生贄の乙女
イフィゲニアはようやく悟った。これから逃れることは出来ないのだと。
兵隊たちは声高に自分の命を欲しがっている。全部が一つの意思で動いている。逃れられないのなら、将軍の中の将軍、アガメムノン王の娘としてやるべきことをしなければならない。
そう決意をした彼女は自分を守るように抱きしめるクリュタイムネストラから静かにゆっくりと体を離した。
その星の宿る瞳で天幕の外の兵士たちを幕の隙間から一瞥して、侍女たちに告げた。
「婚礼衣装と花冠を持ってきて」
そして母親に向かい、彼女の頬に手を滑らせた。
「お母様、聞いてください。これを受け入れるのはお母様にとって難しいことなのは分かります。でも、出来ないことを望むことは出来ないわ。私にとっても生きることが今一番難しいこと、分かってください。」
そしてイフィゲニアは毅然と言った。
「今日、私はこれから犠牲となって死にます。避けられないことなのです」
ここまで付き従ってきた侍女たちのうちの誰かがイフィゲニアの背後で息を飲んだ。他の侍女の何人かは恐怖と悲しみで洩れる嗚咽を止められずにいた。自分たちは英雄と姫との華やかな結婚式のためにこうしてアウリスまで来たはずだったのに。
今、幕の外にあるのは兵士の姿をしてはいても、ただ一つの意思に動かされる怪物のような恐怖の存在。これは神の意志なのか?それとも何かの試練なのだろうか?
年若い乙女たちはその時、ただただ恐れおののくばかりだった。
ただ一人、女神に生贄と望まれた少女以外は。
「避けられないことなのであれば、どのように死ぬのか、自分で決めます。決めたのです。
おだやかに…髪を振り乱して泣き喚くのではなく、おだやかに死にます。誇りを失わず、美しく。これが私の最後の望みです。分かってください。お母様」
彼女は自分に出来うる精一杯の勇気で微笑んだ。
「私は今、このヘラスに望まれているのです。ヘラスは私の命を必要としているのです。私はヘラス全てのポリスの花嫁になり、彼らを勝利へと導く母となるのです。これを栄光と言わずしてなんというのでしょう?」
幕の外からは生贄にを求める兵士たちの声が絶え間なく響いていた。避けられないことであるのはクリュタイムネストラも分かっていた。だが花嫁になると言う言葉を凛として自分に告げた娘は、美しくはあったが、華奢で、か細くて、ただ一人の男の妻になるのでさえも痛ましく思えるようなただの子供にしか見えなかった。