30話
悠希の精神は一応の平穏を取り戻した。母は己の過去を息子に話したと祖母に言われた当初は動揺していたものの、悠希が母を避けたり嫌悪感を露わにして接することがなかったおかげか酷く落ち込むこともなく、やがて本来の調子に戻っていった。悠希の日常は両親の確執を知ったからといって、変わることはない。普通に学校に行き、基本的に朱里時々薫と共に過ごして其々の家に行って遊ぶ。家では基本的に母と2人きり、家事は使用人がやってくれるので何の不便もない。父親はいないけれど悠希にとってはそれが日常だった。西条家を羨ましいと言ったのはただの憧れであり、父親に家に戻ってきて「家族」を演じて欲しいわけではない。薄らと記憶に残っている父親は悠希に凡そ息子に向けるものではない、冷え切った眼差しを向けていた。そんな人を父だと思うことは難しい。
時折親戚の集まりに顔を出すと、色々と自分達に関する噂が勝手に耳に入ってくる。どうやら父は授かり婚をしたことも悠希が母に似て病弱で頻繁に寝込むことも気に入らないらしい。鶴見の跡継ぎには到底なり得ないとさっさと見捨て、かといってもう1人子供を作るのも拒否しているのだ。今は大学の同級生と仲が良いようだ。しかもその相手には本気で、他の相手との関係を清算したという徹底ぶり。遊び人が一途な愛に目覚めたと、ちょっとした話題になっている。
…そもそも母と結婚していることを父は忘れているのだろうか。あの人の頭には悠希達母子のことははなから存在しないのかもしれない。気にかける価値もないと思っているのだ。悠希はふと、自分にそんな人間の血が流れていることを厭うことがある。いつか、自分と父のような人間になるのでは…と想像して身震いすることも多々あった。だが子供ながらに悠希はあり得ない、とも思っていた。子が必ずしも親に似るとは限らないし、父親に対する嫌悪感を抱いているのだから尚更同じ道は歩むまい、と。
そして変わらないと思ってた悠希の日常が徐々に変わり始めてしまった。小学校に上がると母が体調を崩す頻度が増えてきたのだ。病院にも通っているが、元々丈夫ではなかった母の身体は結婚後ゆっくりと更に弱っていった。原因は言わずもがな。子供ながらいっそ離婚した方が良いのでは?と祖母に進言したものの簡単な話ではない、と返されてしまった。
対外的には父は授かり婚で結婚したにも関わらず、妻をほったらかしにして愛人に熱を上げている男。やはり妻が邪魔だから離婚する、となったらただでさえ悪い自分の印象が更に下がり、引いては自分の地位にも影響が出る。それに事業のこともあり、普通の夫婦のように簡単に離婚出来ない。そして母自身も離婚を拒んでいるのだ。唯一の自分の価値を自ら捨てることが出来ずにいる。父を嵌めて結婚したものの父には見向きもされず、親戚からは嘲笑されている。味方は祖母くらいで実の弟である叔父は噂の的となっている母をあからさまに避けている。
「あの姉は昔から碌なことをしない。大人しくしていれば良いものの、両親が良い縁談を見つけていたのにそれを拒否して鶴見社長と結婚した結果この様。身の丈に合わないことをするからこうなる、自業自得だ」
叔父は常々親戚にこう吐き捨てている。祖母が聞きつければ叱責するものの、反省する気配はない。悠希は叔父のことは好きではないし、向こうも母に色んな意味で似ている甥を可愛がることもない。自然と従兄弟とも距離が出来る。悠希の世界は狭かったが別に構わない。そして叔父は西条家にも劣らない名家の出身である朱里の母と母の仲が良いことも、朱里と悠希の仲が良いことも気に入らないようだ。父ほどではないにしろプライドが高く、母のことも幼少の頃から下に見ていたので母と悠希が格上と仲良くするのが不愉快なのだ。
遠回しに朱里の母に「悠希よりうちの息子達と仲良くした方が良いですよ、風間と西条の縁を結ぶのに身体の弱い甥では力不足です」と再三進言していたらしいが、一蹴された。「娘が誰と仲良くするかは娘の自由ですし、娘は悠希くんと仲良くしたいと言っているので」と真顔で言い返された。そしてあなたの息子はお呼びではない、と暗に告げたのだ。朱里の母は友人同士の縁で朱里と悠希を引き合わせ、もし相性が悪ければ付き合いは最低限にしていただろう。小学校に進学しても交流が続いているのは2人の仲が良いからに他ならず、朱里の母も悠希の母も何かを考えているわけではない。
悠希はただ朱里を家族同然の存在として見ていて、その感情に噂好きな親戚が言うような理由は存在しない。朱里だってそうだ。彼女は悠希と違って知り合いが多い。黙っていても自然と人が集まってくるのだ。基本的に平等な朱里だが、悠希と薫に関しては殊更構っていると周囲に見られていた。薫の父と朱里の父は古くからの知り合い、朱里の母と悠希の母が知り合いだという事情を鑑みれば周囲は何も言わなくなっていく。それでも、悠希と朱里の釣り合いが取れていないと口を出す子供が後を絶たなかった。
その手の人間は悠希を貶めるのに必ず薫を引き合いに出すので、当の薫本人が怒って相手に噛みつく。そして薫がその相手と距離を取るので子供同士のことにも関わらず、人間関係が泥沼化していった。悠希も責任と一端を感じたが、どうしようもない。朱里と仲良くするのを辞めれば、口を挟んでくる奴は満足するだろう。しかし悠希も朱里もその選択をするつもりは更々なかった。何故自分を貶す人間の願いを叶えなければいけないのか。薫が朱里と仲が良くても何も言わないのは、薫の見た目や家柄が釣り合っている、自分達では太刀打ち出来ない相手だから。悠希に関して口を出してくるのは見た目は勿論、父親から見放されている子供だからだろう。自分達より格下の存在だと見做していたから、馬鹿にしても良いと思い込んでいる。
幼稚園に通っている時もそうだ。周囲の男子より身体が小さく、弱々しい雰囲気の悠希はイジメの格好の的だった。そして悠希を標的にしたのは男子ではなく女子だ。それほどまでに悠希は侮られる存在だった。今も変わらない。朱里の影に隠れて彼女や薫が対応してくれるのをじっと待つだけの自分で良いのか、悩まないわけがない。だが悠希は自分が動いたところで状況が好転しないことを理解していた。寧ろ悪化させる危険すら予感している。だから何もせず人任せなのだ。物語の主人公なら他人任せにせず、自ら行動して逆境を乗り越えるものだが悠希は主人公にはなり得ない。モブキャラが良いところだ。身の程を弁えているから流れに身を任せているのだ。そんな悠希を情けないと笑う者もいるが、構わなかった。頼るべき相手に頼るのが悠希のやり方だ。そうやってこの先も生きていくのだろう。
悠希が小学2年の時、母が亡くなった。風邪を拗らせたことが原因だ。悠希は当然ながら泣いたが、心の何処かで母が自分が大人になるのを見届けてくれることはない、と悟っていた。母はここ数年はいつ儚くなってもおかしくない雰囲気だったので、祖母はそれとなく悠希に伝えていた。そして母がいなくなれば悠希が頼れる身内は祖母だけになるから、悠希のことを頼むと祖母に頼んでいたらしい。父の存在は母の中から消えていたようだ。悠希も父のことはすっかり考えないようになっていた。父は母が亡くなったという知らせを出しても当たり前のように来なかった。これでは葬式にも来ないだろうと祖母は吐き捨てていたが、予想に反し父とは名ばかりの男は母の葬式に現れた。




