閑話 オホーツク海紛争
1995年5月25日、日本領択捉島にある日本連邦国陸軍択捉駐屯地に駐留する第18旅団所属第605沿岸監視隊が何者かによる攻撃を受けた。
正体不明の勢力による突然の銃撃により警戒に当たっていた巡回中の兵士8名が死亡した。
その直ぐ後には国後島にあるレーダーサイトに巡航ミサイル2発が着弾、レーダーが破壊された。
その後、択捉島で第605沿岸監視隊隊員や保安隊がロシア連邦国陸軍兵を発見、激しい銃撃戦の後射殺した。
日本連邦国防衛省はロシア軍からの攻撃だと断定し、すぐさま総理大臣が日本連邦国軍の軍事出動を決定した。
この当時、千島列島を担当していた第18旅団は7つの駐屯地と約5400名の兵力で千島列島を防衛していた。
日本が軍の出動を決定した頃、ロシア軍は約1万2000名の兵力を乗せた輸送艦が千島列島に向かっており、その輸送艦をロシア太平洋艦隊が防護していた。
27日にはロシア軍が目標を変更、北海道道北に上陸を開始した。
上陸したのは1万2000名の兵士だけでは無くT-72戦車60両を始めハインド戦闘ヘリコプター25機などもあった。
日本は北海道に約5万の兵力を配備し、日本に2つある機甲師団のうち片方の第7機甲師団を配備していた。
更に270両の74式戦車や30両の新鋭の90式戦車を配備し、AH-1Sコブラ対戦車ヘリコプターなど戦力は日本の方が上であった。
しかしまだロシア軍が上陸した時には住民の避難が完了しておらず住民の避難が完了したのは戦争から4日後の29日であり、それまでは防戦で手一杯であった。
その頃には援軍も到着しておりロシア軍は1万5000の兵力となりT-72などの戦車も120両、ハインドなどの戦闘ヘリコプターも40機となった
日本は旭川周辺に防衛ラインを敷き、250門のFH70(155mmりゅう弾砲)を始めとする砲兵部隊を配置した。
5月31日、これまで防戦だった日本軍の反撃が開始された。
この日までにアメリカが対日債務の帳消しと引き換えに参戦を提案してきたが日本内に在日米軍基地は存在せず時間がかかるとして日本は拒否した。
千歳基地のF-15J戦闘機や滑走路の修復が終わった国後基地のF-4EJ戦闘機や三沢基地のF-2A/B戦闘機などがロシア空軍のSu-27戦闘機やロシア太平洋艦隊の空母艦載機であるMiG-25戦闘機と空戦を繰り広げた。
ちなみにF-2A/B戦闘機は史実とは違い日本単独で開発した国産双発戦闘機である。
見た目ではフランスのラファール戦闘機のような形をしており、イギリス製のターボファンエンジンを2基搭載している。
塗装は珍しい洋上迷彩で塗装されており、海洋国家日本独特の迷彩柄である。
ちなみに、この時F-2A/B戦闘機は開発はされたばかりの最新鋭戦闘機であり、三沢空軍基地にしか配備されていなかった。
道北上空で繰り広げられた空戦は数の優位なども働き極東軍管区に配備されたSu-27戦闘機150機のうち120機ほどを撃墜した。
逆に日本側も30機程の戦闘機を撃墜される激しい戦いであったが、空戦では勝利する事ができ、制空権を確保した。
制空権を確保した日本は6月2日AH-1S対戦車ヘリコプターや対地装備を搭載したF-2A/B戦闘機の援護を受けながら戦車などにより地上でも反撃が開始された。
この時、ロシア連邦共和国政府は日本に対し宣戦布告もしておらず、その為日本もロシアに対し宣戦布告をしていないという不思議な状態であった。
北海道北部で激しい地上戦が繰り広げられている頃、オホーツク海上でも動きがあった。
日本連邦国海軍は大湊海軍基地の第5艦隊をオホーツク海に派遣、第5艦隊はミサイル巡洋艦2隻、イージス駆逐艦2隻、ミサイル駆逐艦8隻の計12隻の艦隊であった。
対するロシア太平洋艦隊は輸送艦を護衛していた通常動力型空母1隻、ミサイル巡洋艦3隻、駆逐艦10隻の計14隻の戦力であった。
搭載するミサイルの射程で優位に立つロシア太平洋艦隊は数十発の対艦ミサイルを発射した。
しかし第5艦隊はイージス駆逐艦やその他の艦艇により難なく数十発の対艦ミサイルを迎撃し防ぎきったのである。
元々、イージスシステムはソ連•ロシアのミサイルの飽和攻撃に対処する為に開発された防空システムであった。
だが、しかし想像以上の結果にイージスシステムの開発国であるアメリカも驚いたほどであった。
飽和攻撃を防ぎきった第5艦隊は配備されたばっかりのSSM-1(88式艦対艦誘導弾)をロシア太平洋艦隊に向けて発射、同じ飽和攻撃をロシアにやり返したのである。
自分達がやった事と同じ事をやり返されたロシア太平洋艦隊は驚いたが、冷静に迎撃を始めた。
しかしM2.0のスピードで襲いかかってくるSSM-1を日本みたいに全弾迎撃出来る筈も無く、ミサイル巡洋艦は2隻とも撃沈、駆逐艦も5隻撃沈、3隻大破、1隻小破で、まともに戦闘可能な艦艇は空母と駆逐艦3隻のみであった。
最も空母の艦載機は先の空戦で壊滅状態であり、ただのデカイ的でしかない。
この時ロシア太平洋艦隊は千島列島から90km地点におり、近くの島は無人島だと考えていた。
しかしその島には前もって輸送艦により88式地対艦誘導弾が運び込まれていたのである。
88式地対艦誘導弾の射程は約200km、2両の88式地対艦誘導弾は各3発の計6発を空母に、残りのうち4発を満身創痍の駆逐艦に発射した。
やっと第5艦隊から逃げ切って安心していた所への対艦誘導弾である。
結局4隻のロシア海軍艦艇は88式地対艦誘導弾全弾をくらい轟沈した、駆逐艦は1発もしくは2発、排水量5万tの航空母艦【ヴァリャーグ】は6発の対艦誘導弾、沈まない訳が無かった。
結果ロシア海軍太平洋艦隊の主力艦は全艦オホーツク海に消えていった。
海上の戦いが終わった頃、海中ではロシア海軍潜水艦が相次いで浮上、無害航行を始めた。
これには戦争をしていた日本海軍潜水艦や傍観していたアメリカ海軍の潜水艦乗組員も驚いた。
しかし浮上し無害航行をしている潜水艦を攻撃する事は国際法上禁止されている為、その行動を見る事しか出来ずにロシア海軍潜水艦は母港であるウラジオストクに帰港していった。
しかしこれまでの海中戦で日本は5隻のロシア海軍潜水艦を撃沈し2隻を航行不能とした、日本側も1隻が撃沈され1隻が航行不能となったが勝利していた。
その後日米露の潜水艦救難艦が駆けつけ航行不能となった潜水艦の乗組員を救出し、潜水艦は専用船で母港まで曳航されていった。
そもそも日本はオホーツク海に抜ける全ての海峡にSOSUS監視網(ソナー監視ライン)を設置されており、敵味方関わらず全ての潜水艦の行動が日本側に筒抜けであった。
陸上での反撃が始まって2週間弱が経った6月10日、日本軍はロシア軍を海岸線まで追い詰める事に成功しており、敵の攻撃ヘリコプターは87式自走高射砲や戦闘機に容赦なく撃墜されていた。
更に戦車や機甲車は対地装備のF-2A/B戦闘機やAH-1Sによる攻撃で次々とスクラップと化していた。
そして6月12日、日本軍はロシア残存軍に対し最期の降伏勧告を行っだが、返ってきたのは唯一残っていたりゅう弾砲による攻撃だった。
そして日本軍は155mmりゅう弾砲や74式戦車、AH-1Sによる全力攻撃を行った。
そしてここに北海道に上陸したロシア軍1万5000名は壊滅した。
この時の日本側の死傷者は民間人約800名、軍人3900名で行方不明者は100名であり、対するロシア側は軍人7100名、行方不明者1900名となっていた。
残りは降伏し日本側の捕虜となった。
海空陸の侵攻部隊が壊滅したロシアに対し日本はヨーロッパの第3国経由で講和を打診、しかしロシアからの返答は無かった。
モスクワの駐日本大使がロシア政府に行ったがロシア政府内の対応が決まってないらしく門前払いをくらっていた。
北海道に侵攻された日本国民はそれ相応の報復を望んでおり、このまま有耶無耶に出来なかった。
アメリカ政府もなんの対応も示さないロシアに対する対応に困っていた。
挑発でカムチャッカ半島に偵察機や爆撃機を飛ばして領空侵犯しても迎撃機はおろか警告も無かったのだ。
日本政府はロシアを交渉のテーブルに着かせる為、ロシア領である樺太島に侵攻する事を決定した。
6月20日、日本連邦国軍2万が宗谷海峡を越え樺太島に上陸、その際ロシア軍からの攻撃は一切無かった。
上陸した2万は22日にユジノサハリンスクを占領、その際にホムトヴォ空港(旧大澤飛行場)を占領した。
ユジノサハリンスクを占領した日本連邦国軍は更に北部へと進軍するも住民は保護を要請し、兵士は降伏し、一切の抵抗がないまま北進して行った。
7月3日には樺太島最北端の都市であるオハを占領し、日本は樺太島を完全占領した。
この時になってようやくロシア政府が動き出し20万の兵力が極東にやって来た。
しかしその後起こったのはロシア極東軍管区の幹部の拘束とウラジオストクの占領であった。
そして7月5日、ようやくウラジオストクでロシア政府代表と駐日本大使による非公式の会談が開かれた。
会談は僅か3時間で終了し日本ロシア双方がウラジオストク条約に調印した。
モスクワ条約の内容は【日露双方は捕虜を速やかに相手国に返還する。】【ロシア政府は日本に対し40億ドルの被害補償金を支払う。】【ロシア政府は樺太島の日本帰属を正式に認める。】【日露双方速やかにホットラインを開く。】の計4つであった。
その後のロシア内の報道に明らかになったのは、今回の北海道侵攻はロシア極東軍管区の独断行動であり、極東軍管区は核によりモスクワを脅していたが作成が成功し、核を奪還した事。
その後特殊部隊が極東軍管区幹部を拘束した事であった。
その後拘束された幹部は国家反逆罪により処刑された、そして今回の紛争によりロシアの軍事力、国際発言力は大きく低下した。
日本は樺太島を手に入れ、同住民に対しロシア国籍か日本国籍かの選択権を与え、半数以上が日本国籍を選択した為、ロシア政府は国籍を没収し、日本国民となった。
ちなみにロシア国籍を選択した人はロシア本土へと送り返している。