後篇
「……訂正するわ。道化のおじさん、結構演技が上手なのね。なんだか本当におじさんが不治の病にかかっているような気がしてきたわ」
「あれあれ、いまさら気が付いたんですか? ワタクシ、実はこのヘルツエンで一番の演技達者なのです。『演技が下手』な演技なんて朝飯前ですよ」
道化は言った。満面の笑みだった。
「いったいどこからどこまでがお芝居なの?」
「さあてねえ。『自分を殺さなければ直らない病気』にかかっているという件からかもしれないし、お嬢さんがワタクシに最初に声をかけてきた時かもしれないし。はたまた、ワタクシが朝起きて衣装を着けて化粧をした時からかもしれないし、もしかしたらお嬢さんがこの広場に足を踏み入れた時……いいえ、お嬢さんが生まれた時からかもしれません」
道化は言った。満面の笑みだった。
「また謎かけ? 今度はちゃんとした問題なんでしょうね」
少女は少しムキになって声を張る。
道化と少女が話し始めた時、空のてっぺんから雲を貫いていた太陽も、今は大分傾いて、赤いレンガを一層赤く染めている。ヘルツエンの街の真ん中にある広場のさらに真ん中にある噴水は、その夕日に晒された真っ赤なしぶきを上げていた。
「一つだけヒントを上げましょう。――実は、ワタクシの病気、半分直ってるんです」
「治ってるの? それも半分だけ?」
「ええ、半分だけ――いやもうちょっとかな、9割方直ってると言ってもいいでしょう」
「それって……」
少女は口ごもる。
日の高い間は人が溢れかえっていた噴水広場も、今は大分閑散としている。荷物を積んだ馬車の低いゆっくりとした馬蹄の音が、どっとどっとどっと、と響いているばかりだった。
「ええ、お嬢さん、あなたは実に勘が良い。そうです、ワタクシは殺してしまったのです、自分自身を! ――未だ半殺しと言った感じですがね」
道化は言った。満面の笑みだった。
「じゃあ、なんでおじさんは生きているの? そんな死にかけが、あんな変な踊りをしたり宙を舞ったり出来るはずないじゃない」
「いいえ、出来ます。むしろ、死にかけだから出来ると言っていいでしょう」
「どういうこと?」
「仕方がないですねえ、それではもう一つだけヒントを。お嬢さんは、今どこも怪我をしていない、五体満足です。頭からつま先まで健康なお嬢さんは、この大勢の人がいる広場で変な踊りが出来ますか?」
「……出来ないわ」
「じゃあ、変な歌を大声で歌うのは?」
「出来ない」
「じゃあじゃあ、その場でジャンプしてくるりと宙で一回転!」
「それは、広場でなくても出来ないわよ」
「お嬢さんは死んでない、健康なのに、この広場で歌ったり踊ったりが出来ない……不思議ですねえ、なんででしょうねえ」
道化はずっと笑顔のままなのに、さらに一層ニヤニヤしながら問いかけてくる。
「だって……恥ずかしい、じゃない」
「そのとおり、大正解!! ワタクシは、いえボクはもともとすごく、臆病で恥ずかしがりやでそのくせプライドは高かった。でも今はもう半分死んでいるから、ワタクシは恥ずかしくないのです」
道化は言った。満面の笑みは、消えていた。
フェイスペインティングばかり笑顔なのに、その下に隠れた表情はなにも感情を読みとれないくらいに凪いでいた。
夕日が一層広場を赤く染める。人足もさらに少なくなり、道化と少女はレンガの壁の影にほとんど二人きりだった。
「ボクは、臆病で、勇気がなくて、意気地がなくて、甲斐性もないし、友達も数えるほどしかいない」
道化の声は、それまでと同じ声の筈なのに、もうまるきり違う声に聞こえた。
「ボクは、約束は守らないし、お酒は弱いし、不器用だし、人の気持ちは分からないし、気の効いた言葉も出てこない」
道化は言った。無表情のままに。
「でも幸運な事に、ボクは器用だった。器用貧乏だけどね。踊りを踊れば、さほど努力しなくても上手に踊れた。演技だって少し練習すれば俳優なみだ。お勉強だって、一度教科書を読めば8割くらいは分かっちゃう」
道化は言った。
「でも不幸な事に、ボクは器用すぎた。本当の気持ちを口に出すことは出来ないけど、ジョークを言って笑わせて場を和ませることが出来た。ボクが宙返りをすれば、それだけでボクは人気者になった。でも、過ぎてみれば、人気者になったのはボクじゃなくて――」
道化は言った。道化は泣いていた。
「ワタクシですよ!」
道化は言った。満面の笑みだった。
「ボクはボクに言った。衣装をつけろ、化粧をつけろ。苦悩を、血を、笑いに変えろ。笑顔のペイントで傷と涙を覆い隠して。笑え、その毒薬のような苦痛を、滑稽な笑いで。衣装をつけろ、化粧をつけろ! ……これが、ボクの『死にいたる病』、どう転んだって直らない、ボクかワタクシかのどちらかが生き残るしかない、ボクの――」
血を吐くような叫びを上げながら、道化は泣いた。
道化の泣き声は、すっかり人気の少なくなった広場に響いた。道化の声に応えるように、夕日で赤く染まった噴水がぶしゅうぶしゅうと不気味な音をだして水を噴き上げた。
少女は、道化になんて声をかけて良いかわからなかった。
身体を丸めて喘ぐ道化は、夕日に照らされて真っ赤に染まっていた。少女は、いつかみた鹿の真っ赤な内臓にそっくりだな、とぼんやりと考える。今まで確実に生きていて、でもこれから確実に死んでいく色。
「――」
うつむいたまま、道化が何事かを呟いた。
少女は、声を聞きとるために恐る恐る道化に近づいていく。地面にうずくまる道化は怖かったけれど、なんとなく大切な事を言っている気がしたからだ。
「……なんちゃって」
「えっ、なんて言ったの道化さん?」
「なぁーんちゃってー!! ねえ、騙された、騙されちゃった? いやぁ、やだなあ、人を笑わせる道化にそんな暗い過去があるはずないじゃないか!」
道化は言った。満面の笑み、どころか身体中で愉快さを表現していた。少女がすっかり騙されてくれたことが、よほどうれしかったらしい。
「ええっと、どこからどこまでがお芝居だったのかしら?」
「そりゃ全部さ。お嬢さんがワタクシの演技を見くびって、『下手くそね』なんていうから、ちょーっとばかし本気を見せてあげようかと思ってね。いやあ、愉快愉快」
道化は、奇妙な踊りを踊りながらも、息も切らさずに歓声を上げている。
「……本当に見くびっていたわ。さすがはこの街一番の演技達者を自称するだけあるわね」
「光栄です、お嬢さん。ワタクシが本気を出して演技をすれば、この街に居る誰ひとりとしてその嘘を見破ることは出来ないでしょう。誰ひとりとしてね。それより――」
道化は少し目線を遠くに向けてから、少女の背後を指差した。
「あれはお嬢さんの親御さんではありませんか?」
道化の示す方を振り返ると、遠くに自分の父親がいるのが少女の目に入った。
「あ、お父様。……もうこんな時間なのね、楽しかったわ道化さん。今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ、この広場の連中ときたら、『お前の芸は身飽きた』なんて言って見向きもしてくれないですから、今日は楽しかったですよ。いい思い出になりました」
「私も楽しかったわ、それじゃあね。道化さん」
「お嬢さん。それでは、ごきげんよう」
道化が恭しく礼をする。
少女は自分の父親の元へ駆け寄った。途中、ちらりと背後の道化のほうを見ると、道化はもう奇妙な動きも滑稽な姿も見せず、ただ夕日の赤の中で空を見上げているだけだった。
YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY YR
道化と出会った次の日も、少女は広場へ向かった。
その日は、整備をしているのか噴水は作動しておらず、なんだか奇妙な静けさが広場を包んでいた。心なしか、人々の動きも鈍く見える。
道化は、昨日いた場所に、いなかった。
少女は、近くの小物屋の女に、
「昨日あそこにいた変な格好のおじさん、今日はいないの?」
と訊ねてみたが、ああ、あの変人ねえ、いつもなら雨の日も雪の日もいるんだけど、今日はいないわねえ、という何の手がかりにもならない返事が返ってくるだけだった。
昨日道化と話をした広場の一角は、太陽の向きの関係か、そこだけ四角く影に覆われている。光のささない広場の隅は血の気を失ったみたいに、静かだった。
少女にはそこが、なんとなく無彩色の世界への扉のように見えた。




