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前篇

 その人生の全てを辺境の小さな町で過ごしてきた少女にとって、ヘルツエンの都市は何もかもが新鮮だった。

 そびえたつ赤茶や黄色のレンガの壁はまるで物語のお城みたいで、漆喰にそって眺め上げると、まるで自分がお姫様になったような気分になった。馬車の車輪や人々の靴の底で削られた灰色の石畳や、コバルト色にくぐもった空も、どこか銀の粉を吹いているようで、そのはっきりしない色彩がかえってお上品なのだと少女は独りうなずく。

 ヘルツエンの街の心臓部にある噴水広場は、広場は行き交う人々や、荷物を積んだ馬車、露天商店を物色する主婦たち、噴水の近くに腰掛ける恋人たちなどでにぎわっていた。美味しそうな匂いのする屋台の直ぐ近くには、何日も身体を洗っていない様なすえた臭いの乞食がもの欲しそうな眼をして座っている。

きっと私が持っている物語の本棚をいっぺんにひっくり返したらこんな風になるんじゃないかしら、と少女は胸を躍らせた。今日のために新しくおろした紺色のワンピースは、きっと私が物語の主人公になるための衣装だったんだわ、と本気で思ってしまうほどだ。

 少女はしばらく、小物の出店をひやかしたり、歯の欠けた物乞いを遠巻きに眺めたりしていたが――不意に、目の端に黄色と黒のだぼだぼな衣装をまとって奇妙な動きをする人物を捉えた。

 広場の隅の方、人の流れから隔絶された所で、右半身が黄色、左半身が黒の、やたらだぼだぼしている服を着た男が、腰を振って踊ったり、沢山のボールを器用に一度に宙に投げてキャッチしたり、逆立ちしたりしている。

 大勢の人が行き交う広場は匂いも色もむせかえるようで、ほとんど秩序もなく賑わっているのに、その男の周りだけは青白い月の光で切り取られたかのようにしんとしている。赤いレンガを背景にして、良く見ればフェイスぺインディングで顔を真っ白に、鼻と唇を真っ赤に染めた男が、声を上げるでもなく淡々と、身体をくねらせている。

少女は故郷の村では一番の物知りだ。沢山本を持っているし勉強家だ。だから広場ににぎわう露天商だとか、垢にまみれた乞食たちの事は、見たことは無かったが知っていた。でもあんな黄色と黒のだぼだぼした服を着た人物なんて、聞いたことも無かったし、もちろん想像したこともなかった。少女からその変人までの距離は大分あるけれど、それでも変人が変人である事は一目でわかる。もし変人じゃなかったとしたら奇人だ。もし奇人でもなかったとするなら、きっとはしゃぎすぎた見ている幻影に違いない。少女はそう思うことしか出来なかった。

 少女がこんなもの思いにふけっていると、急に、黄色と黒の変態が、宙を舞った。

その場で跳躍したかと思うと、足を抱えて宙で一回転。

音もたてずつま先から着地したと思うと、間もなく何事も無かったように奇妙な動きを再開した。

 こんなに変な動きをしているのに、広場に居る人々は誰もそれを気にしていないみたいだった。せいぜい、狭い路地の薄汚れたレンガの壁に寄り掛かった大人になりかけの女性たちが、煙草をふかしふかしぼんやりと目線を送っているくらいだ。

 ――もしかしたら、あれは妖精かもしれない。

 そう少女は、考える。本で読んだところによると、妖精は背中に生えた羽で飛び回り、人間に悪戯して周るらしい。ちょっと想像していたのより大きいけど、あんな変な格好をして宙を舞うモノが人間であるはずがない。広場にいる人々が注意を向けないのは、きっとあの妖精が子どもにしか視ることが出来ないからだ。

 客が来なくて退屈している靴磨きやも、まばたき以外する用事もなさそうな物乞いも、あの黄色と黒に注意を向けていないのは、きっと見えていないからだ。

 ちょっと妖精さんに話しかけてみようかしら。少女は、右手に汗と香水の匂いでむせかえる人込みを感じながら、左手に噴水の水しぶきを感じながら、黄色と黒の人物のたつ広場の隅へと向かう。

 近くで見ると、妖精らしき人物は、なおさら人間らしくない。

 表情は笑顔で張りついているし、変な帽子もかぶっている。靴の先も妙に尖っていて、あれじゃ歩くのも大変そうだ。その格好のまま宙を舞ったり、ボールを放り投げたりしている。やっぱり人間じゃない、と少女は確信する。

「ねえ、妖精さん。妖精さんはこんなところでなにしているの?」

 黄色と黒のだぼだぼは、しばらく満面の笑みを少女に向け、そのまま妙な踊りを踊っていた。しばらくして、それが自分に向けられた言葉だと気付くと、笑みをくっつけたままの頬をピクリと痙攣させてから口を開いた。

「もしかしてもしかして、『妖精さん』ってのは、ワタクシのことを呼んだのかい?」

「ええ、そうよ。そんなおかしな格好をしているんだもの、妖精さんかと思ったんだけど……違ったかしら?」

「いやぁー! 申し訳ないのですが、ワタクシ、妖精ではございません。ただのシがない『道化』でございます」

少女は首をかしげる。今まで沢山本を読んだし、友達の中では一番の物知りだ。実際に見たことは無かったけれども、都会の事だって知識くらいはある。でも「道化」なんてもの聞いたことが無かった。

「おやその顔、道化を御存じない? それではワタクシが教えて差し上げましょう!」

 道化を名乗る黄色と黒は、演技がかった様子で深々とお辞儀をした。あんまり深く頭を下げるので、道化の後頭部が少女に見えたくらいだった。道化の帽子の襟足の辺りからはくすんだ赤毛と白塗りされていない黄色い肌がはみ出ていた。

「道化は人々を笑わせるためにある存在でございます。そのためワタクシは日々皆様に笑顔を届けるため、こうやって噴水広場で滑稽な踊りやジャグリングやアクロバットを披露している訳でして」

 ここまで一息に言いきってから、それまでの満面の笑みを急にくしゃりとゆがめて、

「しかしながら! ワタクシの技術が拙いあまりに! 誰もワタクシの方を見て下さらない! お~い、おい、おい!」

 そしてわざとらしい演技で、顔を覆って泣きまねした。

 道化を名乗る男が涙を一滴も流していないのが少女にははっきりと見えた。顔を覆う手の隙間から少女を伺う道化の目は、真っ白眼に赤い血管を浮かばせてぎょろぎょろと動いており、不躾な覗き魔が白い壁越しにこちらを伺っているみたいだ。

 少女はその目の動きが怖くて仕方なかったが、それ以上にこの奇妙な動きをする人物が一体何のためにこんなのことをしているのかに興味がわいてきた。

「それで、道化のおじさんは何故、皆を笑わせようとしているの?」

「だから言ったじゃないですか、お嬢さん。それが道化という存在だからですよ」

 さっきまで泣いていたのが嘘みたいに――実際に嘘なのだが――道化は再び笑顔に戻って、非常に愛想よく答える。

「お嬢さんが朝と昼と夜と、ついでに3時のティータイムにお食事をなさるように、夜になったらふかふかのベッドでお休みなさるように、道化は人々をお笑わせになるのです。そうしないと――」

 道化が急に真顔になった。唇を象った真っ赤なフェイスペイントは笑ったままだったが、それまで陽気に響いていた声が、真剣な色を帯びた。

「……そうしないと、どうなっちゃうの?」

「死にます」

「死んじゃうの!?」

「ええ、身体がばらばらになって、死にます」

「ばらばらに!?」

 少女はこれまで、読書に夢中になって夜更かしをしてしまったり、そのせいでお勉強中に居眠りをしてしまって罰としてご飯抜きになったことはあった。寝不足でお腹もぺこぺこで、死んじゃうかも、と感じなかった訳ではないが、それでも身体がばらばらになる感覚は無かった。

 いまはしっかりとくっついており、関節からくるくるとまわる手足。それが不意にばらばらにもげて、そこから噴水みたいに血があふれて。歩くことも泣くことも出来なくて。気が付けば、胴体と頭ももう大分遠くなってしまって……。

 身体がばらばらになって死んでしまうことを想像してしまった少女は、怖くなって眼をきゅっと閉じて身体をこわばらせた。身体をこわばらせている間だけは、手足がもげてばらばらになることはないだろうと、そんな気がした。

「……なぁーんちゃって!」

 くつくつくつ、というかみ殺すような笑い声を感じて少女が目をあけると、道化がいかにも面白いと言った顔でこちらを見下げていた。さっきまでの真剣な表情は嘘だったみたいに、ニヤニヤとした笑顔に戻っていた。

「……もうっ! おじさん、嘘付いたのね!」

「いやぁー、お嬢さんがあまりにも真剣な顔をするもんだから、ワタクシつい軽いジョークをとばしてしまいました。怖かったけど、面白かったでしょ?」

「面白くなんて無かったわ。怖かっただけよ!」

「そう言う割に、お嬢さん。頬がニヤケてますよ」

「えっ、嘘っ!?」

「ええ、嘘です」

「もーっ!」

 少女は道化とお話しするのが、少しだけ楽しいなと感じていた。嘘をついたりいじわるしたりしてくる男の子は周りに沢山いるけれど、こんな風に役者さんみたいに真剣な演劇でだましてくれる人なんていない。

「それで、本当は道化さんはなんで人を笑わせてるの?」

「人を笑わせないと、死んじゃうからです」

「死んじゃうの!?」

「ええ、身体がばらばらになって、死にます」

「ばらばらに! って、もういいわよ。おじさんのジョークは面白いけど、おんなじ冗談を二回言うのは手抜きだって思うわ」

 これは厳しい駄目出しですなー、と大袈裟に言いながら道化は空を仰いだ。それから、熟れすぎたリンゴの切り口みたいな褐色の瞳でちらりと少女の方を一瞥してから、

「死ぬのは、本当ですよ」

 と、呟いた。


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