3.エバンス伯爵家
エバンス伯爵家は、アリアを中心に回っている。
だから今回の婚約破棄だって、エラがどんなに足掻こうと変わる事はない。
ダニエルの愛する相手がアリアだとわかった時から、エラには諦めるしか選択肢は無かったのだ。
ダニエルとアリアの部屋から出たエラは、父であるエバンス伯爵に呼ばれた。
伯爵として領地を守る父親の執務室は、壁いっぱいに多くの書籍が並んでいる。その厳かな雰囲気にエラはいつも緊張してしまう。
「エラ。君とダニエルとの婚約破棄の手続きをする。異論はないな」
「はい、お父様」
どうせ何を言っても変わらない。
「まあ今回の事は残念だったが、アリアのためなのだから我慢しなさい。アリアはあの通りか弱い君の妹なんだからな」
「はい、お父様」
エラは不満も何もかも全てを飲み込んで、笑顔を作った。
昔は、こうではなかった。
父親はエラもアリアも平等に優しく接してくれていた。
けれど、いつの頃からかエバンス家はアリアの天下になっていた。
だからエラは我慢するのが当たり前だった。
それは、いつの頃からかだっただろうか。
エラにはどうにも思い出せなかった。
考え事をして俯いていると、父親から落ち込んでいると勘違いされてしまった。
「エラも疲れただろう。今日はもう部屋にいなさい。私たちはアリアの婚約祝いで会食を行うから、部屋からは出ない方がいいだろうな」
傷心の娘を気遣う父親のつもりなのだろう。
けれどエラと目を合わせず、視線を泳がせているのを見ると、エラの扱いに困っているのだとわかる。
「わかりました」
物分かりの良い娘のフリをして、エラは素直に頷いた。すると父親は表情を明るくして「それがいい、それがいい」と何度も頷いた。
「さあ部屋に戻りなさい。私はアリアの婚約のことで忙しいんだ」
そうして追い出すようにエラを急かした。言われるがまま、エラは静かに速やかに執務室を後にするのだった。
ーー本当、いつからこうなってしまったのかしら。
考えても、記憶に靄がかかって思い出せない。エラは何とかして思い出そうと、歩きながら考えていた。
そうしていると、いつの間にか自室に辿り着いていた。
そうだ。
この部屋だってそうだ。
エラの部屋は日の当たらない場所にあるが、もともとアリアの部屋の隣にあったのだ。けれどいつの間にか何故かこんな物置のような場所に移されてしまった。
ーーそうだ。アリアが駄々をこねたんだった。
エラと喧嘩したアリアが、エラと隣の部屋は嫌だと駄々をこねたのだ。そうしたら次の日にはエラの部屋はここになっていた。
はじめは気の毒に思って来てくれていた使用人たちも、いつのまにか寄り付かなくなった。
注文の多いアリアのためには多くの使用人たちが必要だった。そのせいで、エラにまで手が回らなくなったのだ。
それでもエラのために世話を焼いてくれた使用人もいた。けれどその使用人たちはアリアの我が儘で解雇されていった。アリアの不興を買いたくない使用人たちは、自然とエラから遠ざかっていってしまった。
そのおかげか、エラは大抵のことは一人でできるようになっていた。身支度も一人でできるし、洗濯や料理、掃除もできる。
そうやって出来ることが増えていくと、「貴方ならこれくらいできるでしょ」とさらに要求は大きくなる。
その度につい無理して頑張って、そうして落ち込んで。
そうして何度も一人で過ごせるこの部屋でひっそりと涙を流した。誰も寄り付かないこの部屋は、一人になりたい時にはちょうど良い場所でもあるのだ。
ーー今日は、ちょっと疲れたかも。
静かな場所で、ゆっくりと目を瞑る。そうやって心を落ち着かせるのだ。
ーー今日はもう、眠ってしまいたい。
そう思ったが、やはりエラの思い通りにはいかなかった。
勢いよく部屋の扉が開いて、アリアが押し入って来たのだ。
「お姉様!見て!ダニエル様からドレスをいただいたのよ!」
ついさっき婚約破棄の話があったばかりなのに、アリアに罪悪感なんて見当たらない。まるでこの部屋が自分の部屋かのように、断りなく入って来た。
そして何事もなかったかのように話しかけてくる。
エラはゆっくりと顔を上げて、笑顔を作った。
アリアによく似合う淡いピンク色のドレスだ。細部に可愛い宝石があしらわれていて、とても高価なものだと一目でわかる。
エラはドレスどころか、細やかなプレゼントだってダニエルから一度も貰ったことがなかった。
「よかったわね」
言葉を飲み込んで、いつものように笑顔で話した。
「さすが公爵子息よね。とっても素敵なドレスだと思わない?」
「ええ素敵だわ」
ドレスを当てて、くるくると楽しげに回るアリアは、とても可愛らしい。
「そうだわ。お姉様、私ダニエル様からたぁくさんドレスをいただいたの。だから私のいらなくなったドレスは、お姉様にさしあげるわ」
「……ありがとう、アリア」
洋服も宝石もアリアが欲しがればすぐに買ってもらえた。エラはそんなアリアのお下がりばかりだった。
何をするのもアリアが最優先なのだ。
そんな環境の中、エラが我慢するのは当然のことだった。
どんなに駄々をこねても「我慢しなさい」「貴方は強いんだから」と言われて終わり。だからと言ってアリアに反抗して機嫌を損ねても、叱られるのはいつもエラだった。
だからエラは諦めた。
「アリア、こんな所にいたのかい」
「お父様!」
アリアを探して、父親もエラの部屋にずかずかと入って来た。
「ほら、急いで支度をしないとダニエル様が待っているよ」
「あら!いけない!」
「はっはっは。アリアは本当におっちょこちょいだね」
「ふふ!本当ね、お父様」
弾んだ声の二人は本当に嬉しそうで、見ていて仲の良い親子だとすぐに分かる。父親のアリアを見る目も、とても優しいものだった。
けれどそんな娘思いの父親は、もう一人の娘であるエラを一度も見ようとしていなかった。
父親の優しさはアリアだけに注がれているのだ。
エラはあの堅苦しい執務室でしか父親と話をしない。廊下ですれ違って声をかけても知らんぷりされるのだ。
けれどアリアには惜しみなく愛情を注いで、笑顔を向ける。
エラのことは、まるで空気のような扱いだというのに。
そうして楽しそうに去っていく二人を、エラは静かに漂う空気のように見つめるしか出来なかった。
まるで物置部屋から出て行くかのように、二人はエラの部屋にずけずけと押し入って、そうしてさっさと出て行った。
去っていく二人の背中に向けて、エラはぽつりと呟いた。
「私もお父様の娘です。アリアと同じなんですよ」
その声は虚しく部屋に響くだけ。
誰の耳にも届かないのだった。