虚無
その日、私は、死のうと思った。どこか誰の迷惑にならぬ場所はないかと、朝から街を徘徊していた。飛び下りも、身投げするような川も見つからず、いつしか日は暮れ、雨が振り出した。結局、私には死ぬ覚悟も足りぬのかと帰ろうとした時だった。
ずいぶん強くなった雨の中、老人を見かけた。老人は、傘も差さずに、何かを捕まえようとしているようだった。必死の形相。雨のせいなのか汗のせいなのか、全身は、ずぶ濡れ。なのに、その作業を止める気配はない。妙に気になった私は、何をしているのかと尋ねてみた。すると「虚無の回収」と言うのである。私は、ひどく困惑した。続けて老人は言う。「人は虚無と共にいきておる。多すぎる虚無は、人を溶かしてしまうのでな」「我が一族は、それを代々、仕事にしている」「我らの姿は、人に見えぬようになっている」そこまで語ると老人は私をみて弱々しい笑みを浮かべた。その笑みは、私には、何か諦念のような悲しみのような、そんなもののように思えた。
「何か手伝えることはありませんか?」私の口は、勝手にそんなことを言っていた。
老人は、しばらく私を見つめて「良かろう」と。
これが、私の数奇な人生の始まりになろうとは、あの時は思いもしなかった。