山猫の願い
分け入る者を拒むかのようなその森は、外縁こそ人が立ち入れるほどの明るさに満ちていたが、少し中に入ればそこには別の世界が広がっていた。生い茂る木々から伸びる葉は互いに重なり合うようにして陽の光を遮り、昼間であろうと森の中は薄暗く、まるで森そのものが人を寄せ付けまいとしているかのようだった。
昼なお暗い森の中の、さらにその先に、その男は独りで小屋を構えて暮らしていた。男の生活は極めて規則正しいものだった。朝から森に足を運び、薬の元となる草を摘み取り、夕刻には小屋に戻り、食事もそこそこに摘み取った草の仕分けと処理を行う、その繰り返しだった。森のすぐ傍らに張り付くようにして佇む村に、その男が姿を現すのは、森で集めた籠いっぱいの薬草を売りに行くときに限られていた。男は、村に一軒だけある薬商に薬草を持ち込み、幾ばくかの現金を得ると、それを元に森では手に入らない品物を買い求めた。
男がいつ森に来たのか、どこから来たのかについては、村人たちの誰一人として知らず、誰一人として知ろうともしなかった。男は、いつのまにか森に現れ、いつのまにか森に住み始め、いつのまにか村に薬草を持ち込むようになった。素性の知れない男のことを、村人たちは『薬師』とも『魔法使い』とも呼んだ。村人たちの呼び方に、男に対する尊敬の念はまるで感じられなかった。男が村を訪れると決まって、村人たちは得体の知れない恐ろしいものを見るような目で男を見た。
男のほうも、村人たちと言葉を交わすようなことはないに等しかった。露天商から品物を買い求めるときなどには店の者と遣り取りするものの、男は吹っ掛けられた言い値を値切ろうともせずに買い求めた。金そのものの価値などどうでもよいと言わんばかりの男の態度は、少しでも金を毟り取ろうとする露天商を躊躇わせるほどだった。
男は生活に必要なもののほとんどを森から得ていた。男の暮らしは規則正しくも慎ましやかで、贅沢とは無縁のものだった。森に分け入る際には食べられる木の実などを探すのも怠りなく、それらを村で買い求めた粗悪な香辛料などとともに煮炊きし、腹に流し込んだ。男にとっては空腹を満たせればよいのであり、味や見栄えなどについて関心を持つことはなかった。
男のそのような生活に変化が訪れた。あるときから男の住む小屋に届け物がされるようになった。はじめは魚だった。ある日、森から小屋に戻った男は、大きさにして男の指先から肘ほどまでの魚が二尾、小屋の前に置かれているのを目にした。男はすぐに、武器代わりに常に手にしていた杖を構え、息を殺して周囲を見回した。自身の息遣いさえ耳に届くほどの静けさの中で、男は杖を構えたまま、そこかしこに茂る灌木へと目を遣った。しかし、既に夕闇に包まれつつあった小屋の周囲には、小屋の前に置かれた魚を狩れるほどの獣の気配は残されていなかった。何もないことを確認したところで、男は魚に近づいた。小屋の前に置かれていたのは、森の中を流れる川で普通に見られる何の変哲もない魚であり、魚の頭付近には噛みついたような跡が見て取れた。男は、何らかの獣が置き忘れでもしたのだろうかと訝ることになったが、結論には至らず、そのまま夕食の一品として加えた。
その後、『届け物』は数日に一度の頻度で届けられた。魚の次は兎が一羽だった。夕刻、小屋まで戻った男は小屋の前に置かれた兎を目にすると、杖を構え、即座に周囲を見渡した。その後、何もないことを確認した男は、兎の皮を剥ぎ、夕食の献立に追加した。兎の次は鳥が一羽だった。男は杖を構えることもなく鳥に近づき、手に取った。温もりの残る鳥の羽を毟り取り、丸焼きにして夕食に追加した。その後も届け物は続いたが、届くのは決まって、男が森に入っているときだった。しかも、男が小屋に戻る頃合いを見計らって届けられているかのようでもあった。小屋の前に置かれていた兎や鳥は当然のごとく息絶えていたが、それらに触れた男の手には温もりが伝わった。魚は丸い輝く目で男を見つめた。そのことが、『届け物』は小屋の前に置かれる直前に狩られたということを男に推測させた。
『届け物』が幾度か続いたところで、男は、何者が『届け物』をしているのかを突き止めようと思い立った。薬草採取に赴く振りをするために、森に入ると大きく回り道をして昼前には小屋まで戻り、小屋を見渡せる木の上に登って気配を消し、やがて現れるであろう何者かを待ち続けた。木々の間からかすかに覗く陽の光から、男はおおよその時刻を読み取ろうと努めた。陽が高い間は、その何者かは現れることはないであろうと推測していたが、男は気を抜くこともなく、木の上で辛抱強く待ち続けた。
森の鳥たちが塒へと急ぐ頃になって、森から音が消えた。森の鳥たちの囀りがまるで悲鳴のように響き渡ったとき、男は小屋の前に目を移した。小屋の前に居たのは、男と変わらぬほどの体躯をした雌の山猫だった。全身を茶色の毛並みに覆われ、鍛え上げられたかのようなすらりとした肢体は、無駄なものをそぎ落とした後に残る優美さと優雅さと鋭さに満ちていた。男は山猫の姿に見とれていた自身に驚きつつも、山猫から目を離すことはなかった。山猫は兎を一羽、口に咥えていた。山猫は兎を口に咥えたまま小屋の扉の前に腰を下ろすと、前脚で小屋の扉を叩いた。小屋の中から何も反応がないことを確認したのか、山猫は咥えていた兎を地面に下ろすと、顔を洗うような仕草をし、やがて、その場から去っていった。
男は、山猫が森の中に姿を消してからも、暫し木の上から小屋を眺めていた。何者かを突き止めることには成功したが、その何者かが山猫だったとは男は想像もしていなかったのか、男の顔には困惑の表情が浮かんでいた。いつまでも木の上に居ても仕方がないと気を取り直した男は、木から下り、小屋に向かった。男は小屋の扉の前に置かれた兎を手に取った。兎は、男の手に温もりが伝わるほどに、狩ったばかりのものだった。男は、手に取った兎を夕食の献立に加えるべく、下準備に取り掛かった。
◇
ある日のこと、朝から薬草を探し求めて森の中を歩き回っていた男は、昼少し前に森の中の開けた場所を見つけ、そこで休憩を取った。休憩しつつも、男は周囲への警戒を怠らなかった。背負っていた薬草籠を地面に置き、武器を兼ねる、身の丈ほどもある杖を傍らに置き、いつでも動き出せる姿勢を保った。
男が休憩を取り始めてしばらく経った頃、男の前の茂みが音を立てた。男は傍らの杖を手に取り、音のするほうに顔を向け、近づいてくるであろう獣を待ち構えた。男が見据える先で茂みをかき分ける音は次第に大きくなり、程なくして一頭の獣が茂みから顔を出した。その獣は、男が先日、届け物の主として突き止めることに成功した雌の山猫だった。山猫は茂みから顔だけを出したまま、男を見つめた。男は山猫と目を合わせたまま、その場に留まった。一人と一頭は先に目を逸らしたほうが負けとばかりに睨み合いを続けた。
先に目を逸らしたのは山猫だった。山猫は茂みから抜け出すと、男から距離を保ったまま、その場に腰を下ろした。腰を下ろしつつも前脚を伸ばしたままのその姿勢は、寺院などに奉納された動物の彫像を男に思い起こさせた。男は山猫から目を離すことはなかった。山猫は男を襲おうとするでもなく、男を恐れるでもなく、男を前にして平然とした様子で座り続けた。
「何のつもりだ?」男は声に出して山猫に訊ねた。男の顔には、言葉の通じるはずのない獣に話しかけた自身の行為を嘲笑うかのような表情が浮かんだ。
〈お願いがございます。〉山猫は男を見据えたまま声を発することもなく問いに答えた。
〈念話……か。〉男は意外だと言わんばかりに山猫を観た。〈おまえは何者だ?〉男は念話で問いつつも杖を持つ手に力を込めた。
〈人間たちが『山猫』と呼ぶ存在です。〉山猫は姿勢を崩さず答えた。
「『念話を使い、人語を解する山猫』、か。」男は声に出し、山猫を睨みつけた。「それだけでも、まともな存在ではないことだけは確かだ。」
山猫は男から目を逸らすと、身を捩るようにして、自身の腰の辺りに舌を這わせた。幾度か舌を往復させた山猫は顔を上げ、意を決したかのように再び男を見据えた。〈どうか、私のお願いを聞いていただけないでしょうか。〉
「聞く気もない、興味もない。」男は手にした杖を山猫に向けて突き出した。「とっとと失せろ。」男は声を荒らげた。
山猫は男の行動に驚く様子も見せず、目を閉じ、両の耳をわずかに伏せた。
〈わかりました。〉山猫は立ち上がると、先ほど姿を現した茂みの中へと消えていった。
男は、山猫の姿が茂みの中に消えてからも、じっとその場に留まっていた。山猫が茂みをかき分ける音が男の耳に届かなくなってから、男は籠を背負い、その場から離れ、薬草採取を再開した。
◇
明くる日、男は薬草採取のために森に分け入ってすぐに、山猫の姿を目にすることになった。
茂みから姿を現した山猫は男に目を合わせた。〈お願いがございます。〉山猫は前日と同じ言葉を念話で放った。
男は杖を構えつつ、山猫を見据えた。「おまえの『願い』なぞ、聞く気もない、興味もない、と昨日言ったはずだが?」男も前日と同じ言葉を繰り返した。
〈そうですか。〉山猫は男を暫し見上げると、やがて力無く項垂れた。山猫は無言のまま男に背を向け、森の中へと姿を消した。山猫の歩き方は親に叱られた後の子どもを思い起こさせるものだった。
山猫の姿が森の中に消えてからも、男は杖を構えたままの姿勢を崩さなかった。鳥の囀りが戻った頃になって、男はようやく構えを解いた。
「何なんだ、いったい。」男は独り呟いた。
◇
さらに明くる日の朝、小屋を出た男は、山猫が森の中から姿を現すのを目にした。山猫は口に兎を一羽咥えていた。男は手にしていた杖を構えた。
〈お願いを……、聞いていただけないでしょうか。〉山猫は咥えていた兎を地面に置いた。〈まだ、足りませんでしょうか。〉山猫は男を見上げた。
「おまえの届け物は、おまえの『願い』とやらの対価のつもりだったのか?」男は杖を構えた姿勢のまま、山猫に訊ねた。
〈ただで聞いていただきたいとは申しません。〉山猫は男の目を見た。〈ですが、私は人間たちが使うお金を払うことはできませんので、できることといったら、これくらいしか……。〉山猫は、前脚の毛繕いを始めた。
男は、前脚で頭を拭うかのようにして毛繕いを続ける山猫を見つめた。
「言ってみろ。」男は杖を下ろすことなく、山猫に向かって言った。
〈え……?〉山猫は毛繕いを止め、驚いた様子で男のほうを向いた。
「おまえの『願い』とやらを言ってみろ。」男は先を促した。「叶えられるかは別として、聞くだけは聞いてやる。」
〈ありがとうございます。〉山猫は目を見開いた。
「礼を言うのは、まだ早い。さっさと言え。」男は苛ついた様子で顎をしゃくった。
〈はい。その……、私を、人間の姿にしていただけないでしょうか。〉山猫は躊躇いがちに告げた。その後、すぐに前脚の毛繕いを始めた。
「『人間の姿に変えろ』、だと?」男は山猫の言葉を繰り返した。「理由は?」
〈どうしても叶えたいことがありまして……。〉山猫は毛繕いを止め、男と目を合わせた。〈詳しくは言えませんが。〉
「まあ、いいだろう。」男は肩を竦めた。「おまえの『願い』、叶えられんこともない。」
〈本当ですか?〉山猫は目を大きく見開き、今にも男に飛びかからんばかりの勢いで身を乗り出した。
「次の満月まで待て。準備にはそれなりに手間がかかる。」男は釘を刺すかのように、浮かれた様子の山猫を睨みつけた。「それまで、おまえの狩りの獲物を俺に分けろ。それが対価だ。」
〈おまかせになってください。〉山猫は胸を張って答えた。
「そうだ、名を聞いていなかったな。」男は杖の構えを解いた。「俺の名はヴェント。おまえの名は?」
山猫は前脚を伸ばしたまま、ゆっくりと腰を下ろした。〈フェリシタスと申します。〉山猫はヴェントの目を射るかのように見つめた。
◇
翌日から、一人と一頭の奇妙な生活が始まった。薬草採取のために森に入ったヴェントの許に、フェリシタスはどこからともなく現れ、ヴェントの傍らに付き従った。フェリシタスは時折森の中に姿を消すと、暫し後に獲物を口に咥え、再びヴェントの前に姿を現した。一日中ヴェントの傍らを進んでいたフェリシタスは、ヴェントが小屋に戻り小屋の扉を開けるまで付き従い、その後、森の中に姿を消した。一人残されたヴェントは、フェリシタスが狩った獲物を夕食の献立に追加するために下処理に取り掛かった。
ある日、ヴェントとフェリシタスは連れ立って森の中を歩いていた。ヴェントは薬草採取の傍ら、フェリシタスに山猫から見た森について訊ねた。人間と山猫とでは見る世界が異なるということに、ヴェントは興味深そうに聞き入った。フェリシタスも、人間として見る森は決してやさしいものでもないというヴェントの言葉に、頻りに頷いた。一人と一頭は、時折談笑しながら森の中を進んでいった。
◇
約束の満月の夜、ヴェントとフェリシタスは森の中を進んだ。魔法のための舞台は、森の中の、月光が降り注ぐ空き地だった。一人と一頭は、その場所を目指していた。
ヴェントとフェリシタスは、樹々の間を走る道とも言えない道を進み、灌木の茂みを幾つも通り抜け、森の中に空いた穴のような空地に至った。既に空高くに昇った月の光に照らされ、わずかに生えた草や周囲の樹々の葉は蒼白い輝きを放った。一人と一頭は、空地に足を踏み入れたところで立ち止まった。
「ここだ。」目的地に着いたヴェントは空き地を見渡しながら言った。
〈ここですか?〉フェリシタスは首を傾げた。
「そうだ。フェリシタス、空き地の真ん中辺りにしゃがめ。月の光に当たるように、だ。」ヴェントはフェリシタスに指示を出した。
〈わかりました。〉フェリシタスは空き地の中央に移動すると、腰を下ろし前脚を伸ばして彫像のような姿勢をとった。〈これでよろしいですか?〉フェリシタスはヴェントを見た。フェリシタスの両の瞳が月の光を受けて白く輝いた。
「ああ、それでいい。」ヴェントはフェリシタスを見据えた。「しばらく、そのままでいろ。」
ヴェントは杖を構えると目を閉じ、呪文の詠唱を開始した。周囲の樹々の間に潜む闇が深さを増し、月の光が輝きを増した頃、ヴェントの詠唱に別の詠唱が重なった。ヴェントは目を開き、詠唱を止めることなく周囲を見回した。もう一つの詠唱の出所は一つだけだった。ヴェントは詠唱の主を見据えた。
フェリシタスの詠唱はヴェントの詠唱を取り込み、その力を増していった。やがて、ヴェントの詠唱はフェリシタスの詠唱に完全に飲み込まれ、同時に夜の闇よりもさらに濃い闇がヴェントの目の前を覆い尽くした。最後にヴェントが目にしたのは、フェリシタスの勝ち誇ったような笑顔だった。
◇
ヴェントは目を開いた。頭をもたげ、四肢を地面につけてその場から立ち上がり、周囲を見渡したところで、ヴェントは首を傾げた。立ち上がったはずの目の高さは、横になったまま首だけ上げた程度の高さだった。何気なく目線を下に落としたヴェントが目にしたのは、毛並みに覆われた自身の前脚だった。茶色の毛並みは蒼白い月の光を受けて輝き、ヴェントは自身の姿が人間ではないということを認識せざるを得なかった。ヴェントは再び周囲を見渡した。
〈フェリシタス!〉ヴェントは念話で山猫の名を呼ぶと、左右を見回した。
〈こちらです、ヴェント。〉フェリシタスが念話で答えた。
ヴェントは後ろを振り返った。ヴェントが目にしたのは、変わらずに勝ち誇ったような表情を浮かべ、彫像のような姿で佇むフェリシタスの姿だった。
〈フェリシタス、どういうことだ?〉ヴェントはフェリシタスから顔を逸らし、自身の前脚へと目を落とした。〈俺のこの姿は……。〉
〈ええ。私と同じ、山猫の姿。〉フェリシタスは答えた。〈これが、私の願ったこと。〉フェリシタスは笑みを浮かべた。
〈これが、か?〉ヴェントは顔を上げ、フェリシタスに目を合わせた。
〈ええ。それが、私の願い。私の……、番の相手がほしかった。〉フェリシタスは笑みを浮かべたまま、ヴェントを見据えた。〈私と同じくらいの魔法の力をもつ、同じ種族の雄がほしかったのです。これまで幾度か試みたのですが、皆、姿が変じた途端に発狂してしまいました。そうならなかったのは、ヴェント、あなたが初めてです。〉フェリシタスはうっとりとした表情で語った。
〈俺は、おまえのお眼鏡にかなったというわけか。〉ヴェントはフェリシタスに挑むかのように牙を剥き出しにした。
〈そういうことになりますね。〉フェリシタスは満足そうに、笑みを絶やさずに答えた。〈私の思い描いたとおりに。〉
〈全く……、〉ヴェントは牙を収め、顔を俯け、肩を落とした。〈フェリシタス、おまえが使った魔法は……、『増幅反射』か?〉ヴェントは呻くようにして問いかけた。
〈ええ、そのとおりです。〉フェリシタスは頷いた。〈私自身は、それほど魔法を使えませんので。私が使えるのは、私にかけられた魔法を跳ね返す魔法くらいです。それも、魔法を跳ね返す際に、私に都合のよい魔法に変えて。〉
〈都合のよい魔法に変える……。そうか、『変換』もあったか……。〉ヴェントは納得したように呟いた。〈それを使って、術者の姿を変える魔法を使った、と。おまえの番の相手にするために。〉ヴェントはフェリシタスに重ねて問うた。
〈はい。〉フェリシタスは、聞き分けのよい子どもに満足した親のように、満足そうに頷いた。〈ですが、先ほども申しましたとおり、皆、姿が変わったことを知った途端に発狂してしまいました。ヒトとはずいぶんと脆く弱いものなのですね。〉フェリシタスは素っ気ない調子で言った。〈そんな雄なんて、いりませんでしたので、すぐに始末しました。〉フェリシタスは顔を顰めた。
〈『始末』だと?〉ヴェントは眉根を寄せた。
〈はい。首を一噛み。それで終わりです。〉フェリシタスは毛皮についた汚れを払うかのように胸元を一嘗めした。〈子猫の首を噛み切るよりも簡単でした。〉
〈食ったのか?〉ヴェントは身構えた。
〈何をですか?〉フェリシタスは、ヴェントの問いの意図を掴みかねるとばかりに訊ねた。
〈おまえが『始末』した奴だ。〉ヴェントは身構えたまま問うた。
〈そんなこと、しません。〉フェリシタスは心外だとばかりに髭を震わせた。〈噛みついたときに付いた血を嘗めたくらいです。共食いなんてしません。〉
〈そうか。〉ヴェントは肩の力を抜き、自身の姿を改めて見下ろした。〈この姿では、服は邪魔になるだけだな。〉ヴェントは纏わり付いていた服を、爪と牙とで破り捨てた。〈人嫌いが獣になってしまったのでは、冗談にもならん。〉ヴェントは、長い時を経て襤褸と成り果てたかのような服を前脚で踏み締めながら、フェリシタスに顔を向けた。〈フェリシタス。山猫として生きる術は、教えてもらえるのだろうな?〉
〈……よろこんで!〉笑顔を浮かべたフェリシタスは、ヴェントの傍らに寄り添うと、ヴェントの頬に舌を這わせた。〈まずは、毛繕いの方法からですね。その次は、狩りの方法。ヴェントが狩りを覚えたら、子どもがほしいです。私たちの――ヴェントと私の――子どもたち。〉フェリシタスは夢見るかのようにうっとりとした様子で言った。
〈何故、俺が狩りをできるようになってからなんだ?〉ヴェントはフェリシタスに頬を毛繕いされたまま、疑問をぶつけた。
〈だって、大きなお腹を抱えての狩りは、たいへんでしょう?〉フェリシタスは毛繕いを止め、ヴェントの目を覗き込み、当然とばかりに言った。〈狩りができないわけではないですけど。〉
〈違いない。〉ヴェントは両耳を一振りした。〈それなら、きっちり教えてもらわないとな。〉ヴェントは、傍らに佇むフェリシタスに鼻先を触れ合わせ、フェリシタスの頬に舌を這わせた。
〈その意気です。〉フェリシタスは、ヴェントに毛繕いされたまま、満足そうに頷いた。
やがて、一頻り互いの毛繕いを続けた二頭の山猫たちは、月の光が注ぎ込む空地から森の中へと姿を消した。
◇◇
森に独り暮らす男が村の薬商のところに顔を見せなくなって数年が過ぎた頃、村の狩人の一人が森に入った。帰り道を見失った狩人は何とか水を確保しようと森の中を歩き回り、ようやく一筋の小川に辿り着いた。水を汲もうと岸に近づいた狩人が目にしたのは、対岸で寛ぐ山猫たちの姿だった。狩人は驚きのあまり、目を見開いた。一頭は、大人の男一人半はありそうな大きさをした雄の山猫だった。その雄に寄り添うようにしているのが少し小柄な雌の山猫だった。二頭の周囲で動き回っているのが、三頭の子どもたちだった。子どもたちは、いずれも人間の子どもほどもある大きさで、大きな二頭の尻尾や体にじゃれついていた。狩人は貴重な獲物を目の前にしたにもかかわらず、その場から動くことはできなかった。五頭の山猫たちの姿は、親子の団欒のようにも見えた。
雄の山猫が狩人のほうに顔を向けた。山猫と目を合わせることになった狩人は短く悲鳴を上げた。その悲鳴に、他の四頭も狩人のほうに顔を向けた。狩人は五頭の山猫たちに睨まれることになった。狩人は恐怖のあまりその場から動くこともできず、かといって、目を逸らすこともできなかった。
狩人の歯の根が合わなくなった頃、雄の山猫はまるで興味を失ったかのように狩人から目を逸らした。残りの四頭も、雄の山猫に従うかのように、狩人から目を逸らした。雄の山猫が立ち上がると、雌の山猫も立ち上がり、岸辺から森のほうへと移動を開始した。三頭の子どもたちはその後を追うように、それでも互いにじゃれつきながら後を追った。五頭の山猫たちは森の中へと姿を消した。
狩人は自身の無事を確かめると、その場にへたり込んだ。狩人が岸辺を離れたのはそれからしばらく経ってからのことだった。狩人は、その後の数日に亘って森の中を彷徨った挙げ句、ようやく村に帰り着いた。村に帰り着いた狩人から山猫の話を聞いた、村の他の狩人たちは、我こそは山猫を仕留めてみせるとばかりに勇んで森に分け入ったが、その内の幾人かは二度と村に帰ることはなく、村に帰り着いた狩人たちも無事とは言い難い状況だった。その後、村人の中で森の奥深くに分け入ろうとする者はいなくなった。
山猫も、その後二度と村人の前に姿を見せることはなかった。
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