22話
いや、今向こうの事を気にかけている場合ではない。至急解決しなければいけない問題は悠希の目の前にある。そう、悠希は勢いにまかせて朱里の手を握っている状態だ。普段から家族同然、姉のような存在と認識している朱里と手を繋ぐことくらいなんてことないはず。そのはずだったのだが。
思い返せば小学3年以前ならば朱里と手を繋いだことくらいあった。が、記憶にある朱里の手は自分と同じくらいの大きさ。子供だから当然である。しかし、今悠希が握っている朱里の手は悠希より華奢で関節が目立たず、指はしなやかで細い。一方悠希の手は朱里より大きく、ゴツゴツとして骨ばっている。体格は細身の悠希でも手は一目で男だと分かる。18歳女子と16歳男子の手が同じわけがないことくらい分かっていたが、実際握ると否応なく「違い」が視覚、触覚から伝わってくる。悠希は今改めて自覚した。朱里は幼馴染だとか家族だとか、姉以前に「異性」だということに。
(あれ、何だ、急に恥ずかしくなってきた…っ)
今すぐ朱里の手を放しこの気恥ずかしさから解放されてしまいたい。けれど、「いや手を握るくらい余裕だが」と強気な態度を取った癖に、「やっぱり恥ずかしい」とさっさと辞めてしまうのはどうしても嫌だった。これもちっぽけなプライドがそうさせているのだが、自分から始めた手前後には引けなくなった。この良く分からない状況を打破するには悠希が恥ずかしさから耐えられなくなり手を離すか、朱里の方から手を離すかのどちらかしかない。一番あり得るのは前者だが、悠希は諦めが悪かった。だから意識的に逸らしていた視線を手を握っている目の前の相手に移した。一縷の望みに掛けようとした、朱里も自分と同じように恥ずかしがっていることを期待しているのだ。
「…」
望みは一瞬で打ち砕かれた。朱里は照れだとかそんな可愛い反応は一切見られず、いつものように余裕綽々で涼し気な顔をしていたのだ。あ、これ無理だと悟った。朱里は悠希と違い手を握ったくらいで狼狽えるような性格ではないし、そもそも「弟」と手を繋ぐくらいなんてことないのだ。恥ずかしがっているのは悠希だけ、その事実が形容しがたい悔しさを沸き上がらせる。勝ち負けの問題ではないと理解はしているが、それでも朱里が平然としていて悠希だけ気恥ずかしさを感じている今の状況が何となく面白くない。今に始まったことではない、悠希が慌てふためく場面でも朱里は冷静だった、それだけの事だ。
「…確かに、本当に大丈夫そうだな、これならいけるか」
ずっと黙っていた朱里はポツリと呟く。そしてホッとしたように笑った。
悠希は自分が別に意味で恥ずかしくなり再び顔を伏せる。悠希が照れたり、自分だけが狼狽えていることに不満を抱いている間も朱里は、手を繋ぐことに対し消極的な悠希が本当に平気なのか瘦せ我慢をしているのではないかと心配していた。それに対し悠希は、何故自分だけ恥ずかしがって朱里は平然としているんだと怒りにも似た感情を抱いていただけ。
自分の浅ましさがほとほと嫌になる。これ以上手を握り続けるのが申し訳なく、その資格すらないと思ったのでこちらから手を離そうとした。既に勝ち負けだとか、ちっぽけなプライドだとかはどうでも良かった。ただ早く、この自分より白くて小さい手を離さなければいけないと言う感情に突き動かされたから。
(…あれ)
悠希は朱里の手から自分の指を外そうとするが、いや外したのだが何故か朱里と手を握ったまま。理由は至極明白だった。ちらりと横目で確認すると今度は朱里が悠希の手を握っている、悠希よりも強い力で。お前から先に話すことは許さない、と言われてる様な。バッと顔を上げると、そこには最近あまり見ることも無くなっていた悪戯っ子を彷彿とさせる表情の朱里が居た。背中に嫌な汗を掻き始める。
「…そろそろ離してくれないか」
あれほど嫌がっていた言葉がすんなり出た。人は追い詰められると何でも出来てしまうのは本当らしい。プライドも何もかも放り投げ、懇願するように朱里の目を見据える。何だかんだ悠希に甘い朱里は本当に悠希が困っていると分かるとさっさと手を引く。だから今回もあっさり手を離してくれるはずだと高を括っていた。
「いや、何か懐かしいからもう少しこのままの方がいい、それに…」
確かに懐かしさを感じていたのは悠希も同じだがそれよりも恥ずかしさが勝ってしまうのは仕方ないだろう、と言いたくなるがそれよりも朱里が言葉を途中で切り後ろを見るように促していることの方が気になった。(手は繋いだまま)後ろを向くと、スマホをこちらに向けている飯島と付き合いきれないとばかりに冷めた顔をしている中村が目に入った。
(本当にあそこは何やってるんだ)
本日二回目の心からのぼやき。見るように促したということは朱里も後ろで不審な動きをしている飯島に気づいていたはず。確か朱里は一度も後ろを見ていないはずだが、本能か何かで察知したのかもしれない。朱里ならあり得るので気にしないことにした。気にするべき問題は別にあったからだ。
「…飯島は何やってるんだ」
「スマホ構えているんだから私たちの写真でも撮っているんじゃないか、私もさっき気づいたばかりだ」
「何で気づいたんだよ」
「何か視線を感じて、チラッと確認したらあんな感じだった」
やはり本能で察知していた。多分ストーカーとか盗撮とかされてもすぐに気づきそうだ。
「ちょっと言って来る」
「?何で」
「何でって、勝手に写真撮られてるんだから文句くらい言っても」
「別にいいだろ手繋いでる写真撮られるくらい。それで周囲に広めてくれたら信憑性も増すだろ」
何が、とは言わなかったがすぐに分かると同時にブレないな、と苦笑した。どこまでも効率重視である。ついさっきまでの悠希は飯島はむやみやたらに風潮する人間ではないと思っていたが、その認識は既に危ういものになっている。
悠希の中の飯島像は「良く分からない」だ。良く分からない人間がどんな行動を起こすか予想するのは難しいので、悠希の予想に反して朱里と悠希の関係(嘘)や手を繋いでいる写真を周囲に広める可能性もある。どちらの行動を取ってもこちら側に不利益が発生するわけではないので、気に留めなかった。
それから暫く経たないうちに「いい加減にしろ」という叱責と共に椅子から立ち上がる音が聞こえた。それから中村と、後を追うように飯島が店から出て行ったのは直ぐの事。その瞬間朱里があっさりと手を離したため、悠希の左手は久々に自由を取り戻した。
結構な時間手を繋いでいたことで、悠希の中にあった手を繋ぐことへの抵抗感が薄れてることに気づくのは約20分後。
「もういいか」
「いやまだ…」
「そう言い始めてもう10分経つんだが?」
「あと5分っ…」
ワックを出た悠希達は高校の近くまでは辿り着いていた。が、校門からはやや距離のある家の塀に隠れて問答を繰り返している。隠れていると言ってもさっきから前の道を通る生徒からは「何してるんだ」という訝し気な目を向けられているので、隠れているどころか逆に目立っている有様だ。まあ学校の有名人とその幼馴染が珍しく言い争っている(実際は違う)のは注目するなと言うのが無理な話。当の2人は注目されつつあるのに気づいてはいるが、だからと言って話し合いを辞める気配もなかった。
その原因は土壇場になって悠希が怖気づいたからだ。ワックで学校近くに着いたら手を繋いでこれ見よがしに校門を通る、ということで話はまとまっていたのだ。悠希もその場では同意していたのだが、いざやるぞと朱里が手を差し出した途端「ちょっと待って」と情けない声を上げたのである。心の準備が出来るまで待って欲しい、と。それを聞いた朱里は「マジか」と口パクで呟いた。
今になって彼氏役を引き受けるのが嫌になったわけではない。ただ単に「恥ずかしい」のである。抵抗感がやや薄まっているのは自分でも分かっていたのだが、それと羞恥心は別の話。思春期男子らしく女子と衆人環視の中手を繋ぐと言うのが照れ臭いというだけの話であった。
今までそんな話出ていなかったし、手を繋ぐことへの抵抗感から拒否されるのならともかく朱里と手を繋ぐのが恥ずかしいと言う傍から聞いたら「あれだけイチャイチャしておいて今更?」と言いたくなる理由で拒否されるのは、流石の朱里でも予想出来なかった。
彼氏のフリをするということは手を繋ぐことはそれ以外にも「それっぽい」ことをすることになる。悠希も頭では理解していたのだが、さあやるぞと意気込んだ途端、これだ。自分でも意気地のないヘタレだと自覚している。情けない話で、自覚しているが出来ないのだ。
そう言い始めてから10分経った。(比較的)気の長い朱里も流石に少しイラつき始めた(気がする)。実際朱里は悠希相手ならどれくらい待たされても腹が立つことはないのだが、そんなことを知る由もない悠希は緩やかに勝手に追い詰められていた。
そしてこのまま待っていても埒が明かないと思ったのか、突然悠希の手を掴み歩き出す。
「ちょっ…!まだ心の準備が」
この期に及んでまだそんなことを宣う悠希に対し、怒るわけでもなくいつもの頼りになる落ち着いた口調で告げた。
「悠希は何もしなくていい、ただ…笑え」
「ねえ、あそこ…」
「西条先輩と…えと鶴見くんだっけ…あれ手繋いでる?」
「あの2人ってそうだったの!」
「あの噂本当だったのかな、朱里ちゃんが幼馴染くんのこと…」
「私はそうだと思ってたよ、あの2人ずっと仲良かったもん」
予想通り、手を繋いで(しかも恋人繋ぎ)登校する悠希達は注目の的だった。この程度で付き合っていることを知らしめる事が出来るのか半信半疑だったが、聞き耳を立てて声を拾う限り「そういう関係」だと認識した生徒が結構いるらしく驚いた。あの傍迷惑な噂も後押ししているようで、今だけは面白がって噂を流した人間に小指の先ほどの感謝の気持ちを伝えてやろうという気持ちになる。
悠希は朱里に言われた通り兎に角笑っていた。自分幸せですと言わんばかりに、普段使わない表情筋を駆使し笑顔を顔に張り付けている。意識が笑顔を作ることに集中していた悠希はあれほど恥ずかしがっていた朱里とも手繋ぎも普通にこなせていた。一つの事に意識が向くと他の事が疎かになるのは悠希の短所ではあるが、この時ばかりはいい方向に働いた。
普段仏頂面なことが殆どな悠希がにこやかに微笑んでいる姿は同級生に衝撃を与えたことを悠希は知らない。そのことも朱里と悠希が付き合っているのではという疑惑に信憑性を与えていることも。悠希があんなに笑うのは朱里に対してだけなのだ、と周囲が勝手に勘違いしてくれていた。
校門に入るまでに聞こえて来た範囲でのひそひそ話が割と好意的なものが多くて意外であった。悠希が朱里の近くにいることすら良く思わない奴も一定数いたはず。そういう批判的な声もあると踏んでいたので正直拍子抜けだな、と思っていたその時、玄関前にたむろっていた2年生らしき集団が悠希達の姿を認めると敵意むき出しで悠希を睨んだ。が、気にせずスルーすると聞こえるように
「おいあれ…」
「あの噂マジだったってことか」
「あいつと西条先輩だと釣り合わないだろ、顔とかも地味だし」
「分かる、ひっつき虫が良い所っ…!!!」
「おい、どうした急に顔色悪くなったけどっ…!ひっ…」
予想していた話し声が聞こえて逆にホッとしたのも束の間、声の主たちは急に黙ってしまったようだ。最後に喋った奴は何かに怯えたような引きつった声を出していた気がするが、気のせいだと思うことにした。それから朱里と別れて教室に着くまで「そういう声」は聞こえなかった。別れる直前、朱里に何となく訊ねた。
「朱里、さっき玄関で」
「玄関?ああ、うるさい虫は何匹か居たけど、他に何か居たか」
悠希が言い終わる前にキョトンとした顔でそう告げた朱里を前にすると、「いや何でもない」と答えることしか出来なかった。フリを引き受ける際、今までのように世話を焼くのを控えて欲しいと頼んだはずだが「過保護」も控えて欲しいと頼むべきだったと少し後悔していた。
教室に足を踏み入れると、既に登校していた翔と奈々が突撃してきた。
「悠希、朝のアレここから見たけど、アレか、西条先輩と本当にアレに」
「翔、アレアレばっかで伝わらないよ落ち着いて…鶴見西条先輩と手繋いで登校してたけど、もしかして…」
平静を装ってはいるが興奮してアレアレ言って使い物にならない翔と同じく興奮しているが冷静さを保っている奈々は対照的だ。ちらりと周囲を確認するとこちらを見ないようにして、その実悠希に根掘り葉掘り聞きたいクラスメートが聞き耳を立てていることに気づいてた。きっと朱里も同じ状況になっていることだろう、まあ向こうは上手いことやるはずだから心配はしていない。問題はこっちの方だ。
後で一々聞かれる度に答えるより、多くの観衆の中で話す方を選んだ。その方が楽と言う理由もあるが、実際のところ何度も同じことを聞かれるうちにボロを出す危険があるため、という理由が大部分を占めている。
なのでわざと聞こえるように奈々に応えた。
「付き合い始めた、昨日から」
その瞬間教室のあちこちからキャー、という悲鳴とオオオ、という絶望に染まった呻き声が聞こえた。あっさりと答えた悠希に対し翔も奈々も目も口もポカンと開け、唖然としている。が、すぐに体制を整えた翔が間を置かずに訊ねる。
「な、何がきっかけで、だってこの間は絶対ないとか言ってただろ」
そりゃそうだ、あの時の悠希はこんなことになるなんて思いもしなかったのだから。人生何が起こるか分からないとはよく言ったものだ。
取敢えず悠希は事前に打ち合わせした「付き合うことになった経緯」をそのまま話した。
その経緯とは「悠希はいつの日からか朱里に恋愛感情を抱いていたが自分では釣り合わないとその思い胸を秘め、幼馴染として傍に居続けた。が、あの日朱里が薫を振ったことで悠希が好きなのではないかという噂が立ち、所詮噂は噂だと一蹴していたが、どうしても気になり駄目元で訊ねた。「自分のことを好きだと言う噂があるが根も葉もない噂だろう」と。肯定されたら脈はないときっぱり諦められ、前に進むことが出来ると玉砕覚悟で聞いた。が、返って来た返事は「噂は本当、ずっと前から好きだった」と告げられ…今に至ると。
悠希と朱里が互いに恋愛感情を抱いている云々以外は大体合っているので途中でつまることなく説明できた。改めて口にすると結構恥ずかしいが、流石に腹は括った。悠希は今日から朱里の彼氏、と洗脳のように言い聞かせていた。
説明を聞き終わった翔と奈々は何故か目を輝かせ、自分の事のように喜んでくれた。
「やっと…悠希が素直になった…長かった…」
「翔お父さんみたい、あんまりやるとウザがられるよ…鶴見おめでとう、前からお似合いだと思ってたんだ」
そんなに喜ばれると嘘を吐いてる罪悪感から胸がチクリと痛む。それでも、この件を引き受けた時点で周囲を騙すことに関しては納得したはずだった。やると決めたからには親友だろうと何だろうと騙しきるつもりで挑まなくては、と決意を新たにしていた。
この時の悠希は「信用出来る相手には話していい」という朱里の言葉をすっかり忘れていた。思い出すのはもう少し後である。
そろそろ作者も忘れかけてた「アレ」について触れます