月曜日
季節外れというには些か早い雪だった。
二月最後の月曜日、雪で白く染まる校庭が窓の外に広がる。中島由美は白く霜のついた窓を尻目に、本棚の脇を進む。卒業式が近いせいか図書室には人が少ない。今週金曜を最後に三年生は高校から旅立っていく。よほど本に思い入れがなければ、この時期に図書室には来ないだろう。
入学以来何度も行き来した本棚を、足取り重く通り過ぎる。別に気が落ち込んでいるわけでもなく、単に見る本が見当たらなかった。そんな時だからだろう。どうせなら普段見ない本を読もうと思い手を伸ばした。
「冬に咲く桜の色は」
本棚を通るたびに目にしたその本を、今まで手に取らなかったのは背表紙がどうにも汚かったからだ。元々は桃色の装飾だったのだろうが、日焼けして白くなっている。そのせいで白地の題字が読みづらい。上下の縁は破れ、白く煤けている。
人は見た目が九割というのは、だれの言葉だったか? きっと本にも同じことが言えるだろう。
そんな絶対に手に取らない本だからこそ、由美は背伸びをして背表紙を掴んだ。
とりあえず内容を見てみよう。
そう思いページをパラパラとめくっていたところ、ひらりと何かが落ちた。
桜の花びらだった。
革靴の上に乗ったそれを指でつまむ。カサカサに乾燥しているものの、花びらの薄桃色はしっかりと見て取れる。本に挟まれたことで、押し花のようになり、状態の良いまま保存されたのかもしれない。
花びらを目の高さまでつまみ上げる。
なぜ本の中に花びらが入っていたのだろう?
読書中に花びらが入る、という状況が想像がつかなかった。無理に考えるとしたら、桜の木の近くで本を読んでいた時だが、普通そのような場所で本を読むだろうか?
例えば教室とか図書室とか、本は室内で読むことが多い。わざわざ外にまで持っていって読む人はいるのだろうか? ましてこの近くで桜の木があるのは、国道沿いの歩道や、ショッピングセンター前の通りなど、人通りが多いところが多い。座るところもあまり無かったはずで、そのようなところで本を読むことが想像できなかった。
なら花びらはどこから来たのだろう?
壁にかけられた時計を見上げる。あと五分で昼休みは終わる。少しだけ本を眺めたあと、桜の花びらを元のページに載せて閉じ、手に本を持ったままカウンターへと足を向けた。
由美はどうしても花びらのことが気になった。
放課後ということもあり、二年二組の教室は人がまばらだ。教卓前の机でスマホを見て、ほくそ笑んでいる二人の女子。教室入り口で話し込んでいる男子数名。そんな彼らを横目に、窓際の自分の席の上に紙を広げる。
数学のプリントの裏紙。灰色の紙面にシャーペンを走らせる。
「本に入っていた、季節外れの桜の花びら」
そう書いて少し顎に手を当て、さらに横に文字を書き込む。
「誰が入れたか?」
「なぜ入れたか?」
「どこで入ったか?」
そこまで書いて一息つく。さらに考え込もうとしたところで、紙の上に影がさした。
「また妙なこと始めたね」
「うるさい」
幼馴染の辻本亜紀が机を覗き込んできた。少し茶色の混じった長髪が机の上にかかり、プリントの上に垂れる。紙を少し横に寄せて由美は、見られないように肩を突き出す。そして眉を顰めて亜紀を見上げた。
「いいじゃん。減るものじゃないし」
にやにやと笑う亜紀は紙を覗き込もうとして、由美の正面に立った。
小柄の由美からすれば、羨ましくなるほどの長身だ。でかい。邪魔だ。そんなことを脳裏に思い浮かべる。そんな由美を知ってかしらずか、気にしないのか、亜紀は紙に顔を寄せる。
「桜の花びら? なんでそんなこと考えてるの?」
「気になるからに決まってるでしょ」
顔をあげると、黒というには明るい瞳がすぐそばにあった。由美には幾度も覚えのある目。人が物思いにふけっているところに、土足で上がるような無遠慮な目だった。その視線が鬱陶しくて目をそらす。
「気になることを放っておくのは、気持ち悪いじゃない」
「細かいことを一々考える方が胃もたれしそう」
「私の勝手でしょ。横から茶々を入れないで」
払うように手を亜紀に向かって手を振る。あっちいけ。関わるな。言外に込めた思いは、不本意ながら気にもされなかった。休憩時間はいつも人の輪にいる亜紀なら、そのくらいの空気を読んでいいはずだ。というか読め。
「そうは言っても由美、不健康そうな顔だから」
「不健康そうじゃなくて、不機嫌なの。邪魔されてるから」
「悪い奴がいるもんだ。私が助けてしんぜよう。なになに?」
少し腕を浮かした隙に、プリントが奪い取られる。手を伸ばそうとするも、紙は高く掲げられ、座ったままでは届かない。仮に立ったとしても、亜紀の背の高さゆえ触ることもできないだろうが。
西日に照らされた右頬が、眩しげに動く。けれど視線は文を舐めるように左から右へと動いている。その下で由美は手を勢いよく振り回すも、全く意に介さない。
「へー。今の時期に桜ねえ?」
読み終わったのか、下げた両手から素早く紙を奪う。手元にプリントを隠しつつ、喉の奥で唸るも、亜紀は笑みを絶やさない。
「まだ二月だよ。よく残ってたね?」
「貸し出し記録の日付」
「日付?」
頬をわずかに膨らませて、顔を背ける。できることならさっさと帰ってもらいたい。しかし亜紀は動く気はないようで、由美から目を逸らさない。由美は口の奥でそっとため息を吐いた。
「本の最後のページにあるでしょ? ほら、裏表紙のその裏に。そこの日付は去年の四月が最後。だからそれ以降、誰も借りてない」
「手に取ってもなかったってこと?」
「花びらが残っているから、そういうこと」
「ふうん、かわいそう」
由美は怪訝な顔を浮かべる。
「変なことを気にするね」
「それ、由美が言う?」
「どういう意味よ?」
「細かいこと気にしてるとモテないよ? 女子に」
「放っといて。 ……いや待って。なんで女子にモテなきゃならないの?」
亜紀はよく妙なことを言う。そういうこともあって、由美は亜紀が苦手だった。
そんな由美を無視して、亜紀はプリントに顔を向けた。
「でも、ただの偶然でしょ。風に乗って花びらが入っただけじゃない」
「校舎の周りに桜の木は無いから、それは無い。誰かが目的を持って入れてるはず」
「でも駅前とかには桜があるじゃん。バッグに本を入れていたら」
「入ると思う?」
由美の問いに亜紀はしばらく空を見上げると、諦めたようらしくため息を吐いた。
「……ごめん。無理があった」
頭に手を当て、亜紀は髪をかき上げた。
「でも誰かが入れたと考える方が、無理があるんじゃない?」
「無理があるのは確かね。だからきっと何か理由がある」
プリントに書かれた、なぜ、の文字をシャープペンシルで叩く。その様子に亜紀は目を細める。
「それは勘?」
「いいえ。直感」
「同じじゃない」
亜紀の言葉に由美は首を振る。
「違う。勘はただの当てずっぽ。直感は裏にきちんとした考えがある。それが説明できないだけで」
起こった事象が偶然出ないのなら、誰かが何かをしたはずだ。ペンから手を離し、亜紀を見上げる。
「この桜には誰かの意思がある」
一方の亜紀は、胡散臭げに眉を顰めた。
「そうかなあ? ま、せいぜい頑張って」
亜紀は手を左右に振って背を向けた。その背中に、さっさと行けとばかりに手を払った。
「帰れ帰れ」
鞄を背負って扉まで亜紀は歩んでいく。ようやく静かになったと一息つき、由美は机に向かい合う。
急がないと日が暮れてしまう。時間を無駄にした。そう口の中で呟いた途端、大声がかけられた。
「遅くまで残ると肌が荒れるよ?」
「あんたは私の母さんか?」
その返答に手を振って亜紀は、笑顔を向けると戸口の角から消えていった。背中からのしかかるような疲れを覚えながら、由美は頭を抱えた。




