19話
その後、10分で支度を終えた悠希は朱里と共に自宅を出て駅に向かった。時間帯的に通勤ラッシュに当たってしまったため、改札前もホームも学生、社会人で溢れていた。悠希は寝起きも相まって気分が余り良くなかった、人混みが苦手で特に満員電車は死ぬほど嫌いだからである。
いつも遅刻ギリギリの電車で登校するのも出来るだけ混んでいない電車を選んでいるから。なら早起きして6時くらいの電車で行けばいい、と友人から言われたことあるが即却下した。低血圧で朝起きられないからである。もっと努力しろ、と思う所がないわけではないが無理なものは無理だ。
とはいっても乗っている時間は10分程度なので大してきついわけではないが、その日の体調によっては貧血を起こすこともある。そのような懸念もあり満員電車には出来るだけ乗りたくないのだ。
だが、この先大学、就職と進んでいっても満員電車を避けて通ることは出来ない。いっそ高校を出たら免許を取って車で通勤、通学した方がいいと思うこともあるが満員電車に乗りたくないがために車を買うのもどうかと思ってしまう。一番怖いのは、この話を祖母が耳にしたら服を買う軽さで車を買う可能性があることだ。そこまで甘えるわけにはいかないし、その前に祖母のお抱え運転手に頼め、と言われてしまうだろう。黒い高級車なので乗ると目立つ、だから乗りたくないのだ。運転手はいい人なので申し訳ないが。
そんなことを考えている内に自分たちが乗る電車がホームに着いた。窓を見ると既に満員、その上このホームにいる溢れんばかりの人間がこの狭い電車に乗り込むのだ。考えるだけで憂鬱だが、仕方ない。ドアが開きチラホラ降りる人間を見送り、いざ乗り込もうとしたとき肩をトントンと叩かれる。
何だ、と振り返ると後ろに並んでいた朱里が何かを差し出している。取り敢えず受け取るとそれは個包装のマスクだった。マスク、朱里の順に視線を移すと
「マスク忘れてるぞ、使え」
「…ありがとう」
そこで思い出した、朝満員電車に朱里と乗る際いつからだったかマスクを渡してくれるようになったこと。確かその時は久しぶりに酷い貧血になり途中の駅で降りたのだ。持っていたスマホで学校に遅れると連絡し、一緒にいた朱里には先に行ってくれと伝えたのだ。が、例に漏れず朱里は
「私も残る、悠希が心配だから」
その日は悠希に付き添っていたということで遅刻扱いにはならなかったが、悠希は迷惑をかけてしまったと悩んだものだ。朱里は悠希が人混み、得に満員電車を苦手としてることを知っていたがこの日の真っ青な顔色の悠希を心配し、貧血に効く食べ物を調べ食べるように勧められた。しかし、食べたからと言ってすぐに効果が出るわけではない。そこですぐに試せる貧血対処法がマスクだった。気休めではあるが。
満員電車は臭い。大勢の人がすし詰めになっているのだから過ごしやすい快適な香りがするわけがないのだ。悠希は周囲の人間と必要以上に接触しなけれないけない閉鎖空間、そして臭いを特に苦手としていた。人とも接触は仕方ないとして臭いに関してはマスクをすればマシになる、と朱里は満員電車に乗るときはマスクをするよう勧めた。それ以来通勤、通学ラッシュの電車に乗り合わせる際はマスクを忘れないようにしていたのだが、今日はバタバタしていたため忘れてしまっていた。本当に朱里は準備が良い、と尊敬してしまう。実際昔よりは体力が付いたのでそうそう貧血になることもなくなったのだが、別に今言うべきことでもないので黙っていた。
朱里から渡されたマスクを着け電車に乗り込んだ。
約10分後、学校の最寄り駅に到着した。同じ制服を着た生徒の姿が確認できる。時刻は7時半少し前、早めに学校に行き自習をしたい生徒だろう。部活の朝練に向かう生徒はもっと早い時間に登校しているはずだから居なさそうだ。学校に行く前にワックに寄ろうとしているのはあまり居ないだろうな、と思った。
駅を出ると付けていたマスクを取りリュックに突っ込んだ。いつものように朱里と並んで歩く。普段は意識したことはなかったが朱里の身長は165、170の悠希と並ぶと少し低いくらいだ。が、女子の中では高い方だろう。確か小学生の頃は朱里の方が大きかった、中学に入ってから徐々に悠希が身長を越していったのだ。
こうして並ぶと朱里が女子なのだということを再認識する。決して女子扱いしていないというわけではない。家族同然に過ごしてきたせいで悠希の中では家族の括りに入っているのだ。そんな相手と恋人として振る舞うことになるのだから人生は何があるか分からない。昔の自分に言ったら冗談は辞めろ、と笑い飛ばされるだろう。
そうこうしているうちにワックに到着した。窓から店内を少し覗くとやはり平日のせいか学生服の人間の姿は認められない。別に同じ学校の奴がいてもなんの問題はないのだが、学校の外で普段挨拶を交わす程度の相手と出会ってしまった時の気まずさと言ったら、コミュ障一歩手前の悠希からしたら出来るだけ避けたい。
自動ドアから店内に入りカウンターへ向かった。
「お待たせ」
先にテーブルについていた悠希より遅れて朱里が戻り、おぼんをテーブルに置く。おぼんの上にはドリンクとセットのポテト、そして食べると言っていたエビアボカドマフィンが載っていた。今は紙に包まれているためどんな見た目をしているか分からない。メニュー表にデカデカと載ってはいるが実物と写真がかなり違う、なんてことはよくある。写真だと大きいエビが三匹ほど挟んであったが、実際あんなエビを大量に使ったらコストがかかって仕方ないだろう。
悠希は自分が頼んだチーズ入りマフィンの紙を外しながら、朱里に視線を移す。すると
「…(ワクワク)」
目が輝いていた、そんなに楽しみだったのか。朱里は普段思っていることが顔にあまり出ない。しかし特定の時は分かりやすく顔に出る。そのうちの一つがが美味しいものや食べたいものを前にした時だ。表情こそ変わらないが目が爛々と輝く。擬音をつけるとしたら「キラキラ」、だろうか。心なしか口元も緩んでいる。普段良いものを食べているだろうに、ファーストフードにここまで心躍らせることができるとは。正直今日ワックに来るのは乗り気ではなかったが、こんなに喜んでいる朱里を見ると多少は来て良かった、という気分になる。悠希も朱里に対しては甘いところがあるため、普段の朱里に対してどうこう言える立場ではない。
包まれていた紙の中からいよいよエビアボカドマフィンがその姿を現した。
(エビでかっ)
軽くトーストされたマフィンの間にはアボカドを練り込んだディップ、その下には大ぶりな蒸しエビ三匹とスライスされた玉ねぎが挟んであった。写真より大きいエビがこれでもかと挟んである。確かセットで600円くらいだった気がする。アボカドとエビのサンドをカフェで頼もうものなら単品で600円を超えることはザラだ。それを考えるとこのボリュームでこの値段は採算が取れているのか心配になってしまう。
また、朝メニューと考えると600円も十分高いと考える人もいるだろう。それは人それぞれだが悠希がアボカドが好きで、この値段なら週に2回は食べている。それくらいクオリティが高い。
朱里はニコニコしたままマフィンにかぶりついた。かぶりつく、といっても大口を開けているわけではなく控えめに口を開けている。何でもあまり口を大きく開けられないらしい。しかし一口の量は結構多いのでプラマイゼロだろう。というか朱里は何をやっても品がある、これは才能だ。その上食べるスピードも早いので、大食い選手権に出場してもスピーディーかつ優雅に食べる姿が容易に想像出来る。
悠希がそんなことを考えている横で朱里は黙々とマフィンを食べ進める。例えるなら空腹時に餌を前にした猫だろうか、勿論本人に言うつもりはない。言ったら不服そうな顔をされることは明らかだからだ。本人はうまい、とご満悦な表情を隠そうともせず口を動かしている。本当に美味そうに食べるな、と悠希は改めて思った。
そう言えば、昔悠希の作ったカレーを食べた際も同じ表情を浮かべていた気がする。作った本人からするとそんなに手放しで美味い、といえる出来ではなかったのだがあんなに美味そうに食べてもらえると嬉しくなった。恐らく悠希に気を遣ったのだと思うが、それでも当時の悠希は暫くご機嫌だった。それ以降ちょくちょく料理を振舞うことが増えた。当然ながら朱里の方が料理の腕は何倍も上ではあるが、競い合っているわけでもそんな気もさらさらない。ただ単に互いの料理を食べるだけ、というそれだけのことである。男子からすれば朱里の手料理を食べられるという点だけでも嫉妬の対象だ。
普段の良く言えばクール、言葉を選ばずに言うと素っ気ない朱里の食事中にのみ見れるこの表情は多くの学校の男子を落としてきたらしい。所謂ギャップ萌えというやつか、と妙に納得したのを覚えている。ふと店内を見渡すと、私服を着た大学生らしき男とスーツを着た社会人らしき若い男が朱里をボーっと眺めているのに気づく。どうやらここでも落としかけているみたいだ。見慣れている悠希にとっては日常の一コマに過ぎないのだが、他の男子するととんでもなく魅力的に映るらしく慣れって怖いな、とまるで他人事のように考えた。
と、ここで自分はまだ一口も食べてないことに気づき慌ててマフィンにかぶりついた。久しぶりに朝メニューを食べたが、やはりレギュラーメニューは安定して美味い。基本新メニューを頼んだり冒険する方ではない悠希はいつも同じものを頼む。飽きないのか、と訊ねられることもこともあるが頻繁に食べるわけではないので飽きない。
チラリと朱里の様子を確認すると、もうラスト一口だった。対して悠希のマフィンはまだ半分残っている。
「早」
思わず声が出た。それと朱里がラスト一口を口に放り込んだのがほぼ同時で、そのため朱里から反応が返ってきたのは咀嚼して呑み込んだ後だった。
「そんなに大きくないし。というか悠希、食欲ないのか。あんまり減っていないみたいだけど」
「…いや、そういうわけじゃない、けど」
「けど?」
馬鹿正直に朱里の食べている様子を見て微笑ましい気持ちになっていた、と白状しても良かったのだがどうにも気恥ずかしさが先行してしまい言い淀む。中学生だったつい最近まではこんな言葉何の葛藤もなく言うことが出来ていたのに、これが思春期か、とハッとする。
朱里が心配そうな、というか変に言葉を濁したせいで疑いの籠った目を向けてくる。どうしようか、と思案しつつ取り敢えず食欲がないわけではにということをアピールするために両手で持っていたマフィンをパクパク食べ進める。その様子を見て朱里がホッとしたように頬を緩めたのを確認すると、同じように悠希も胸をなでおろす。どうやら誤魔化しに成功したようである。
「あれ、鶴見?」
ホッとしたのも束の間、右斜め前方、出入り口方面から声がかけられる。マフィンを持ったままゆっくりと顔を声のした方に向けると、同じ学校の制服を着た男子が2人自動ドアをくぐってきたところだった。クラスメートの飯島と中村、確か2人ともサッカー部だった気がする。普段そこまで話す方ではないが中等部から一緒なので付き合いだけは長い、そんな微妙な関係だ。
「やっぱ鶴見じゃん、いつも遅刻ギリギリなのに珍しいな」
背の高い方、飯島がフレンドリーな態度で話しかけてくる。もう一人の方、中村は黙ったままだったが悠希から視線を向かって右にズラすと…目を大きく見開いたかと思うと急に表情筋が活性化し始めた。飯島も悠希の隣に朱里がいることにやっと気づいたようで、慌てて顔を引き締めた。美人な先輩と思いがけない場所で遭遇したからか、どうするべきか互いに視線を交わしている。声に出さずとも目で合図を出し合っているのだろう。そして悠希に視線を移し…これは助け船を出しているのか。朱里との会話を取り持って欲しい、と言ったところかと予想を付ける。
同級生ならまだしも2学年先輩で一見取っつきにくそうな朱里は、周囲の羨望を集めると同時に後輩男子からしたら気軽に近づくことのできない高嶺の花として崇められている。それこそ幼馴染の悠希と薫以外の1年男子は恐れ多くて話しかけることすらままならない。しかし、それでも数少ない「高嶺の花」と会話の出来る機会は逃したくない、けど何を話したらいいか分からない、だから悠希に会話の仲介を頼みたい、そんなところか。
朱里は2人を悠希の友人だと思ったのか、必要最低限の笑みを浮かべて問いかける。
「悠希の友達?」
友達と言えるのか微妙な関係だが本人達を前に「友達ではない」とは言いづらい。さらにさっきから2人がこっちをガン見している。ここで「ただのクラスメート」と答えようものなら後で教室に行った時絡まれそうだ。そんな奴らではないのかもしれないが、人となりをあまり知らないのだから心配しても仕方ないだろう。
「…まあ、うん」
取り敢えず否定はしないでおいた。聡い朱里は何かを察したようだが、自分達から悠希の友人を騙ったわけではないからと特に何か言うわけでもなく、小さく頷いた。
「そう…いつも悠希が世話になってる。これからもよろしく」
ニコリ、と控えめに、普段の素っ気ない朱里しか知らない男子達からしたらかなりの攻撃力を持つ微笑みを浮かべつつ2人に社交辞令としての礼を伝える。美人な先輩から微笑まれ、話しかけられた2人は分かりやすく舞い上がり、照れているのを隠そうともしない。
しかし悠希は知っている。今の朱里は完全によそ行きモードだ。これでも「悠希の友人」を前にして出来る限り愛想良く振る舞っている。それ以外の相手に対してはそっけないを通り越して冷たい。人によってはがっくりと項垂れてトボトボ帰っていく。
2人に対しては必要最低限の笑顔を使って対応しているだけだが、そんなことを知る由はない男2人は単純に喜んでいる。後で教室で自慢でもするつもりかもしれない。悠希は分かりやすい2人をやや冷めた目で見つめていた。