残る細い路地を入ったところにあった。
「ちょっと待ってなぁ」
千鶴は預かっているカギを取り出し、錠を外した。そして、引き戸をがらがらと開けると、中をのぞき込んだ。
「玄関に履き物があらへん。やっぱりどこかへ行ったんや。みさちゃん、上がろ」
友を誘って、彼女は部屋に上がり込んだ。
とっつきの間は三畳くらい。ふすまを隔てて次の板の間が台所になっている。入り口に紺色ののれんの掛かっているのが古くさい。すぐわきに二階へ上がる階段が見える。
台所の真ん中にテーブルがあった。IHジャーの横に、ソースやしょうゆなど調味料を並べたお盆が置かれている。そのわきに徳治がフェルトペンで注意書きした紙包みが並んでいたが、二人はまだその存在に気づかない。
「トイレにもおらんし、ちょっと二階に上がってくるわ」
千鶴は階段をのぼった。
万年床ではなく、ちゃんと布団も片付けてあり、部屋はきれいに整理されていた。一目でだれもいないというのがわかる。
奥の物干しにも出てみた。洗濯物は取り入れられており、植木鉢に水も与えられたあとがあった。
部屋へ戻りかけた、そのとき、美里の叫び声が聞こえた。
「ちづちゃーん、変なもんがあるぅ~」
六
「どないしたん、大きな声張り上げて」
あわてて階段をかけ下りた千鶴は、大きく見開いた目をテーブルの一点に集中させている美里に尋ねた。
「こ、この紙包み」
美里は、テーブルを指さした。
例の紙包みである。その上に黒々と書かれていた文字は「まむし」だった。千鶴も目を見張った。
「まむして、あのマムシやろか」
「あのマムシしかあらへんやろ」
二人は顔を見合わせ、鯱張った。
「ウチのおじいちゃん、いくら変わってるからいうても、ヘビなんか置いとけへんわ。何か違うもんやで」
まもなく気を取り直した千鶴が口を開いた。
「ごめん、徳やんおるかぁ」
と、そのとき、玄関先で声がして、彼女らは振り向いた。
どうぞ、とも言わないのに上がってきたのは、隣に住むお重さんである。
「あっ、おばあちゃん。ええとこへ来てくれはった。これ見て」
困っていた二人は、お重さんの出現にほっと胸をなでおろした。
「この紙包み、何やろ」
千鶴は、テーブルを示した。
「何て、なんや」
台所へ入ってきたお重さんは目を細めて包みを見た。
「何や、何が入ってるねんて。うーん、ま…む…し。えーっ、マムシ!」
「そやねん。マムシて書いてあるねん。そやけど、おじいちゃん、ヘビなんか置けへんわなあ」
「そらそやろけど……」
三人は、気色悪そうに包みをのぞき込んだ。
七
「かなわんなぁ、ヒロちゃんのお母さんにつかまったら、なかなか離してくれへん。ああやこうやと三十分以上もたってしもうたがな」
美津子は駅下の宝くじ売り場で、何とかジャンボを買い終えた浩子ちゃんの母親とばったり。
しまった、と思ったものの、まさか知らぬ顔もできず、いつも千鶴がお世話に、とあいさつをしたのが相手のおしゃべりボタンを押した。
長々とくだらぬ世間話につき合わされ、やっとその虎口から脱してきたばかりである。
「おじいちゃんの携帯に、もういっぺん電話してみよ。さっきは出なんだけど、ひょっとしたら今度は気づくかも」
彼女は、短縮ボタンを押した。
八
恐る恐る近寄った千鶴ら三人。しばらくは包みをじっと見つめていたが、お重さんが勇気を出して持ち上げようとした。
と、そのとたん、ガサガサッという音とともに紙包みが踊りだした。
それでなくとも、へっぴり腰だった三人は、「ぎゃっ」と悲鳴をあげた。まさか、バイブにしてある徳治の携帯電話がコールされて、紙包みの下で踊り回っているとは、だれも気づかない。
千鶴と美里はその場にへたり込み、一方のお重さんは、どこにこんな運動能力が残っていたのかと目を見張るほどの敏捷さで家を飛び出した。
ところが、玄関先に転がっていた近所の悪がきのスケボーに乗ってしまい、すってんころりん。石畳に腰をしたたか打ちつけた。
「あいたた。また、あの本屋の子倅やなあ、こんなところに戸車付きのまな板を置いときよったんは」
腰をさすりさすり起き上がったお重さんさんは、スケボーを突き飛ばしながら毒づいた。
「親が親やったら、子も子、孫も孫や。ひ孫までつくりよって。あんなじじぃ、戦争に行ったとき鉄砲の弾に当たりよったらよかったんや。ウチの夫だけ、マッカーサーの手下にやられてもうて」
日ごろ気の合わぬ近所の悪口で、起こったことを一瞬忘れてしまったお重さんだったが、ハッとある事に思い当たった。
「そういうたら、徳やん、このあいだ赤マムシが体にエエたら、焼酎漬けをつくりたいなぞと言うてた。どっかから、ヘビを手に入れよったんや。こらあ、えらいこっちゃ」
あわててお重さんは立ち上がり、ほこりを払った。
「この間は、なんやらいうクモ、あの、ほら、タランチュラやったか。ラーメン屋のあほたれ息子が飼うてんのを逃がして、大騒ぎになったと思うたら、こんどはヘビや。この町内は動物園か。もう、ホンマに」
数ヵ月前、外国産の大グモが飼っていたケースから逃げ出した。
毒性は低く、抜いてあるとはいうものの、近所は大パニックに陥った。警察まで出て捜索したが、なかなか見つからない。
ところが、お重さんがトイレに入ったところ、温かい便座の裏側に隠れていたクモが、おしりへはい出してきた。エサに、つぼ漬けのたくあんでも入れてくれたと勘違いしたのだろうか。
その後の騒ぎは、叙述するにあまりある。彼女は、大いなる被害者だったのだ。
それに懲りていたこともあって、お重さんさんは小さな二人のことなどすっかり忘れてしまい、腰をなでなで交番へと駆けて行った。
九
長屋造りの小さな民家だけに、DKといっても四畳半あるかなしの大きさ。シンクの横に冷蔵庫、反対側には食器棚とテレビ台が置かれ、中央にテーブルとイスが並ぶと、もうほとんどすき間がない。
そこへ小学三年生とはいえ、女の子二人が倒れ込んだ。積み損ねたテトリス状態で、わずかばかりの空間はあるものの、体の動かしようがなかった。
かわいそうなのは美里で、シンクの前でテーブルとイスに挟まれ、残りの一方が冷蔵庫だったが、ドアが45度の半開きになったのがわざわいし、にっちもさっちもいかなくなった。
落ち着いてイスを片付けるなどすれば、何とか脱け出せないものでもなかったが、毒蛇が襲いかかってくるかもしれないという恐怖で半分腰が抜けているのである。
一方、玄関側の千鶴は、イスの下にもぐりこんだ形ながら、何とか起き上がれそうで、体をもぞもぞ動かし、はい出そうとしてていた。
「ちづちゃん、どこ行くの。ウチだけ放っておかんといて」
情けなさそうな友の声を背にしながら、千鶴は、
「あのう、ちょっと玄関のクツをそろえに行ってくるわ」
と、うしろめたげに答えた。
「なんで? いま別に行かんでもええやん」
「い、いいや、ウチ、おかあちゃんから、クツはちゃんとそろえて脱ぎなさいと言われてたのを、忘れてたん」
「うそや、そんなこと言うて、逃げるんやろ」
「ちゃ、ちゃう、ちゃう。すぐ帰ってくるわ。あんたのクツもそろえてきてあげるさかい」
「いらん。ウチはそろえてなんかいらへん」
「そんなこと、いわんと。ちょっとその手ェはなして。おねがい」
自分の右足をつかんで離さない、美里の手をふりほどこうともがいた。だが、相手も必死で、なかなかイスの下から脱け出せない。
二人とも、ヘビがこわいものだから、友達とはいえひとのことを考える余裕がない。逆の立場だったら、美里が逃げ出そうとしただろう。
そうこうしているうち、イスが傾き、その背に絡んでいたテーブルクロスがずるっとずれた。すると、上に乗っていた何かが美里の首の上へ落ちた。
「ひわぁ~ッ」
十
「ちづひゃ~ん、なんかふびのうふぇにのってるぅ~」
あおむけに倒れ込んでいた美里の声が、震え出した。目は空を泳ぎ、体は完全に硬直し切っている。
「なんか、かみのふふろみひゃい。あのふろいじがかいふぇあるふふみとひゃうかぁ? ひょっとみへ~」
何かが首の上に乗っている。紙の包みみたい。あの黒い字、つまり「まむし」と書いてある包みではないか、ちょっと見て、と言っているのである。
「いややぁ、ウチ見たない。そんなもんいらん」
千鶴は、顔をそむけるようにして、つかまえられている右足をひっぱろうとした。
「ちどぅふぁん、あんふぁ、ひんゆ~ひゃろ。たふへて~なぁ」
翻訳すると、ちづちゃん、あんた親友やろ、助けてぇな、となる。ふるえ具合がひどくなってきて、何を言っているのかわかりにくい。
「ウチ、あんたと親友やけど、毒ヘビとは親友ちゃうもん」
冷たい友の言葉に、美里は半分泣き声になった。
「なんひゃ、ふふみふぁなまあふぁふぁかいでへぇ~。とふぉふぉふぉ」
何か、包みが生温かい、彼女はこう訴えているのだ。最後の言葉が「とほほほ」であるのは、いうまでもない。
「ヘビは変温動物やから、ちょっとがまんしてたら体温とおなじになるんちゃうか。IHジャーの保温スイッチが入ってたから、くっついてて温いんや」
「ほんなんいうふても、おひっこひびりそうなんひゃ~」
もうおわかりだろう。おしっこをちびりそうだという。
「がまんしぃ」
「あふぁん、でふぇへへへへん」
あかん、でけへん――美里の声は、半泣きどころか全面的泣き声に移行していた。
「ウチのおじいちゃん、戦争中、戦闘機にガソリンがなくなっても精神力で飛べと教えられた言うてたで。ガソリンなしで飛行機が飛べるンやったら、おしっこも精神力でがまんできるんとちゃうかぁ」
「ほんなぁ、ひふぉのふぉとひゃとおもふて~」
もうほとんど翻訳不能だが、どうやら、ひとの事だと思って不人情なと叫んでいるようにも聞こえる。
首の上という不安定な場所に、そう長い間包みがしっかり乗っているはずはない。とくに体が震えているのである。徐々にバランスが崩れ出した。
一方がやや下がったと思うと、紙包みは首筋をズズッ、ズズッとずり落ちてきた。
「こふぁひぃ~」
恐怖の極致に達した美里は、千鶴の足を思わずぐいと引っ張った。はずみで、彼女のはさまっていたイスが倒れ、からんでいたクロスが大きくずり落ちた。
がらがら、がしゃーん。
上に乗っていたIHジャーはひっくりかえり、中のご飯が二人の上にかぶさった。
そこへ、ソースとコショウ、七味とんがらし、さらに、にんにくのしょうゆ漬けと福神漬けの瓶のふたが外れて落ちてきたからまらない。ミックス・チャーハンをつくっているフライパンの中状態になってしまった。二人は具の一部と化したのである。
「あちちち、きゃー」
「ふひゃ~、まむひにふぁまれた~」
熱さでマムシにかまれたと勘違いしたらしい。
「はっくしょん」
「ひゃっふひょん、びゃははは~」
狭い四畳半は大混乱におちいった。
そのころ――。
十一
「いつまでたっても、美津子はん事務所に来えへんがな。司法書士のセンセ次の用事がある言うて出ていきはるし。どないなってるんや」
ぶつぶつと独り言を言いながら徳治は自宅へ戻っていた。
「司法書士の先生にも電話が通じへん。どないなってるんやろ。おじいちゃん、変なとき、お参りに行くもんやから」
と、速足で歩いてきた美津子が辻角を曲がろうとして、わきから出てきた徳治と出合い頭にぶつかりそうになった。
「危なッ、だれや気ぃつけんかいな、曲がり角は」
「あんたこそ、注意しなはれ、あ、おじいちゃん」
二人は、ぶつかる直前で止まった。
「おじいちゃんッ、 きょうは大事な約束があったのに、お参りに行く言うて出かけてしもうて。忘れたんですかッ、今日の約束。司法書士の先生のとこへ行くことになってましたやろ」
美津子は、不満の声を上げた。
「あんたこそどこへ行ってはったんや。わし、センセとこで長いこと待ってたんやで」
徳治も応じた。
「ええっ、もう行ってはりましたんか。いいえぇな、千鶴が学校帰りに会うたら、おじいちゃん、お参りに行く言うてあわてて帰りはった、と聞いたもんやから。駅までさがしに行ってきたとこですがな」
徳治は、みけんにシワを寄せた。
「お参り?」
美津子は、いぶかる祖父に答えた。
「高野山へ行くて」
聞いたとたん、彼は噴き出した。
「あはっ、あははは。こらぁおかしい。あいつらひっかかりよったんか」
「何がおかしおまんねん」
「違うがな。高野山て、便所のことやがな」
「ええっ、便所?」
高野山と呼んだのは、汲み取り式時代である。
便所の異称である厠がなまったという説もある。だが、坊さんから髪、紙、トイレへの連想だとする方が、楽しくていい。
明治生まれの父親が、よく使っていたと徳治は話した。
「そんなややこしい言葉、使いなはんな。もう」
彼は、舌をぺろっと出した。
「連絡がつけへんし、おじいちゃんが倒れてたらあかんからというて、千鶴を家へ行かせてまんねんで」
怒りは少しおさまったようで、美津子の口調がやわらかくなった。
「すまん、すまん。悪気はなかったんや。司法書士のセンセとこは別の日に行くて伝えてあるし、ほな、いっぺんワシの家行こか」
徳治は頭をかいた。
「しょがおまへん。行きまひょ」
家で大騒動が持ち上がっていると、二人はつゆ知らず、連れ立って戻って行った。
十二
「よっしゃ、突っ込めぇ」
指揮官の号令とともに、警官らが徳治の家に飛び込んだのは、千鶴らの叫び声が響いた瞬間と偶然一致した。
お重さんの通報で、警官隊はパトカー三台とともに路地一帯を取り囲んだ。
少々大仰に過ぎるが、前回のタランチュラ事件のとき毒グモを取り逃がして、大きな被害はなかったものの、一般市民の腰を抜かさせるという失態を演じた。マスコミにもたたかれたので、今回は念の入った態勢を敷いた。
路地の入り口に立ち入り禁止のロープを張り、防護服に身を包んだ警官数人が警棒、捕獲網、刺す股を準備し、一、二の三で突入したのである。
飛び込んでみると、二人の少女がご飯の海でおぼれていて、あたりはソースやしょうゆ、それににんにくのにおいが立ち込め、足の踏み場もなかった。
とにかく、警官たちは倒れていた二人を抱きかかえ、表へ飛び出した。そして、部屋の捜索にとりかかった。
十三
「千鶴ら、もう帰ってもうたんとちがうかなあ」
「おじいちゃんがおらなんだら、宿題もあるし、家に往んでまっしゃろ。あしたテストや言うてましたさかい」
話しながら徳治らが通りを歩いてくると、路地の入り口にパトカーが何台も止まり、赤色灯が回転、人だかりがしていた。
「なんや、何があったんや。えらい人が集まってるがな」
背伸びするようにして、徳治は路地の入り口の方をのぞき込んだ。
「あれぇ。ウチの路地やがな。何があったんやろ。ちょっとすんまへん、何かおましたんか」
集まっていた一人に彼は尋ねた。
「いいえぇな、家の中に毒蛇が忍び込んでたらしいでっせ。それも大きなのが何十匹も」
ウワサというのは、すぐ尾ひれがつくもののようである。
「ええーっ、ど、毒蛇いうたら、あの、あの、どくじゃ、どくじゃ、毒蛇はどこじゃの、あの毒蛇でっか」
聞かれた男も
「えらい古いコマーシャルでんな。そうだんがな。あの三木のり平が出てた、のりのつくだ煮メーカーのCMでおなじみの毒蛇ですわ」
と、調子を合わせた。
「ひぇーっ、それでどこの家に? ええっ、奥から三軒目の左手、ええええーっ、それ、ウチでんがな」
驚いた徳治は、あとからついてきた美津子の手をつかんだ。
「えらいこっちゃ、ウチの家に三木のり平、いやクレオパトラやない、毒蛇が出たんや」
なぜここにクレオパトラが出てこなければいけないのかわからなかったが、聞いた美津子も驚いた。
「ひぃえーっ、どくじゃいうたら、あの、どこじゃ、どこじゃ毒蛇はどこじゃの毒蛇でっかいな」
「こいつら、乾物屋の回し者ちゃうか」
見物人の一人がつぶやいた。
ここで、知らない人に簡単に説明をしておきたい。
問題の広告は、のりのつくだ煮でなくて花らっきょうのスポットCM。喜劇役者の三木のり平がクレオパトラに扮し、といってもアニメであるが、好物の花らっきょうを探す。そのときにつぶやくのが「そうじゃ、そうじゃ、毒蛇はどこじゃ」である。すると、毒蛇二匹が花らっきょうの瓶を頭に乗せて運んでくるというのがストーリー。
このアニメシリーズは、当時人気があり、クレオパトラのほか木枯らし紋次郎やマッチ売りの少女のパロディ版など、見ていて楽しいものだった。
それはさておき、青ざめた二人は、ロープをくぐり抜け、路地へかけ込もうとした。
十四
「あきません。いま毒ヘビがいて、立ち入り禁止になってます」
横に立っていた警官が、二人を制止した。
「ちがいまんねん。わたしら、あのヘビが出た家の人間ですねん。いま外から帰ってきたら……、あっ、千鶴らが抱きかかええられて出てきたがな。えらいこっちゃ、ヘビにかまれたんちゃうか」
これを聞いた美津子は、「ええっ、千鶴が……」と言ったなり、その場にへたり込んでしまった。
母の倒れるのを見つけた千鶴は、まむしのショックも忘れて飛んできた。
「おかあちゃん、大丈夫?」
「あ、千鶴か。からだ何ともないか」
弱々しげに、彼女はまず娘の身を案じた。
「ヘビの動いたん見て、びっくりして尻もちついたけど、大丈夫や。どこも、わるいとこあらへん」
「そうか」
母は安心して、娘を抱きしめた。
「ヘ、ヘビを見たんか」
目をまるくする祖父に千鶴は答えた。
「ヘビは見んかったけど、入ってたテーブルの上の紙包みが動いたんや。ぶるぶる、がさがさって」
美津子のコールした携帯電話が、上に乗っていた紙包みを動かしたとは知らなかった。
「紙包みに入ってて、なんでヘビやとわかったんや」
祖父の問いに、
「上に書いてあってん、『まむし』って」
「ええ? まむし」
徳治は絶句した。
「もしかして、横に『ときどき屋』って印刷してある?」
おそるおそる彼は孫に聞いた。
「そうや。やっぱりおじいちゃんが、あそこへ毒ヘビを置いとったん?」
うわあ、えらいチョンボやあ、徳治は頭を抱え込んだ。
「どないしましてん?」
美津子にうながされ、
「あのなあ、あれ、おじいちゃんが書いたんやけど……。あのなあ」
口ごもりながら、事情を説明した。
「昔の大阪弁で、うな丼のことを『まむし』て言うねん。あれは、ヘビや無うて、食べもんや」
大阪近辺では、「まむし」の言葉はよく使われ、TVやラジオで共通語が普及するまで、うなぎ屋の看板に大書されていた。いまでも使う店がなくもない。
うなぎをご飯にまぶすから、まぶし、まむしとなったとも言われる。知らない人には混乱を生じさせる言葉である。
地方によっては、本当のマムシを食べるところがあって、ヘビを出すのだと勘違いする人もいた。
古い大阪弁の食べ物が、共通語に駆逐された例は多い。
鶏は「かしわ」といったが、いまはほとんど見かけない。豚まんは「肉まん」に押され気味だ。市内の某中華料理店CMがなければ、片隅に追いやられていたかもしれない。だとすれば、同店の文化貢献度大である。
三笠まんじゅうもどら焼きにとって代わられた。ほんわりとした生地の盛り上がりが奈良の三笠山に似ているところからつけられたという。ドラなどという濁った響きの名前より、ずっとエレガントでやさしい。
今川焼きだけは関東から移入されず、回転焼きの名が生き残っている。太鼓まんじゅうともいった。
天かすと揚げ玉は、パック入り商品名が揚げ玉、てんぷらを揚げた残り物をトレイなどに入れて売ってるのは天かすというのが、わが家の近所で見られるブランドである。
ただし、これらの食べ物は全く同じものではなく、微妙に違うものかもしれない。
と、今回もまた、徳治じいちゃんのかび生えた古い言葉遣いがあだとなって、騒動を巻き起こした。
「おじいちゃん、おまわりさんに調べられてるわ。かわいそうに。ねえ」
パトカーの中で、話を聞かれている祖父を見た千鶴は、美里の肩を抱え、愛想するように言った。
美里は、いったんジロッと横目づかいに友を見たが、すぐににこっとうなずき返した。
しこりは残らなかったようである。
たぶん。
(おわり)
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(上段の作者名「とが・みきた」をクリックしていただければ、作品一覧が表示され、お読みになれます)