28話
薫達と映画に行ってから数週間が立ち6月に入った。夏服の着用が始まり、気候もゆっくりと夏に近づき始めている。3年生は受験に本腰を入れるため少しピリピリとした空気が流れ始めていた。悠希の通ってる学校は中学から大学まであるが、外部の大学を受ける生徒が毎年一定数いる。内部進学試験は外部受験するより難易度が低い。そういった生徒と熱心に受験勉強する生徒との温度差から、夏前から張り詰めた空気になりがちだった。
朱里以外の3年と関わる機会がない悠希には関係のない話だ。運動部に所属する3年は大体夏の大会で引退する。翔の所属するバスケ部も例に漏れず、引退する先輩への餞別を選ぶのが大変だと語っていた。悠希は部活経験がないが、運動部の上下関係は厳しいものだと聞く。翔から伝え聞く限り悠希には向いてないと常々思っている。そもそも運動神経が悪いので、小学生の時の運動会ですら足を引っ張っていた。団体競技も個人競技も向いてないので運動部に入る選択肢はなかった。
放課後部活に向かう翔が先輩への餞別について悠希に相談していると、ふと翔が尋ねる。
「…お前さ、部活とかやらねぇの」
「え?」
「運動部じゃなくて。文化部や同好会もうちの学校無駄に多いだろ」
翔の指摘に悠希は確かに、と相槌を打つ。進学校ではあるが部活動も盛んでかなりの数の部がある。運動部の数を上回るのが文化部、同好会だ。中には活動内容が全く想像出来ない部も存在している。
「帰宅部でも良いけど、折角の高校3年間何もしないのも勿体無いと俺は思うのよ。まだ6月だし、文化部なら今からでも入っても気まずくはないだろ」
「部活ね、考えたことなかったわ。バイトはそろそろ始めようかとは思ってたけどさ」
「あ、バイトやるんか。なら部活は無理か」
「運動部なら難しいけど、文化部なら両立は出来るだろ。まあ、俺は無理だな」
元々要領が良い方ではないし、両立させようとしたらすぐに無理が来てしまう。自分のキャパシティは自分が1番理解している。悠希がバイトをしたいと思うのは、今の甘ったれな自分を少しでも変え閉じられた世界から広い世界を知りたいからである。金を稼ぐことが目的ではないので、部活でもこの目的は達成出来る。全く眼中になかった部活動が悠希の中の選択肢に加わった。
バイトは兎も角部活に入りたいなら夏休みに入るまでには決めないといけない。ただでさえ中途半端な時期に入るのには勇気を必要とするのに、夏休みに入り合宿やらイベントごとが始まった後に入ったら、より部活に馴染むのが困難になるからだ。今がラストチャンスとも言える。
まあ、選択肢に入れたとはいえ、悠希は自分がどうするか薄らと察している。グダグダと悩んでいるうちにあっという間にテスト期間が来て夏休みになってしまう。ふと、腕時計を見ると翔と話し始めてそれなりに時間が経っていることに気づく。悠希は「そろそろ時間だわ」と言いながら席を立つ。
「ああ、今日定期検診だっけ」
「そうだよ」
じゃあな、と翔に告げると悠希は教室を出て行った。
悠希が向かったのは大学病院。以前風邪を拗らせて入院した病院である。悠希は幼い頃からずっとここに通っていて、成長し体調を崩す回数が減り始めてからも月に一度検診を受けていた。学校から電車で数十分ほどかけて病院に到着すると、いつものように受付機で手続きをして、診察室のある階に向かう。いつ来ても病院の雰囲気には慣れない。ずっと通っていて、思い出と呼ばれるものも確かにあるが幼い頃の入退院を繰り返してきた記憶の方が圧倒的に多い。エレベーターを降りて右に進むと診察室、の札を見つけその前に設置されている誰もいないソファーに腰掛ける。日によっては数人患者が待ってることもあるが、今日は悠希だけのようであった。
ソファーに座り数分も経たないうちに名前を呼ばれ、ノックをして診察室に入る。入るとパソコンに向かっていた白衣の男がこちらを向いた。短く切り揃えた黒髪に彫りの深い顔立ち、椅子に座ってる状態でも背が高いことが窺える男が悠希と目を合わせた。
「よぉ、1ヶ月ぶりだな。体調どうだ」
医者、というよりも親戚のおじさんのような気やすさで男は問いかけてくる。
「そうですね、前回は死にかけましたけど今は調子良いですよ神崎先生」
神崎は今年33になる悠希の主治医だ。悠希が中学に入る前、前の主治医が諸事情により退職したため神崎が引き継いだのである。無愛想で口が悪く、少し威圧感もある神崎だが意外と話しやすい。悠希にとっては実の親戚よりも余程信用出来る相手だ。
「お前の場合死にかけたってのが誇張じゃないのがな。昔より頻度が減ったけど、偶にただの風邪でも拗らせやすいんだ」
だから体力をつけることが大事、と毎回同じことを繰り返される。悠希は何かしらの病気を患っているわけではない。ただ人より体調を崩しやすいのだ。なので薬や治療でどうにかなるものではない。だから上手いこと自分の身体と付き合っていく他ないのである。とはいえ、成長するごとに昔よりは良くなっているので社会人になる頃には普通の人と同じくらい健康になれるのでは?と期待していた。悠希は
真剣な顔で呟く。
「やっぱ体力つけないとですよね…バイト始めようと思ってるんですけど」
「良いんじゃねの、スタベとか」
「無理です」
有名な某コーヒーチェーンの名前を出されて即座にそう答えていた。あそこはバイトだろうと猛者の集まりだと認識してるので、悠希が入ったら動きが遅すぎて即日クビにされそうである。すると神崎はクックッ、と笑った。
「だよな、お前には向かないか。まあ、自分に合いそうなところ選べよ」
神崎は世間話は終わりだと早速月一の検査を始めると告げ、その前に気になることはないかと尋ねてきた。悠希はふと、以前覚えた胸の違和感について話してみる。話を聞いた途端神崎の表情が険しくなった。
「胸の不快感…不整脈か、もしくは…」
ぶつぶつ呟きながら看護師を呼び、検査の準備をするよう指示を出した。悠希の心の中は何事もなければ良いけど、と不安に満ちていた。
一通り検査を終えた悠希は再び診察室の椅子に座る。神崎は机に広がった書類を一瞥すると悠希の方に向き直った。
「今月も異常なし、心電図、CTにも異常はなかった。不整脈の心配はない」
「そうですか」
何もなかったことは喜ばしいのだが、原因不明の胸の違和感があることは不安であった。偶々調子が悪かった、気のせいだったと理由は色々考えられる。それでもハッキリしないと落ち着かない。不安気な悠希は神崎にこう問いかけられた。
「悠希、胸が苦しいはどういう時だ。激しい運動をした時か?」
その言葉に悠希は以前胸の痛みを感じた時のことを思い出す。あの時朱里の恋人役を引き受ける代わりに、今までのようにあれこれ世話を焼かないで欲しいと頼んだ。あれほど拒否していた癖にあっさりと受け入れた朱里に拍子抜けすると共に、何とも言えない気持ちになったのである。望んでいたはずなのに、素直に喜べない。自分のことなのに言語化しようとしても上手くいかなくて、もどかしさを感じていた。
我ながら要領の得ない悠希の拙い説明を神崎は黙って聞いてくれる。彼は内心どうであれ絶対に苛立ちを表に出さない。だから悠希はそれに甘えてペラペラと語る。神崎の表情が徐々に険しいものから怪訝なものに変わっていく。
「つまり、胸が苦しかったり痛むのはあの幼馴染のことを考えている時だと」
「…そう、ですね」
「…」
神崎は顎に手をやり、眉間に皺を刻み考え込んでいる。え、もしかして神崎の専門外の病気が隠れてる可能性が?と悠希は急速に不安に駆られていく。何だかんだと病気らしい病気を患った経験がない悠希は神崎の言葉を、死刑宣告をされる囚人の気持ちで待っていた。入院、手術…と悠希の脳裏に恐ろしい映像が流れ緊張で喉が渇いてくる。そして遂に神崎が重い口を開いた。
「…幼馴染のことを考えすぎて心身に負担が掛かった結果、胸に違和感や痛みが生じている。ある意味では精神的ストレスだな」
「…へ?」
神崎の言葉に強張っていた悠希の肩から一気に力が抜けた。予想だにしない宣告に悠希は阿保面を晒す。
「…それ、冗談ではなく?」
「医者が冗談言うかよ」
神崎の堂々とした態度に悠希は困惑していた。時折感じた胸の痛みや違和感、その原因が朱里のことを考えすぎていたからだと言う。それでは悠希が四六時中朱里のことを考えてるようではないか。つまりそれは。
「…俺が朱里のこと好きみたいじゃないですか」
「?好きじゃねぇの?俺と初めて会った時からお前あの子にべったりだっただろ」
朱里は付き添いで病院に来ることもあるので神崎とも顔見知り。彼は朱里のことを悠希の保護者と呼んでいる。揶揄ってるわけではなく、本当にそういう認識なのだ。
「好き、は好きですけど。先生が想像してる意味の好きじゃないですよ」
神崎が言ってるのは恐らく恋の病のことだと思う。相手のことが好きすぎて、食事が碌に喉を通らず胸が痛くなったり苦しくなると言う。症状としては当てはまらないことはないが、悠希が朱里に恋愛感情を抱いているなんて…と深刻な顔で考えていると神崎が口を挟む。
「いや、俺の言う好きは恋愛の意味じゃない。親愛だろうが友愛だろうが好きに変わりはないだろ」
「…」
周りの人間は悠希と朱里が互いのことを好きだと言う。その「好き」の意味は恋愛的な意味だと皆口を揃える。その度に悠希は違う、と否定してきた。朱里のことは「好き」だが、皆が求めている意味では決してない。そうなってはいけないのだから。
「そうなると、俺は朱里のことをそういう意味で好きじゃないのに常に考えて、考えすぎて体調に影響出てるってことになりますよね」
「姉が大好きな弟みたいなもんじゃね?」
「言葉通りに受け取ると少し気持ち悪いんですけど」
超シスコンということになる。控えめに言ってもドン引きだ。
「別に良いだろ。お前らがべったりくっついて何しようが、誰にも迷惑かけないんだからな」
「それはそうなんですけど…周りはそうじゃないんですよね」
「ん?あー、そうか。あの幼馴染モデル並みな見た目してるしな。そりゃ妬み嫉みがお前に向かうわ」
他人事みたいに笑う神崎に悠希は不服そうに目を細めた。
「笑い事じゃないんですよ」
朱里と付き合うと公表したが、裏で彼女が手を回したのか表立って文句を言う者は居なかった。が、それもいつまで持つか分からない。悠希は朱里に庇ってもらうことを恥だと感じたことはないが、現状に甘んじていたいわけではないのである。我ながら面倒臭い性格をしていると自嘲した。
「んなもん負け犬の遠吠えだと聞き流せば良い。もし悠希に危害を加えようとする馬鹿が居たら、あの子がどうとでもするだろ。そういうの得意そうだから任せておけば良い」
「先生朱里のことなんだと思ってるんですか」
「悠希の保護者兼セコム。俺からしたら互いのことを大事に思ってる、似たもの同士。お似合いだよ」
「…お似合い」
幼馴染という関係性でも釣り合わないと多々言われていた。お似合いと言われたのは翔や極一部を含めた僅かだけ。他人からの評価は気にしないようにしているが、肯定的な意見を聞くと嬉しいものだ。
「…けど、いつまでもこの関係性のままではいられませんよね」
「ん?何だよ急に神妙な顔して」
「さっきも言いましたけど、この年になって朱里に世話を焼かれるのもどうかと思い離れようとしたんです。結局諦めましたけど…今は良いとしてそのうち朱里に好きな人が出来たりしたら、このままじゃ居られなくなります」
流石に朱里のプライバシーに関わることは言えない。
「…まあ、異性の。それも距離がやたら近い幼馴染が側にいることを許容する奴は少ないだろうな」
「…あの子に好きな人?出来るのか?…」と神崎が何やらぶつぶつ呟いているが聞こえない。
「先生?」
「いや、何でもない。あの子に好きな人が出来る場合もあるが、悠希にだって好きな人が」
「ないですよ、絶対」
硬い口調で即座に否定した悠希に神崎は面食らっている。そして探るように問いかけてきた。
「やけにハッキリと断言するけど、人生何が起きるか分からないものだぞ。好きな相手が出来ないと何で言い切れるんだ」
「…俺は誰かを恋愛的な意味で好きになる、愛だの恋だのを知ってはいけない人間なんですよ」
誰にも話したことのない本心を初めて語った。




