3話
午前中の授業を眠くなりながらも何とか耐え抜き、四時間目の終了を告げるチャイムが学校全体に鳴り響いた途端悠希は机の上に突っ伏した。短期間でも教室という閉鎖空間から離れていると、身体が感覚を取り戻すのに時間がかかるようで結構な疲労が体を襲う。机のひんやり感が妙に心地よい。その微妙な冷たさを堪能していると、突然机にドシンっ、という衝撃が走る。衝撃に驚き、飛び起きてほんの数秒呆然としていると頭上から不機嫌だが自信に満ち溢れた声が降ってくる。
「よお、相変わらずへばってんな悠希。俺を見習って少しは体鍛えたらどうだ」
横を向くと机に大きくゴツゴツとした左手が置かれており、誰の手だと上を見上げると座った状態でも分かる長身で目つきの悪い男子が立っている。華奢で中性的な見た目の悠希とは対照的に制服の上からでも鍛えていることが分かる逞しい体躯に彫りの深い精悍な顔立ちの男は、隣のクラスの東郷薫だった。一応悠希とは友人関係にある。
ただでさえつり目気味の目が更に細められており、その視線は悠希にのみ注がれている。これは怒っているやつだな、と直感で理解する。
「なんだ薫か、何か用?俺昼飯食いたいから用がないならさっさと帰ってくれない?」
右手でシッシッ、という動作をし見るからに面倒事を持ってきたこの男を追い払おうとする。雑な対応をされた薫は眉をぴくぴくとさせ、怒りを滲ませる。と言っても、本気でないことはそれなりの付き合いの仲で分かるようになってきた。
「おいこら、退院したって聞いたからわざわざ来たのに何だその態度。お前俺にだけ態度悪すぎだろう」
「それはお互い様。初対面の時からこうでしょ、それにそのためだけに来たわけじゃないだろ」
悠希の態度が不服とばかりに不満を露わにする薫を悠希は冷ややかな目で眺めていた。この男が態々訪ねてくるときの要件は決まっているのだ。それを分かっているからさっさと済ませるように催促する。
自分が分かりやすいことに気づいていない薫はグッと声を詰まらせ、気まずそうに視線を明後日の方に向ける。こんなんでも、学年、いや学校全体で見てもトップクラスに女子人気があるのだ。普段は紳士的に振舞っているらしいが、悠希や付き合いが長い相手だと精神年齢が中学生で止まっていることが露呈する。
薫は言いづらそうにしていたが黙っていても意味はないと観念したのか、口を開き悠希にだけ聞こえるギリギリの音量で話す。
「…入院してた時、また朱里の世話になったらしいな、全くうらy…受験生の手を煩わせるな。いくら学年トップとはいえ受験は何が起こるか分からないからな」
「………」
取り繕っても、もう手遅れな目の前の男を憐れみの籠った目で見つめる。居た堪れなくなった悠希は同じく小声で告げた。
「もう誤魔化せてないんだからハッキリ言えよ。朱里に世話焼かれて羨ましくて嫉妬してるって」
「はっ!そんなわけないだろう!俺はただ優秀な幼馴染のことを心配しているんだ、お前に構って日常生活が疎かになっていないか」
そこまで言った時、周りのクラスメートが自分に注目しているのに気づいたようだ。興奮して大声になっていることにすら気づいていなかったようで、ゴホンゴホンと咳払いをして誤魔化し、「場所を変えよう」と小声で尋ねると出口へと向かう。悠希もその大きい背中を追った。
二人が移動したのは一階の端にある自販機の前だ。購買や食堂から距離が離れているのもあり昼休みでもほとんど人が来ない。そのせいかガラの悪い生徒のサボりの場になっているらしく、教師が定期的に見回りに来る。その効果か昼休みが始まったばかりだと言うのに誰一人居なかった。内緒話や告白するにはもってこいの場所だ。
薫は自販機に小銭を入れ、お茶を買った。取り出したそれを一気に飲むとこちらに顔を向ける。
「…で、話の続きだけど」
何事もなかったかのように話を続けようとする薫に危うく吹き出しそうになる。さっさと話せばいいのに何故か罰が悪そうに口をモゴモゴさせている。先程の無駄に溢れていた自信はどこにいったのか。こちらから切り出してもいいのだが、それも何だか癪なので暫く待つことにした。
薫は朱里の幼馴染である。付き合いの長さで言えば悠希より長い。元々朱里の実家西条家と薫の実家東郷家は富裕層らしく家族ぐるみで付き合いがあり、朱里の姉と薫の兄は現在交際中という切っても切れない間柄だ。
薫は物心ついたころから美しく頼りになる年上の朱里を慕っていたらしく、どこに行くにもついていっていたそうだ。それも悠希と朱里が出会ったことによって終わりを告げる。朱里としては薫を蔑ろにしたつもりはなく、悠希と薫どちらとも平等に遊んでいた。しかし、薫からしたら突然現れたいけ好かない奴に『大好きなおねえちゃん』を取られた気持ちになり当然ながら悠希に嫉妬心を抱く。しかし、育ちの良さなのか元々の性格なのか、悠希の見た目や体が弱いことを馬鹿にしたり暴力を振るうと言うことは決してしなかった。ただ朱里と悠希が二人でいる時を狙って乱入し、悠希に突っかかると言うものだった。余りに度が過ぎると朱里に窘められ、また悠希に嫉妬…という負のスパイラルだったが悠希と薫は言いたいことを言い合える、一応友人と呼べる存在になったと思う。
そんな日々も薫が10歳の時に終わった。薫が朱里に告白したのだ。結果は聞かなくても分かるが、一応記す。
『え、悪い薫のこと弟としか思えない。…え、悠希?悠希も手のかかる弟としか思ってないけど』
バッサリと切り捨てる様は寧ろ清々しい。告白すらしていないこちらにまで流れ弾が飛んできたことについて当時は文句の一つでも言ってやろうかと思っていたが、それも叶わなかった。
直後の薫は見るからに憔悴しきっており、文句を言うのは憚られたからだ。その状態も二週間もすれば元に戻り、朱里とも以前のように喋るようになった。
しかし、悠希とは疎遠になった。薫の中でどんな心境の変化があったかは分からないが、突っかかることすらしなくなった。朱里が間に居なければ、クラスのリーダー的存在の薫と孤立しているわけではないが社交的ではない悠希は元々関わらない人種であったことをその時改めて感じた。
その時を境にパッタリと喋らなくなったため、それなりに心配されたが薫とは言ってしまえば淡白な友人関係だったため急に距離を取られても悲しいと言う感情は湧いてこなかった。薄情だなんだと思われるかもしれないが、悠希にとって薫という人間はそういう人間だった。
そんな薫が再び話しかけるようになったのはあれから4年経ってからだった。行動を供にしたり頻繁に連絡を取るわけではないが、一応付き合いは再会した。どういう心境の変化があったのか、気にならないわけではなかったが聞いたところで素直に喋るわけがないことも理解していた。だから特に触れずにいた。
「…どんな邪推をしているのか知らないけど朱里は俺の事弟しか思ってないぞ、薫と一緒で。生まれ変わっても弟のままだぞきっと」
するとただでさえ崩れかけていた凛々しい顔が完全に崩壊した。未だに引きずっている古傷が疼いているのか、形のいい眉毛を歪めている。残念なことに人通りがない一階の端なので、女子は学校一のイケメンの百面相を見ずに済んでいる。だが、どんな変顔をしようが元が整った顔立ちなので様になっているのがムカつく、と心の中で毒づく。
この男は6年近く前に振られたことを引きずっているらしい。いや、本人は吹っ切っているつもりだろうが、毎度毎度悠希に突っかかる時点で心の奥に燻ぶっている嫉妬の炎を隠せていないのが分かる。だが、悠希にも人並みのデリカシーがあると自負しているので余計なことは言わない。毎回適当に受け流すだけだ。
翔や奈々、薫もだが何故皆朱里との関係を邪推するのだ。何にもないと口で説明しても照れているだ何だと勝手なことばかり言う。周囲の人間も綺麗な幼馴染に世話を焼かれていて羨ましい、と羨望と憐憫の入り混じった視線を向けてくる。目の前の男もだ。薫は知らない、悠希がどんなに惨めな気持ちになっているのかを。健康な体を持って生まれた人間には決して分からない。羨ましがるだけの連中に胸のうちを吐き出したいという欲にかられる。そこでふと目の前で百面相をしている男にぶちまけてしまえばいい、と悪魔が耳元で囁く。何もかも持っているくせに、欲深くも自分に嫉妬心を抱いている男に。
「そんなに朱里に構って欲しいんなら、薄着で町中10周くらいして酷い風邪でも引けばいい。『優しい』から見舞いには来てくれるんじゃないか、まあ薫のその丈夫な体じゃ引きたくても引けないか」
あはは、と乾いた笑い声を上げながら挑発するように言葉を吐く。その瞬間薫の端正な顔がさっきと違う意味で歪んだ。困惑と怒りが入り混じったようなそんな表情だ。予想できた反応だ、悠希は冗談でもこういうことを言ったことがなかったのだから。昔、体育をよく見学していた悠希を妬み、影で羨ましい、ズルい、自分も病弱が良かった、等と宣っていた同級生を諫めたのがこの薫だった。だからこそ、悠希がこんなことを言う意図が分からないのだろう。
「…薫が俺の事羨ましいのは朱里に気にかけられてるからじゃなくて、入退院を繰り返して貧血で良く倒れて周りから心配されてるからじゃないのか」
薫が微かに狼狽えているのを見て図星か、とほくそ笑む。常に自分の上にいた薫の姿に口角が上がるのを抑えきれず、鏡を見たら大層歪んだ笑みの男が写っているであろう。
「薫の家、厳しかったから風邪ひいたくらいじゃ休ませてくれなかったよな。その上元々丈夫だったのに鍛えたせいで風邪すら引かなくなった。反対に俺は学校を休みがちで周りからも心配されて、大事な幼馴染の関心も一心に集めてる、そりゃ腹立たしいよな。こんな風に俺に話しかけるのもアピールしてるのか、休みがちな生徒を気にかけている自分優しい、とか?朱里もお前も俺の事体よく利用しているだけだろ」
息継ぎをせず、一気にまくし立てたため息切れをしてしまう。呼吸を整えて、ふと薫の顔を確認した。てっきり怒りに満ちた顔になっていると思ったが、何故か笑っていた。いや、笑っているのは表情だけで、目は笑っていない。目の奥底でどす黒い何かが揺れている。思わず喉から変な声が漏れる。そうだ、薫は本当に怒ると逆に笑い出すのだ。しかも感情的になるのではなく、淡々と相手を問い詰める。流石に言い過ぎたかと内心震えていると
「…そうだな、悠希の言うとおりだ。悠希は昔から苦しんでたのに周りから心配されて朱里も気にかけて、羨ましかった。6年前自分勝手な嫉妬心からお前と距離を置いたのも、謝りもせずまた話しかけるようになったのも俺のエゴだし、同情もあった。それは事実だから何言われようが構わない。けど朱里の事は悪く言うな。朱里がそうじゃないのは、悠希が一番良く分かっているだろう」
淡々と底冷えするような声で窘めるように告げられ、今度はこちらが目を合わせられなくなった。薫は自分が何を言われても本気で怒ったことはない、そうなるのは自分の周りの人間を悪く言われた時だけだ。朱里の名前を出したのはわざとであり、そうすればこの男が理性を投げ捨て怒り狂う様を見れると考えたからだ。冗談でも朱里を悪く言うのは気が引けたが、悪魔が囁いたからなのか悠希の中のハードルを軽々と超えることになった。
結果、悠希の望み通りの結果になったはずだ、そのはずだったが。
俯き二の句が継げなくなっている悠希を尻目に薫は続ける。
「あの朱里が同情だけで10年近く傍にいるわけないだろう。俺でも分かることがお前に分からないはずない。だから、冗談でも同情心で世話を焼いているだとか点数稼ぎだなんて絶対言うなよ、朱里は大概の事には動じないけど悠希に何か言われた時は落ち込んでたからな」
妙に懐かしそうに呟く薫に対し悠希の頭はドンドンどす黒い何かで塗りつぶされていった。本気で怒っていたはずの薫の表情は何故か満足げで、それが更に悠希の苛立ちを増幅させた。話題の中心は朱里になっていたのにその前の『羨ましい』のキーワードが引っ掛かっている。もしかして、自分は期待していたのかもしれない。薫が朱里や翔たちのように同情だけで傍にいたわけではなかったことを。有象無象のように悠希を『羨ましい』等と思わなかったことを。結局、それもただの幻想に過ぎなかった。
鏡もないのに自分の顔から表情が抜け落ちているのを感じ、薫も様子のおかしい悠希を心配そうに様子を伺っている。ついさっきまで自分を罵倒していた相手の心配をするとは、将来ろくでもない相手に騙されないか心配になる。
「…薫、俺の事羨ましいって言ったな。昔からよく言われたよ、体育休めて、授業休めて、運動会休めて、周りからチヤホヤされて『羨ましい』って」
感情の一切を感じさせない冷たい声を放った悠希もまた能面のように無表情を張り付けており、それを見た薫は慄いたのか身体を固くした。その様すらも悠希には心地よいものだった。
「俺はこんな脆い体嫌いだったよ、けど母親を恨んだことなんてなかった。周りの人間は優しかったし。けど、生物学上の父親に言われた言葉だけは死ぬまで忘れられない」
「…ああ、あの人か。あの人が碌でもないのは知ってるけど…何言ったんだ」
様子を伺うように尋ねる薫に目配せをして続けた。
「母親が死んで、父親が葬儀に来た時周りになんて言われようと俺を引き取ることを拒否した。その理由が『役に立たないから』だよ」
脳裏に封じ込めていた記憶の蓋を無理やりこじ開ける。そのせいで頭痛が起こりこめかみを抑える。
「母親と同じで身体が脆い息子は自分にとって有益な存在になり得ない、役立たずだから要らない、まあ要約するとこんな感じだよ」
父親は生まれたのが息子でも娘でも、幼い頃から金をかけた教育を受けさせいい大学に入れ何れ自分の後を継がせるか、自分たちのように政略結婚の駒にでも使おうとしていたのだろう。だが、その目論見は崩れた。入退院を繰り返し、勉強も運動も碌に出来ない息子には生まれた瞬間見切りを付け、どこかの愛人と宜しくやっていたはずだ。
『要らない』はずの息子なのに、母親とは離婚せず、見捨てた今も祖母が悠希を養子にすることを拒否している。理由は聞いたことがないが、『予備』にするためだと思っている。再婚相手との子供に何かあったら、将来的に悠希が丈夫になり使える駒と判断したら、呼び戻すつもりなのかもそれない。
仮にそうなったとしても、父親の思い通りにするつもりは毛頭ない。
あの男にとって、母親も自分も道具に過ぎないのだ。物心ついた時から母と自分を放置していた男に父親としての情を求めたことなどなかった。だが、母親が死んで葬式に姿を表した父を見た時、人並みに夫として、父親としての責務を果たすつもりなのだと内心期待していた。
それも最悪な形で打ち砕かれる結果となった。
以来悠希は自分の体について憐憫、羨望、侮蔑、そう言った類の視線を向けてくる人間、言葉をかける人間をそれまで以上に嫌悪するようになった。
しかし、身近に体調をよく崩し授業を休みがちな人間がいれば無意識に憐憫、羨望の感情を抱くのは仕方のないことだ。それは頭では理解しているが、それでもそういう言葉を投げかけられると父親の言葉を思い出してしまう。
薫の様子を伺うと、余りのことに絶句しかけるべき言葉が見つからないようだ。厳しい家庭と言っても薫は親に役立たずだ、要らないだという言葉を吐かれたことなどないだろう。見た目や能力だけでなく親にも恵まれている薫に対する溜飲が、その表情を見ただけで少し下がった。
ああ、ちょうどいい機会だからこの男には伝えておこうと凝り固まった口角を無理やり上げて笑った。
「そうそう、薫にとっては朗報だと思うけど。もう朱里の手を煩わせるの辞めたんだ。俺に時間割かなくていいって伝えるつもり、やっぱ受験生だしこれ以上時間奪うのは良くない。そもそも不健全だったんだ、こんな関係。良かったな、嫌だったんだろ俺と朱里が一緒にいるの。アタックするなりなんなり、するといいさ」
そう告げると、薫の切長の瞳が限界まで見開かれる。それほどまでに悠希の言葉が意外だったのか、それとも悠希が朱里との関係を甘んじて受け入れ続けるとでも思っていたのか。だとしたら、悠希を侮っていたことになる。今となってはどうでもいいことだ。
「…それ本気で言ってるのか」
「本心に決まってるだろ。そもそも今までが異常だったんだ」
地から這い出たような低い声で尋ねる薫を遮る。そして、もう話は終わったとばかりに踵を返し薫に背を向ける。薫は何も言って来なかった。




