16話
悠希としては朱里の男除けの相手、彼氏役を引き受けると言う意思表示をしたつもりだった。だから朱里は自分の申し出が受け入れられたということで、いつものように「じゃあよろしく」と軽い調子で返してくれると思ってた。
そのはずなのに、目の前の朱里は微妙な顔をしていた。「何を言っているんだこいつ」と言いたげな。変なことは言ったつもりはない悠希は困惑していた。彼氏役を引き受けると言っているのだ、断ったらこういう顔をされるのも納得できる。いや、朱里の場合断っても「しょうがないな」と引き受けた時と同じ返答をしそうだ。
じゃあこんな顔するのはどういった感情からだ、と頭を悩ませていると朱里が口を開く。
「悠希、今自分が何て言ったか分かってるか?」
「何って俺と付き合ってって」
そう言うとあからさまにため息をつかれた。変なところは何もなかったと思うのだが、と悠希は首を傾げる。
「その言葉、どういう意味で言った?」
「彼氏役引き受けるって意味で」
するとさっきより深くため息をつく。ますます訳が分からなくなる。
「それなら彼氏役引き受けるって最初に付けてから、付き合ってって言うべきじゃないのか」
そう指摘され、やっと自分の言葉が足りず相手によっては誤解されるようなことを言ったことに気づく。つい最近、同じようなことを言われたような。デジャブか。
「お前、私じゃなかったら誤解されるぞ」
呆れている朱里にウ、と押し黙る悠希。その通りなので言い返せない。だが、悠希とて朱里以外にこういったことを言うつもりはなかった。朱里なら誤解せずに受け取ってくれるだろうと言う信頼からだ。
「ごめんごめん、まあ朱里になら通じると思って」
ヘラヘラ誤魔化すように笑うと、朱里も釣られて仕方ないな、と言うように笑った。
「…通じるというか、お前が私に告白なんてするわけないからな、すぐ分かるよ」
流石の付き合いの長さ、悠希の事なんてお見通しである。一瞬目を伏せた気がするが気のせいだろう。
「それは朱里もだろう、だから彼氏役なんて頼んだんだろ?」
仮に悠希が朱里の事を恋愛的な意味で好きで、朱里自身が気づいていた場合、最初から声をかけなかったし選択肢にすら入っていなかったはずだ。朱里は悠希の事を弟としか見ていないし、悠希も朱里の事は家族同然の幼馴染としか見ていない。それに朱里には好きな相手がいる。だからこそ、恋人のフリなんてものが成立するのだ。どちらかが相手に好意を持っていたら、すぐに破綻してしまう。
「…まあな」
朱里が小さく笑う。そこで悠希は何か思い出したようにハッとすると、朱里の目を真っ直ぐ見つめた。
「彼氏のフリってさ、具体的に何するんだ」
気が早いとは思ったが、至極真っ当な疑問を口にした。恋愛経験の一切ない悠希には世間一般の恋人同士が何をするのか分からない。フィクションとしての恋愛ものを見ることは少々あるがフィクションはフィクション。現実との乖離は避けられない。下手に真似して周囲に怪しまれたら意味がない。
朱里は悠希の疑問について暫し考え込む素振りを見せる。そして神妙な顔で口を開いた。
「…何か、イチャつくんじゃないか」
「は?」
成績トップの朱里から出たとは思えない偏差値の低い回答に思わず声が出る。急に馬鹿になっている。冗談かと思ったがそんな期待は早々に打ち砕かれた。まごうことなき真剣な表情だったからだ。
段々心の中を「不安」の二文字が侵食し始めている。これは、もしかしなくても。
恐る恐る悠希は訊ねる。
「もしかして、何も考えてなかった…?」
まさかそんなことはないだろう、と揶揄い交じりで言うと
「うん」
良く通る声で言い切られた。目には一寸の曇りもなく、体調はいいはずなのに眩暈がした。
「何で言いだしっぺが何も考えてないんだよ、モテるからその辺詳しいと思って当てにしてたのにさ」
自分も当事者なのだから自分でも調べるべきだったにも拘わらず、自分の事は棚に上げてややきつい口調で言い返す。だって仕方がないだろう。何事も万全を期してきた朱里だ、今回もいいアイデアを思いついているだろうと期待していたのだ。それが蓋を開けてみればこの有様。『何かイチャつく』とは何だ。漠然としすぎている、悠希の方がまだマシなアイデアを出せるレベルだ。
悠希の自分を当てにしていた態度に微かに眉をひそめる朱里。少し小馬鹿にしたような言い方も良くなかった。スーッと目を細め悠希を睨む。
「モテるって言っても付き合ったことないんだから詳しいわけないだろう、恋愛の知識なんてフィクションのものしかないぞ、私は」
逆に開き直ってフン、と鼻を鳴らす。おかしい、あの朱里が自分と同じことを言っている、と悠希は慄いた。背中に変な汗をかき始める。
ここで衝撃の事実が明らかになってしまった。ほぼ完璧な幼馴染、恋愛偏差値が著しく低かった。下手をすれば悠希よりも酷い疑惑が出てきている。
10年以上の付き合いで初めて明るみに出た幼馴染の数少ない欠点を目の当たりにし、悠希は口を微かに開け呆然とした。(それなりに)軽い気持ちで引き受けてしまったことを既に後悔し始めている。しかし、一度やると言ったのにやっぱり辞めます、は悠希の公園の砂場の山程度しかないプライドが許さない。
初めから泥沼に乗った気持ちになり、短く嘆息する。まあ、お互い碌に知識がないことが分かったのだから協力して何とかしていくほかない、と気持ちを無理やり切り替える。
朱里に視線を戻すと何やら神妙な顔で考え込んでいる。いつもなら頼りになるその顔も今は漠然とした不安しか感じない。不思議である。
「えーと確か、最近読んだ本だと全校生徒の前でヒーローがヒロインの肩を抱いて『こいつ俺の彼女だから、手出すな』と宣言してたな、つまり私か悠希が相手の肩を抱いて」
「最初から間違ってるんだけど」
悠希の感じた不安は間違いではなかった。やはり朱里はこの問題においては役に立たないようだ。というかその本、この間悠希に貸したやつではないか。しかもストレートな恋愛ものではなく、割とツッコミどころ満載の。
「あれはフィクションだからいい感じになっているんであって、実際やったら悪目立ちするだけだぞ。というか小説の内容を鵜吞みにするな」
それに悠希が朱里の肩を抱いて同じことをしようものならブーイングが殺到しそうで正直怖い。そもそも小説、漫画のキャラクターの行動をそのまま真似したところでリアリティーがないし、不自然と思われてバレる危険が高まる。
しかし、普段は頼りにしかならない朱里がこうもポンコツなのは見ていて、話していて新鮮である。悠希が朱里をリードしている節すらある。
遮られ、反論された朱里は不服そうに口を尖らせる。怒るということは自分のアイデアを本気で言っていたということだろうか、それはそれで恐ろしい。
「まさか、さっきの冗談で言ったんだろ、本気じゃ」
「割と本気。全校生徒の前で言っちゃうのって手っ取り早くていいって読んでて感じてたんだよ。一々聞かれて、その都度説明するより効率がいいしさ」
食い気味に言われた、本気だった。悠希の口元が引きつる。冗談ではない、全校生徒の前で交際宣言なんて悪目立ちどころではない。ただでさえ目立っている今の状況に拍車をかける結果になるのは明らかだ。
それにわざわざ大勢の前で付き合っている宣言をする目的としては、既成事実を作ること、牽制等の理由が挙げられるが朱里は100%、効率重視という理由で言っている。流石にそんな理由で既成事実を作られるのはご遠慮願いたい。もっと平和的に、穏やかに行きたい。
「辞めてくれ、俺は目立ちたくないんだよ。それよりも、周りのカップルの様子とか思い出して参考にした方がいいんじゃないのか」
朱里の主張に断固拒否の姿勢を示し、自分の考えを述べた。すると朱里は興味を引かれたようでブラウンの瞳がキラン、と輝いた(気がした)。取敢えず交際宣言は回避されたと見て、話を続ける。
「クラスメートで恋人がいるやつは、昼弁当食べたり手つないだり一緒に帰ったり出かけたり」
「俺のクラスメートは恋人を自分の膝の上に乗せてたな」
「え、男子って重いでしょ、大丈夫なのか」
「乗る方が女子だよ、何で女子が男子を膝に乗せるんだよ」
朱里は時々本気で、ズレてるな、と思う発言をする。そりゃ朱里は50キロ程度の細身の男子なら膝に乗せたり背負うのは出来るだろう。しかし普通女子は男を膝に乗せない、重いからだ。
「恥ずかしくないのか、衆人環視の中でそんなに密着して」
「寧ろ見せつけたいんだろ、自分たちラブラブですよーって」
「ふーん」
興味がないのか分からない相槌が返ってくる。まあ、悠希も赤の他人がイチャついている様子何て心底興味がない。今思い出そうとしてもあまり出てこないあたり、自分にとって必要ないものとしてさっさと脳が削除していた可能性すらある。
すると朱里が「あ」と何か気づいたような声を出す。悠希は「何」と話すように促す。
「膝に乗るのと手をつなぐ以外、私達普段やってないか?」
「…あ」
言われてやっと気づいた。今自分たちが言った「周囲のカップルがやっていること」、その殆どを普段自分たちがやっていることに。こうやって改めて考えなければ、自分たちが普段どういったことをやって、どういう風に見られているのか気づくことすらないのだから。古くから染みついた習慣というのは恐ろしい。
「…そりゃ周りが付き合っているだなんだ言うわけだわ」
マジ受ける、と普段使わない言葉遣いで呟いた。悠希も遠い目をして今まで絡んできた相手の顔を(覚えている限り)頭に浮かべた。当時は何だ言いがかりを付けやがって、と腹を立てていたが、相手が勘違いするようなことをしていたのは事実だった。それでも絡まれたことは忘れていない。
「…というか」
朱里が気だるげに呟いた。座った状態で背伸びをし、頭を上に向けて夜空を眺めている。
「普段から付き合っているようなことしてたのなら、改まって何かする必要ないんじゃないか?」