Suburbia
昼下がりの事だ。警察官のリチャードは派出所で同僚たちと談笑していた。すると、派出所の目の前の大通りにポツンと一匹の老犬が立っているのが見えた。
ぞっとするほど黒い毛並み、千切れて半分になった右耳。それらの特徴は紛れもなくその老犬がアゼルである事を示していた。リチャードはすぐに同僚に断って外に出た。
彼の姿が見えると、アゼルはきびすを返して歩き出した。リチャードは慌てて後を追いかけた。
本屋の門を曲がって路地裏に入り込むと、リチャードはアゼルに声をかけた。
「アゼル、今夜もまたやるのかい? だんだんと間隔が狭くなっているような気がするが……」
アゼルは耳だけを傾けていたが、歩みを止めなかった。
「我々に負ける事は許されない。奴らも相当の数を揃えてくるだろうが、先日失った同志たちの仇は何としてでも討たねばならない」
リチャードは先日の戦いを思い出した。あれは本当に酷かった。敵の総数はこれまでとは比べものにならないほど多く、個々の力も高かった。対するこちら側はどれも年老いた者ばかりであり、全く歯が立たなかった。案の定、半数の兵が殺され、そのうちの3割は連れて行かれた。その中にはレイチェルも含まれていた。彼女はリチャードが以前から飼っていた小柄な雌犬だった。ある雨の日に拾って以来、ずっと大切に育ててきた。彼女の事を思うと、リチャードの胸は締め付けられた。
「レイチェルはどうなっただろう……」
リチャードが呟くと、アゼルは一瞬彼の方を見た。そして、低い声で唸った。その声からは深い悲しみが伝わってきた。
広場に着くまで2人はずっと黙ったままだった。2人が到着した時には既に20匹あまりの犬がそこら中を埋め尽くしていた。
「コリンから聞いたぞ、アゼル。今夜ばかりはこちら側の全滅も覚悟せねばならんのではないか?」
ドラム缶の横に陣取っていた白い犬が言った。凛々しい顔には微かに不安の色が見える。
アゼルは犬たちの中心まで来ると、立ったまま話を始めた。
「ティム、お前の言っている事も間違いとは言えんよ。我らはもはや昔のように若くはない。度重なる戦によって戦士たちの数も随分減ってしまった。おそらく今夜の戦いは我々一族の未来を決めるだろう」
周りを取り囲む犬たちからは深い嘆息がもれた。誰もが知っていた事実だったが、言葉にして言われてみるとよりいっそう重くのしかかった。リチャードは彼らを少し離れて見つめていた。
彼らがこの街にやって来たのは何時からだったかをリチャードは知らなかった。彼が物心つく頃には既に見慣れていたし、おそらく彼の親もそのまた親の代でさえそうだろう。今まで当たり前に存在していた何かがこの街から消えようとしているのだ。リチャードには他人事とは思えなかった。
「僅かな兵力を分散してはならない。今夜は配置を変えるぞ」
皆が消沈しているとはいえ、アゼルは実にテキパキと会議を進めていった。
「リチャード、ハイストリートを街の北端から500メートルほど遮断してくれないか。奴らとの交戦領域をなるべく狭めたい」
アゼルが言った。リチャードは無言で頷いた。
「たしかに、翌朝になって街中が我らの死体で埋め尽くされていたら適わんだろうからな」
ティムが冗談を言ったが、笑い声をあげる者は誰一人として居なかった。それどころか会議が終わるまで誰もが必要以上の事は喋らなかった。
「では26時に一旦ここに集合しよう。それまでは各自で十分に休息を取っておくように」
会議は終わったかに思えた。しかし、その場から立ち去ろうとする者はいなかった。
やがて、片隅にうずくまっていた年老いた雌犬が咳払いをした。床屋の娘に飼われているエルザだった。
「アゼルや、わしらはあんたの命令に逆らおうとは思わん。これでも自分たちの運命を受け入れているつもりだからね。だから、皆を代表してわしから一つだけリチャードに言わせてもらえんかね?」
アゼルは初めて微笑むと、頷いた。
「リチャード」
エルザはリチャードの方を見た。その目はすでに何も見えていない事を知っていたリチャードは返事をした。
「はい」
エルザはニコリとして声のした方向に首を曲げた。
「わしらはお前さんに一言感謝を述べたい。今まで人間としてわしらと対等に話をしてくれた者はお前さん以外に居なかった。話をしてくれただけじゃあない、お前さんはわしらの頼み事を沢山聞いて下さった。食事や住居、そして今夜のように戦のある夜は街の人間たちに気づかれないよう手配までしてくれた。わしらが今まで生きていられたのはお前さんのお陰だよ、リチャード。本当にありがとう」
リチャードは胸が詰まった。その場に集まっている犬たちの瞳には一匹残らずリチャードが映っていた。
「礼には及びません。私はただ……自然に、当然の事をしたまでです。私にとって皆さんはかけがえのないこの街の住人なんですから」
「ありがたいね、巡査部長どの」
ティムが言った。
「リチャード。今夜我々に何が起ころうと、お前たち人間には危害が加わらない事を約束する。これまでずっとそうだったように、これは我々の問題だ。同時に我々の運命でもある。だからお前も余計な手出しはするな」
アゼルが厳しい口調で言った。リチャードは頷いた。何度となく聞かされたセリフだった。本音を言えば、リチャードだって手を貸したかった。しかし、彼らと自分たちの間には決定的な距離がある。彼らの世界の出来事に無闇に介入するような事はあってはならないのだ。それが、この街で彼らと人間が共存し得た理由なのだった。
その晩、街中のスピーカーを通して緊急放送を行ったリチャードは机の前でぼんやりと外の暗闇を眺めていた。
市民への連絡は無事に出来た。これで今夜自宅から一歩でも外へ出る者はいないだろう。秘密は守られるわけだ。だが、どういうわけだか胸がざわつく。
リチャードは心を落ち着かせるために熱いコーヒーを飲んだ。今頃アゼルたちは決起集会を開いているはずだ。ティムはまた詰まらない冗談を言っているんだろうか。想像が膨らむにつれ、リチャードの胸はキリキリと痛んだ。
リチャードの頭上で、壁に掛かった時計の針が26時をさした。
「いよいよか。女子供だけでもこの街から逃がしたらどうだ?アゼル」
ティムがいつになく真面目な口調で言った。
「お前はここでの習慣がすっかりついてしまったようだな。我々には本来性別の概念などなかろう」
アゼルが言った。
「……ただの冗談さ」
ティムは目を細めて遠くの闇を見つめた。
「そろそろあれを動かしに行け。今まで長い間眠っていたから、すぐには動かんぞ」
「わかったよ。大丈夫だ、俺に任せておけ。こう見えても昔は整備士だったんだ」
その時、見張り役のダニエルが警告の声を上げた。
「北北西の空だ! どんどん集まってくる! アゼル、みんなを集めろ」
「わかった! ダニエル、お前も降りてこい。各自準備はいいか。我々はこれより全軍で奴らを迎え撃つ。最前列の者たちは私の後に続け。以降は間隔をとりつつ、左右に散開せよ」
アゼルの鋭い指示が飛んだ。皆はその声に従い、進軍を開始した。
人が消えた街は静まり返っていた。人間たちが戸締まりを徹底している証拠に、見える光は道の両端に等間隔に並ぶ電灯くらいだった。
アゼルは先頭を歩きながら鼻をひくつかせた。乾いた土とオイルの臭いにゴミの臭いが混じったような酷い臭いがする。この悪臭に悩まされるのも最後かと思うと、無性に鼻がそれを恋しがっている気がした。
「見えてきたよ……! あんなに沢山いるわ!」
後ろの方で誰かが悲鳴をあげた。アゼルは空を見た。インクを零したような真っ暗な空には無数の光る点が確認できた。
あれは斥候だ、とアゼルは思った。あれくらいなら自分たちでも何とか対応できる。問題はその後だ。
「来たわ! あれが母艦ね!」
ひときわ大きな光の塊が遥か頭上からもの凄い音と共に降下してきた。
「散開! 逆噴射の衝撃から身を守れ! 着陸と同時に戦闘開始!」
アゼルは叫んだ。
そして、全身を覆っている黒い毛皮を剥いだ。
すると、その中から隠されていた銀色の装甲が露出した。内部でカチリカチリと歯車のような細かい仕掛けが作動する音がしたかと思うと、胴体が垂直方向にスライドした。続いて前足が付け根の関節部の中に格納され、後ろ足が半分にパッカリと割れた。
変形を終えたアゼルはまるで別の生き物のようだった。爬虫類的な頭部には緑色の眼が光っていた。
かつての移民たちは皆がその本来の姿を現し、眼前に迫る敵が降りてくるのを待った。