閑話 日中紛争
2009年5月、前年の2008年に発生したリーマンショックを始めとする経済危機により中華民国の経済はガタガタであった。
日本では与党であった民進党が明確な対策を打ち出せずに日本改進党に国会選挙で大敗北し、政権交代となった。
与党となった日本改進党は内需の拡大によりなんとか経済を落ち着かせて対応していた。
しかし中華民国では世界の工場と呼ばれていたが、経済危機により各国の企業が生産を縮小したり撤退に入る企業もあり国民の不満は日に日に高まっていった。
このままでは政権与党から転落する事に危機感を覚えた中国自民党は国民の不満を外に向けた。
その矛先となったのが、当時日本と領有権を争っていた澎湖諸島及び先島諸島にある尖閣諸島であった。
両諸島と共に日本が実効支配しており、澎湖諸島に限ったら軍が駐留していた。
中華民国は21世紀に入ってから急速に海軍力を拡大し、沿岸海軍から外洋海軍へと進化を遂げていた、空軍力は日本に劣っていたが、それでもF-16戦闘機やJ-15戦闘機などの第4世代戦闘機を多数配備していた。
軍事ランキングでは保有兵力において日本に勝っている為、日本より上にランクインする事が時々あった、その為、日本より軍事力で上にいるという慢心が中華民国軍全体にあった。
その為、中華民国国防省からの報告をまともに受けた中華民国政府は澎湖諸島及び尖閣諸島を占領する為の先島諸島への攻撃を許可してしまったのである。
5月15日、中華民国政府は日本連邦国に対し駐日大使の帰国と自国にいる日本大使に対し帰国するように要請し、日本連邦国外務省に必要な措置を取る事を布告した。
その日のうちに中華民国外務省はマスコミ向けに声明を発表し、自国領土である澎湖諸島及び尖閣諸島を日本の不法支配から奪還するのみで、全面戦争する意図は無いと発表したのである。
そして両諸島の住民に対し戦争に巻き込まれる恐れがある為、避難するように発表したのである。
当然の事ながら日本連邦国は猛反発し、澎湖諸島及び沖縄本島より南の先島諸島の住民に避難命令を発令した。
そして日本連邦国軍に対し軍事出動命令を発令、しかしその頃には中華民国空軍の戦闘機による対地誘導弾により澎湖諸島、与那国島、石垣島に設置されていたレーダーサイトが破壊されていた。
この頃日本連邦国軍は南西シフトにより与那国島に沿岸監視隊、石垣島に地方隊レベルの艦艇と地対艦誘導弾中隊、宮古島に地対空誘導弾中隊の約2000名規模の部隊を配備していた。
さらに澎湖諸島にも地対艦誘導弾連隊、地対空誘導弾中隊などの部隊3600名を配備していた。
5月16日には南西諸島沖で中華民国海軍東海艦隊(北京辺りは中華人民共和国領の為北海艦隊は無い)と佐世保基地所属の日本連邦国海軍第3艦隊が衝突、その隙を突いて空挺部隊が与那国島に降下、揚陸部隊が部隊が配備されていない西表島、多良間島に上陸した。
中華民国空挺団と与那国島に駐留している第303沿岸監視隊は戦闘を開始、空挺部隊の為、小銃などの軽装備しか保有していない空挺団と重機関銃までもが保有している日本連邦国陸軍部隊の戦闘は住民は既に避難済みの為、狭い島内を駐屯地がある日本が南側、空挺団が北側を陣取る形で拮抗した。
その理由はただ単に中華民国側の方が人数が多かったからである。
西表島、多良間島に揚陸した中華民国軍は既に避難を終えて島民の居ない島を完全占領し、日本側の反撃に備えて陣地形成を始めた。
ちなみに揚陸艦が多良間島に接近した時P-3C対潜哨戒機が撒いた機雷に接触し、1隻が航行不能となる事態が発生していた。
が、今のところは予定通りに中華民国軍の作戦が進行していた。
一方の澎湖諸島は日中両空軍による激しい空中戦が行われていた。
中華民国軍が澎湖諸島に上陸する為には制空権の確保が必須であり、本来なら澎湖空軍基地と高雄空軍基地などの空軍基地を巡航ミサイルで攻撃して滑走路を使用不能にして上陸する手筈であった。
しかしその巡航ミサイルが基地防空隊に迎撃されてしまい、唯一の戦果は戦闘機が配備されていない澎湖空軍基地の滑走路に2発着弾したくらいである。
その為、まともに日本連邦国空軍台湾方面隊と空中戦を行う事になったのである。
この時台湾方面隊には4つの主要基地(花蓮空軍基地•高雄空軍基地•台中空軍基地•松山空軍基地)を中心にF-15J/DJ戦闘機やF-3A/B戦闘機などの第4世代型戦闘機が多数配備されていた。
ちなみにF-3A/B戦闘機はF-108戦闘機の後継として1992年にスゥェーデンと共同開発された多用途戦闘機であり、史実のグリペン戦闘機が並行配備されている。
その為、空軍力は非常に強く中華民国空軍の東部軍管区の部隊を合わせても制空権は確保出来なかったのである。
更に搭載しているミサイルの性能差や早期警戒管制機の支援の差などにより中華民国空軍戦闘機は次々と撃ち落とされていった。
当然、日本側にも何の被害がなかったわけではなく、30機近くの戦闘機が撃墜されていたが、南中国側は90機ほどの為、キルレシオは1:3である。
5月22日、中々制空権を確保出来ない事に痺れを切らした中華民国軍は制空権を確保しないままで澎湖諸島への上陸作戦を強行、8000名の海兵隊を搭乗させた揚陸艇が澎湖諸島へと向かった。
しかしそんな事は既にお見通しの日本連邦国軍は96式多目的誘導弾や88式地対艦誘導弾の攻撃を仕掛けた。
更に高雄海軍基地所属の駆逐艦やフリゲート艦が中華民国海軍の支援母船に向かって90式艦対艦誘導弾を発射、撃沈している。
結果澎湖諸島に上陸を果たしたのは8000人中僅か2000人ほどであり、後は台湾海峡に沈んでいった。
5月25日、日本連邦国海軍は空母【赤城】を主力とする第1艦隊群を南西諸島に派遣、合わせて潜水艦も派遣し、周辺の中華民国海軍艦艇の排除に乗り出した。
29日には連日に渡るF-2B艦上戦闘機によるASM-3空対艦誘導弾や、島にいる地対艦誘導弾部隊、駆逐艦や巡洋艦による90式艦対艦誘導弾の攻撃により疲弊した中華民国海軍北海艦隊は日本に降伏した。
中華民国海軍北海艦隊の降伏を受け日本は西表島、多良間島の中華民国陸軍に対地攻撃を開始、味方の支援を失った中華民国陸軍はあっさりと降伏した。
膠着状態に陥っていた与那国島はヘリコプター空母である【日向】から発艦したUH-60JA多用途ヘリコプターにより部隊が与那国島に送られ、AH-64D戦闘ヘリコプターによる支援攻撃の元戦闘を開始、与那国島に降り立った中華民国空挺団は壊滅した。
南西諸島で占領した部隊も降伏、澎湖諸島への侵攻も不可能となった中華民国だったが、その戦闘は当初の目論見から外れ日本連邦国対中華民国の全面戦争へと突入していった。
6月6日にはほぼ全ての戦闘地域で戦闘が終結、しかし未だに東シナ海や台湾海峡上空では中華民国空軍と日本連邦国空軍の戦闘機が空中戦を繰り広げていた。
澎湖諸島に上陸出来た2000名程の海兵隊員も駐留している部隊との戦闘に敗北し、降伏している。
業を煮やした日本連邦国空軍は高雄空軍基地に配備していたB-1Jランサー戦闘爆撃機を投入、対地誘導弾を28発搭載したB-1J 18機は海岸線沿いの空軍基地に向かって攻撃を開始した。
更に日本連邦国海軍潜水艦部隊は主要軍港に機雷を敷設して湾を封鎖、湾の外に出ている軍艦には遠慮なく魚雷を発射して撃沈していった。
6月20日には国際連合安全保障理事会にて中華民国に対する経済制裁を決定、それを受け日本連邦国政府は中華民国企業の保有する船舶の無期限の出航停止命令を各国に通知した。
中華民国には米中安全保障条約により在中米軍8万名が駐留していたが、米中共同使用基地などは爆撃対象から除外され米軍部隊も除外された。
各国は日本の要請を受諾、すぐさま自国港湾にある中華民国企業の保有している船舶を差し押さえした。
6月25日、中華人民共和国との国境地点で衝突が発生、日本と戦争している場合では無いと中華民国国会で中華民国大統領の弾劾決議案が可決された。
内閣の弾劾決議案が可決され、内閣は退陣、逮捕された。
代わりに中華民国大統領になった人はすぐさま日本との講和交渉を容認して、スイス連邦国の首都ベルンで講和会議が開かれた。
7月1日に開かれた講和会議で中華民国から日本連邦国に対しての2000億ドル規模の賠償金、海軍力の制限、現状での国境の画定の3つが決められたベルン講和条約の締結により日中紛争は終結した。
今回の紛争で中華民国は海軍力の大部分を失い、暫くはシーレーンの維持にも苦労する事となった。
空軍は中華人民共和国との国境地域を除いた沿岸部の空軍基地の壊滅と戦闘機の大幅損失、何より貴重なパイロットが多数散っていった。
対して陸軍は澎湖諸島に侵攻して返り討ちにあった8000名を含む1万名程度の喪失であり、60万の兵力を有する中華民国陸軍からしたら大した損害では無かった。
一方の日本側は戦闘機を37機喪失したが、陸海軍の損失は殆どなく、戦闘機も補充が聞く為殆ど問題無かった。
日本側にとっての一番の問題は鳥山頭ダムに中華民国空軍戦闘機が発射した対地誘導弾が2発着弾、それによりダムに亀裂が走り、下流域の住民全員に避難命令が発令された。
幸いダム自体が補修工事により強固だった事、対地誘導弾が最新の為坐薬量が少なかった事が幸いし、緊急放水した事によりダム決壊の事態は避けられた。
その後の調査でダムの構造部材に深刻な損傷がある為、工事期間が8ヶ月となる事が判明した。
ちなみにこの時の対地誘導弾は近くにある橋を狙ったのが発射した瞬間日本連邦国空軍のF-3A戦闘機により撃墜され目標が橋から近くのダムに変わってしまった事が原因だった。
ちなみにF-3A戦闘機に撃墜された中華民国空軍のF-15戦闘機は森に墜落した。
今回の日中紛争での中華民国側の死傷者は9756名であり、日本側の死傷者は856名となった。
中華民国側は殆どが陸軍の無謀な澎湖諸島上陸作戦時の死傷者でこれには世界的な批判を浴びた。