火曜日その2
「まさか本当にいくなんて」
亜紀はいつもこうだった。由美のことなんて考えず、勝手にどこかへ突き進んでいく。小学校の頃も、中学校の頃も。そして今も。いつも由美を置いていってしまう。
「戻ってくんな馬鹿」
呟いた吐息は、透明になって誰もいない教室に消えていく。
「あと本を返せ馬鹿」
本がなければ何もできない。いっそのこと彼女を放っておいて、先に帰ってしまおうか。そんなことを考えていると、教室の外の廊下から大きな足音が聞こえた。
「ただいまー」
「早いな、おい」
まだ五分と経っていない。フットワーク軽すぎるのではないか? そう考えている由美を尻目に、亜紀は持っていった本を机の上に置いた。
「聞くだけだから。二人とも席にいたし。でもどちらも見たことないってさ」
「やっぱり違ったんだ」
頷いた由美に、呆れたような表情を亜紀は浮かべた。
「ねえ由美。まさか分かってたの」
「だって百四ページと百五ページでは、答えが二つになってしまい不自然。正解は別にあるはず」
「そこまで分かってたなら、走って聞きに行った私の苦労は何だったのかな?」
「百四、五ページ説が間違っていない可能性もあったので、無駄ではないよ」
「嬉しくねー」
天を仰いで亜紀は腕を突き上げた。そして腕を振り下ろす勢いそのまま、手を机についた。
「じゃあ出席番号とかは間違いってこと?」
「考え方は合っていると思う。ここには四百人以上の生徒がいて、その中で個人を特定するなら数字、つまり学年と組、出席番号こそ最適。だから何か足りていないはず」
「他に数字って言われても。文字数とか?」
「数えるのが面倒臭いものにはしないと思う」
「桜の花びらが挟まっていた箇所が、何行目かとか」
由美は首を横に振る。
「開いたタイミングで花びらが落ちるから、それは無いと思う」
亜紀は頭に手を当て、ぐしゃぐしゃと髪をかいた。長髪が蛍光灯の灯りで煌めいた。
「ああもう、分からん。じゃあもう何もないじゃん」
「そうなんだよねえ」
苦虫を潰したような顔を由美は浮かべる。答えまであと少し。だと思うものの、その少しがどうにも遠い。
潰れたヒキガエルのような声を出しつつ本を眺めていた亜紀が、絞り出すように問いかける。
「やっぱりページの文章じゃない? 先頭の文字を読むと人名になるとか。特定の言葉を抜くと別の文章になるとか」
「とっくに試したけど、そんなことはなかった」
「試したんかい」
亜紀は机に突っ伏した。しかしすぐに起き上がると、話を続ける。
「でも、ヒントを隠すんだったら本文だと思うんだよね。だって一番情報のあるところじゃない。このページだけで百文字くらいあるわけでしょ」
「百じゃない。ハードカバーの文字数は一ページあたり約六百文字。二つ合わせて千二百文字……」
そこまで言って、由美の口が止まった。
「どうした」
「そうか、合わせるんだ」
由美は目を見開いて、正面から亜紀の顔を見る。
「二つ合わせればいい。つまり二百四と二百五を足して四百九。つまり三年四組の出席番号九番の人が借りた人だ」
「なんで直接、四百九ページにしなかったのよ」
「無いからだよ。この本は三百二十ページで完結する。後書き含めても、四百ページには届かない」
「でも足し算したら出るって、根拠なくない?」
「いや、ある。ここのページの内容を思い出して。主人公が夫に会いたいと思うのとは別に、子供に会わせてやりたいと願っている。会わせるということは、合わせる、つまり足すってこと」
その言葉を聞くと亜紀は、深く息を吐きながら顔を手で覆った。
「よくそんな屁理屈思い浮かぶね」
「屁理屈じゃない。筋が通れば、それは理屈」
なぜ桜の花びらを本の間に挟んだのか。そこから紡がれた思考の糸に、矛盾がないのであれば、きっとそれが答えなのだ。
「で、どうするの?」
なぜか少し口元をあげ、肩をすくめた亜紀が聞いてきた。その言葉に由美は怪訝な表情を浮かべる。
「どうするの、とは? 謎が解けた。もうやることがないでしょ」
「まだそれが正しいか確認できてないでしょ」
「まさか」
嫌な予感がして由美は椅子に背を預けるも、亜紀が迫ってきた。
「会いに行けって言ってんの。じゃなきゃ由美が言っているのは屁理屈よ」
「どうとでも言って。他人にどう評価されようが、私の中では解決したから」
顔を背けようとしたができなかった。亜紀が由美の頬を両手で押さえ、その上で顔を近づけた。
「何逃げてんのよ」
手をどけようとするも、振り解けない。体格が違う上に何より由美は非力だ。亜紀をかわすことなど、できるはずもない。抑えられたままの頬に、亜紀の吐息が当たる。
「由美っていつもそうじゃん。分からないことは不快だ、とか言いながら、人のことになると分かるはずがないって逃げるじゃん」
「別にそんなこと……」
「違うっていうんだったら、会いに行きなよ。その人も会いたがっているんでしょ」
それに、と由美は言葉を続ける。
「由美、やけに解くの急いでいたじゃん。あれって卒業式があるからじゃない?」
由美は咄嗟に表情を隠そうとした。しかし抑えられたままの体制では、隠しようが無かった。それに隠したところで、亜紀なら簡単に見破れそうな気がした。
だって彼女は幼馴染だから。
亜紀は真剣な表情を浮かべていた。
「三年生はあと少しでいなくなる。その前に確かめたかったんでしょ。由美みたいな変人が他にいるかって」
「変人いうな」
「由美が自分の考えを信じるなら、会いに行った方が良いよ。じゃなきゃ後悔する。由美の答えが正しかったか、分からないから」
亜紀は押さえていた手を退けると、由美の肩を軽く叩いた。言ってこい。そう語りかけているように由美は感じた。
「……だから亜紀は嫌いだ。私のことを好き勝手言って」
「私は由美のこと、好きだよ。可愛いもん」
「うるさい」
亜紀を睨んで由美は席を立ち、教室の外に駆け出した。その手に本が握られていたことを亜紀は見逃さなかった。
由美が去り、誰もいなくなった教室で亜紀は背伸びをする。その顔は晴れ晴れしていた。外を見ると雲ひとつない空の下、雪解けの露が窓をよぎった。最後の雪が終わり、もうすぐ春が来る。
「頑張れー」
今頃、顔を真っ赤にして三年生の教室に向かっている、幼馴染に声をかけた。




