29話
悠希の記憶に仲睦まじい両親の姿は存在しない。物心付く前から両親の仲は修復不能なくらい破綻していた。父は家に寄り付かず、母はその状況に胸を痛めながらも父に何か言うこともない。祖母や祖母が派遣した使用人がいたし、母と朱里の母親が親友だったことから朱里の家に頻繁に遊びに行っていた。悠希としても父親がいない環境で特段支障は無かった。
西条家は上流階級にしては仲の良い家族だ。朱里の両親は淡白に見えて互いを信頼しており、子供にも平等に愛情を注いでいる。朱里の兄と姉はドライで馴れ合わない兄弟関係だが、妹の朱里を可愛がっていたし朱里もやや年の離れた兄と姉を慕っているように悠希には思えた。幼い頃、悠希に目には西条家が眩しく映った。悠希にはどうしたって手に入れられない、仲の良い家族。朱里や朱里の母達は悠希のことも家族のように思ってくれていたが所詮他人だ。どうやったって悠希の中の「家族」に対する渇望が満たされることはない。
小学校に上がる前のある日、自宅で母、祖母といた時の頃。悠希はふと、こんなことを口にしてしまった。
「朱里姉ちゃんの家が羨ましい。皆仲が良くて、お父さんがいて」
この言葉は母にとって地雷だったらしい。突然取り乱して、泣き出してしまった。「ごめんなさいごめんなさい」と譫言のように繰り返しながら、祖母によって強引に別室に連れて行かれた。悠希にとって母は寝込むことも多いが、自分を愛して慈しんでくれる大切な存在だった。何処か儚い印象を抱いていたものの、我を忘れたようにボロボロと涙を流し懺悔する姿は衝撃的で、暫くの間呆然としていた。
そして母を落ち着かせた祖母が悠希の元に戻ってくると、神妙な顔付きでこう切り出した。
「…黙っていても、いつかあなたの耳に入ってしまうでしょうね。ならその前に知っておくべきです」
祖母は何故父と母の仲が険悪なのか、父が家に寄り付かないのか教えてくれた。
父と母は幼い頃から顔見知りの関係ではあったが、交流があった訳ではない。父は名家の跡取りらしく傲慢で他者を気遣うことがなく、そして成長するにつれ父親に似て女癖の悪さを発揮するようになった。対して母は生まれ付き身体が弱く、頻繁に寝込むような体質で周囲から過保護に扱われていた。それは言い変えれば腫れ物に触るように接するということで、跡取りたる弟が生まれてからは何も期待されなくなった。
弟が生まれるまでは何れ母が婿を取ることになっていたが、それは無くなった。無理して家のために何かする必要はない、プレッシャーを感じる必要はない、家をことを心配する必要はない。周囲からそんな言葉をかけられ続けた母は自分が役立たず、家族にとってお荷物だと思い込むようになり、段々と塞ぎ込んでいった。そんな母に周りもどう接すれば良いか分からず、自然と人が離れていった。
そんな母に気まぐれに声をかけたのが父だった。父は慈悲深い性格ではなく、ただ母がポツンと1人でいるのを見かけて目に入ったから声をかけただけなのに。母にとって父は救いの神のように見えたのだろう。それから母は父に好意を抱くようになったが、決して表には出さない。時折顔を合わせれば当たり障りのない会話をする程度の付き合いだ。父のことがきっかけで母は暗い自分を変えようと努力を始め、段々と明るくなっていった。
月日は流れ2人が大学を卒業する頃、父の実家鶴見と母の実家風間の業務提携の話が持ち上がった。その一環として父と風間の令嬢との婚約の話が出た。母は社長の娘であるにも関わらず、候補にすら名前が上がらずにショックを受けてしまう。母の従姉にあたる女性が相手として決まりそうな時祖父に必死で頼み込んだという。祖父母は母に会社の利益になる結婚をさせるつもりは全く無かった。内々に遠縁の一回り年の離れた男との縁談が持ち上がっていたのだ。資産がそれなりにあり跡取りではなく、子供を産む必要もない。母が何のプレッシャーを感じることもない相手、母が絶対に幸せになれる相手だと。
普段我儘の一つも言わない母の必死な懇願、従姉も父との縁談を嫌がったことで紆余曲折あり母が婚約者に決まった。母は父の為人は聞いていたが、それでも幼い時の恋心が色褪せることはなかったので、婚約者になれて幸せだったのだ。
しかし、幸せだったのは母だけだった。父は偶に顔を合わせる程度の母に何の感情も抱いてなかったし、派手で色気のある女性を好む性質だった父にとって控えめで地味な母は好みから大きく外れていたのだ。父は母のことが気に入らず、相変わらず遊んでいた。母はそんな父にどう接すれば良いか分からないため、仲が縮まる訳がない。婚約者といっても名ばかりで、2人が不仲なのは直ぐに知れ回ってしまった。
そもそも父を含めて鶴見の男の女癖の悪さは一部では有名だった。悠希の祖父も、曽祖父も結婚してからも女遊びを辞めることなく子供が産まれると義務は果たしたとばかりに愛人の元で暮らし始めたのだ。悠希の祖母は祖父の心無い振る舞いに心身を病み、父が若い頃に亡くなったらしい。父はそんな祖父を嫌悪し反面教師としていたようだが、いつしか嫌っていた祖父のような人間になっていた。蛙の子は蛙、である。鶴見の男は優秀ではあったが、人ととして、家庭人としては最低の部類だ。だから好き好んで鶴見と縁続きになりたがる者は多くはない。母の従姉が嫌がった理由はここにある。それでも鶴見の権力は無視出来るものではなく、母の実家も泣く泣く娘を1人生贄のように差し出そうとしていたところ母が自ら名乗り出たので、罪悪感が幾分がマシになったようだ。
母は父から婚約者として扱われない状況に心が折れらことはなかった。幼い日の恋心か、家の役に立ちたいという執念が母を駆り立てていたのか。数少ない友人である朱里の母が何度か考え直すよう母に進言したが、当の本人が聞く耳を持たなかったためどうしようもない。友好的な関係を築けないまま時だけが過ぎ数年後、結婚の話が具体的にで始めた頃だった。
風間より家格が上で、条件の良い企業が鶴見に事業の話を持ちかけたのである。社長の娘との縁談と共に。当時の社長、悠希の祖父は徹底した利益主義で風間とその企業を天秤にかけ、あっさりと風間を捨てようとした。だが重役から反対の声が上がり、思うようにことが進まないばかりか鞍替えしようとしたことが外部に漏れてしまったのだ。当然風間からは抗議の声が上がり、横槍を入れてきた企業にも抗議したらしい。とはいえビジネスが絡んだことなので、条件が良い方と縁を結びたいというのは至極当然のことである。そして父は母よりもその企業の社長令嬢のことが気に入ってしまった。なので社長も乗り気になり、婚約に代わる風間の利益になる話を持ちかけるで事を収めようとし、祖父母は最初は難色を示していたもののやはり父と結婚させるよりは…と婚約を解消させて新たな事業計画に取り掛かるべきだと話をまとめるつもりだった。母の意思を確認することもなく。
このことがきっかけだったのか、その前から予兆はあったのか分からない。母の中にまだ燻っていた父への気持ちか、やはり「役立たず」なのだと周囲から嘲笑されるのを恐れた結果なのか。思い詰めた母は父に薬を盛って関係を持ち、それを祖父母に目撃させるという暴挙に出たのである。
父には当時の記憶が無かったが、状況から母を無理矢理襲ったと思われた。しかし父は絶対に母を襲ってないと訴えるが、普段の行いのせいで全く信じてもらえない。結果として件の令嬢との縁談はなかったことになり、それと同時に母の妊娠が明らかになった。こうなれば責任を取らないわけには行かず、すぐに結婚することになった。
母は段々と自らの犯した罪に耐えきれなくなり、結婚して間もなく父や祖父母に己の所業を暴露した。父は怒り狂い、祖父母は父に平身低頭謝罪をしたが簡単に離婚は出来ない。子供がいる上に母の所業を明らかにしたら風間にとって大きな醜聞になってしまう。それに結婚を機に決まった事業計画も離婚すれば流れる。その上プライドの高い父からしたら、下に見ていた母に一服盛られた事実は恥でしかなく人に知られるわけにはいかなかった。
結局婚姻関係は続け、母のことを決して他言しない事を条件に父は自分のやることに絶対口を出させない事を約束させた。父が家に寄り付かず、別の女性と過ごしていても母も祖母も文句一つ言えないのはこれが理由だったのだ。父は母を蛇蝎のごとく嫌い、母もそんな父の態度を見ていれば気持ちはすっかり冷めていたようだ。それでも…悠希を見る目に縋るようなものを感じていると祖母は言う。父と自分を唯一繋ぐ存在だからか、あるいは…。
これを齢6歳で聞かされた悠希はというと、当然ながら混乱していた。それでも母が父に酷い事をして、だから父と母の仲が悪いのだという事は理解出来た。母はずっと自分の愚かさが原因で悠希に「仲の良い家族」を与えられなかった事を悔いていた。祖母も母がそんな事をしでかしたのは自分の育て方が間違っていたと、子供の罪は親も背負わなければいけないのだと。悠希に資金援助を惜しまないのも、頻繁に顔を見せにくるのも贖罪のため。
2人とも悠希のことを愛しくれてはいるだろうが、果たしてそれは純粋な愛なのか。罪悪感からではないのか。子供ながら疑問に思ってしまった。祖母の語りに黙って耳を傾けていた悠希の心には「家族」に対する疑念が生まれてしまったのだ。
悠希はその後、西条家へと足を運んだ。出迎えた執事は直ぐに朱里の元へと案内してくれる。
「悠希?急にどうした?」
突然訪れた悠希を朱里は迷惑がらずに出迎えてくれた。悠希はソファーに腰掛けると俯き、膝の上で手のひらを強く握り締める。
「…おばあちゃんから…お母さんとお父さんのこと、聞いて」
「うん」
「お父さんとお母さんが仲良くないの、お母さんがお父さんに酷いことをしたからなんだって」
「うん」
「おばあちゃん、お母さんが酷いことしたのは自分のせいだって思ってて、お母さんはお父さんが家にいないのは自分のせいだと思っていて…僕に優しいのは…僕に悪いと思ってるからで…僕のこと好きだからじゃないのかな…」
「…」
悠希は言葉を詰まらせながら朱里に祖母から聞いた内容を説明する。朱里は相槌を打ち、口を挟まず耳を傾けてくれた。悠希が突然押しかけても、話す内容がどんなにくだらなくても馬鹿にしたり鬱陶しがったりしない。だから毎度毎度甘えてしまう。悠希の拙い説明で朱里は大凡の状況を理解し、思案顔になる。
「…まあ、悠希に悪いと思ってるのは本当だろうな」
「!」
やっぱり、と悠希の顔が絶望に染まる。しかし朱里の話はそこで終わらない。
「だからって、悠希のことが好きじゃないなんて、そんなことあり得ない。見ていたら分かる。おばさん達は本当にお前のこと大事に思ってるよ」
「…」
「…信じられない?」
俯いたまま悠希は頷いた。無条件で朱里の言葉を受け入れられないほど、悠希の心の中は疑念で満ちている。母と祖母の愛情すら素直に信じられなくなっていた。
「…お母さん達を信じられない僕って『酷い』の…」
「…酷くない。悠希がそう思うのは普通のことだ」
「…」
「悠希も、おばさん達もどっちも悪くない。お前がおばさん達を信じられないのも、おばさん達がお前に罪悪感を抱いてるのも当たり前で仕方のないことだ」
「…でも、僕がお母さん達を信じてないって知られたら…」
怒られる?悲しませる?それとも…家族を信じないなんて悪い子だ、と失望されて見捨てられる?次々と悪い想像が脳裏に浮かび、悠希の顔色がみるみる悪くなり青褪めていく。父にはとっくに見捨てられている。母と祖母に見捨てられたら悠希には誰もいなくなってしまうと、どうしようもない絶望が心を侵食していった。そんな悠希を朱里は何も言わずに抱き締めた。
「もし、悠希にとって耐えられないことが起きても私は側にいるよ」
「…本当に?」
「本当」
「…朱里姉ちゃんは僕のこと見捨てない?」
「見捨てない、ずっと一緒にいる」
ずっと…母と祖母に見捨てられたら悠希には誰もいなくなるのだと思い込んでいた。でも、朱里はずっと悠希の側にいてくれると言う。たとえ誰にも必要とされなくても、朱里だけは自分の側にいてくれる。
母から親友の娘だと朱里を紹介されて2年。初めて会った時から朱里は悠希にとって特別な存在だった。この日、悠希にとって朱里は特別で自分を見捨てない、絶対的な存在になった。
あの日から10年近く経っても、悠希にとって朱里が特別なのは変わらない。




