9 冬寂雪花:Winter Mute
「ちょ――ッ!」
咲耶は咄嗟に身を屈めて、高速振動ナイフを躱す。
高周波で振動する刃が、甲高い音を立てながら陣笠の装甲を滑り、そのままシートの背もたれを切り裂いた。
中に入っていた合成クッション材が宙を舞う。
エア・ビークルの内装は大型シートが向かい合わせに二の二。高級リムジンより天井は高いが、如何せん景気よく乱闘するほどの広さはない。
咲耶はナイフの一撃を運よく躱せたが、向かいに座っている海里社長はそうもいかない。
彼女は狼狽もせず、静かに事の成り行きを見守っているが、長巻が最初に斬りかかっていたら危ないところだった。
一先ずヴァレリィの方に視線を動かすと、そちらにも目を赤く光らせたエア・ビークルのパイロットが忍び寄っている。
「後ろッ!」
だが一瞬早く、赤い眼のパイロットの腕がヴァレリィの首を締めあげた。どうやら身体能力も向上しているようだ。
パイロットの方は武器を携行していなかったことが幸いした。
長巻のように高速振動ナイフを携行していたなら、ヴァレリィの命はなかっただろう。
「ぐむッ……スリーパーズ・エージェントが社内にも! 既に!」
「軍人さん!」
「俺のことはいい! 社長が危ない。長巻を取り押さえろ!」
だが咲耶は冷静だった。
「それは、『もうやっています』」
「なん――」
何かを言いかけたその口が止まり、その目が驚愕に見開かれる。
咲耶の頭の上、長巻の右手に、六枚の花弁を持つ結晶の花が咲き、それは空中に『凍結』していた。
雪の結晶のようなソレが手首を縛り、高周波で振動しているはずの高速振動ナイフも凍りつき、霜を吹いて沈黙している。
「なんだ……これは?」
ピキピキと、今も粒子端末の過剰冷却によって空気中の水分を凍結させている六花を見て、ヴァレリィが呻くように言った。
「【冬寂雪花】……防壁とベクトル停滞の演算術式を組み合わせて改造した、オレの自作AIアプリです」
「オリジナルのAIアプリだと? これは空中に……凍結しているのか?」
「一応、ただの氷ではなく防壁《ICE》なんで、防壁破りを使わない限り、抜け出せないですよ」
「軍用の粒子制御デバイスでも、こんな真似は出来ないぞ。どういうんだ」
驚くヴァレリィを尻目に首を絞めていた、エア・ビークル・パイロットの頭部に氷の花が咲く。
締め上げる腕の力が緩んだのをみて、彼はすぐにパイロットを取り押さえた。
「すまない、助かった」
しかし、咲耶はそれを見て、浮かない顔をする。
ヴァレリィの反応のことではない。
腕が彼の身体に密着しすぎていたので、頭部に【冬寂雪花】を仕掛けたが、それにしてはエア・ビークル・パイロットからの抵抗がなさ過ぎた。
人間の脳は昔から、スーパーコンピュータよりも精密な演算装置とされてきた。
その評価は、粒子センサ・ネットワーク網がヒトの脳のニューロンを模倣して演算を行うようになった今でも変わらない。
その為、【冬寂雪花】のような対象に干渉するAIアプリは、ヒトの頭部や脊椎――粒子制御デバイス周辺には効きにくく、抵抗されやすい特性がある。
それは咲耶の持つ強力なデバイスをもってしても変わらない。
記憶や身体能力を強化するAIアプリが起動しているなら、なおさらだ。
赤い眼をした長巻に仕掛けた時、腕、というより高速振動ナイフを狙ったのはそれが理由だ。完全な相手の制圧よりも、確実性を取った。
だが今、仕掛けたエア・ビークル・パイロットは、まるで脳が睡眠状態であるかのように容易に頭部が凍結した。
「どういうことだ……封印してあった記憶を想起して、エージェントとして覚醒させるAIアプリじゃないのか……? それにさっきのあの音は……」
思案にふける咲耶に、赤い眼をした長巻部長が、長巻ではない声で呻いた。
「貴様……宗像咲耶……やはり『デーモン』を……」
その言葉に、咲耶の粒子制御デバイスが反応し、エア・ビークル内の気温が二度下がった。
「よく喋る……」
咲耶が次のAIを起動するよりも速く、長巻は二本目の高速振動ナイフを抜き放ち、後ろにあった扉の開閉制御板に突き立てる。
ハードが破壊され、防壁《ICE》が脆くなったところをハッキングされた、エア・ビークルのハッチが開け放たれた。
そのまま、高速振動ナイフをくるりと回して持ち替え、【冬寂雪花】に凍らされ、固定された右腕を躊躇なく切り捨てる。
そして、長巻は機外へ躍り出た。
「まてッ!」
全身を【身体強化プラグイン】で強化しつつ、飛び降りようとした長巻の襟首を危ういところで掴む。
「重ッ!」
だが身体強化された咲耶は、宙づりになった長巻の身体を片手で支えきる。
血を吹いている彼の右腕を止血代わりに凍結させつつ、機内に引き入れようとすると、赤い眼をした長巻が再び口を開いた。
「いいのか? 何故、ワタシがハッチを開けたのか、分かっているのか?」
その首筋、粒子制御デバイスのあたりに、金属の骨格と氷の外皮を持つ蜘蛛が張り付いていた。
声は、そこから聞こえていた。
「コイツは……」
咲耶はすぐさま、長巻の身体に【探針】を仕掛けた。
「察しの通りだ超級魔術師。こいつはスリーパーズ・エージェントなんかじゃあない。ワタシが細工はしたがね。そして……」
長巻の身体が強調表示され、その脇腹の当り、体内に埋め込まれたと思しきサイバーウェアの手術痕。
それがピー、ピー、と警告音のようなものを発していた。
「爆弾……ではないか。なんだ、何かを発信している」
警告音は徐々に大きくなっていく。
「まさか」
「少々アナクロな手段だが」
エア・ビークルから身を乗り出し、外を見た咲耶が見たのは、眼下に広がる御岳山中の森から、今まさに噴煙を上げて発射される無数のミサイル群。
「長巻部長の身体に、ミサイル誘導用のサイバーウェアを仕込んだのかッ!」
「爆弾を仕込むよりも簡単で、見つかりにくい」
金属の骨と氷の肉を纏った蜘蛛が答えた。