美緒の場合 ⑥彼の過去
『俺達、別れたほうがいい。と言うか、俺が出ていくべきなんだ。
もっと早くそうしていたら、君に迷惑かけずに済んだのに…。』
恭介はうつむいてそう言う。小柄な身体がさらに小さく見えた。
『ね、そんなことより、本当の事を話して!あなたが誰に追われてるか、全部話して!』
美緒の必死の訴えに、恭介も重い口を開く。
まず、野口恭介は偽名であり樋口雄太が本名であると話した。
野口というのは、彼の幼なじみの名前、
『アナトリアム』と言うコミュニティで共に育ったのだと言う。
(アナトリアム?)
そもそもフレンチのシェフであった父親の勇次が、コミュニティの代表である神木に心酔。
仕事を捨て、妻の由希子とまだ赤ん坊だった雄太を連れてコミュニティで暮らし始めた。
今も食堂でまかないをやっていると言う。
神木はその技術を生かし、有機野菜・牛乳・卵・食肉など家畜や農作物を作るが、
口にした人々からは、今まで食べた事がない清らかな味と絶賛されていた。
その食物に魅せられ、まるで信者のように現世を捨てて、
コミュニティに人が集まってくる。
入会するときには、私財をコミュニティに差し出すのが掟だ。
山奥の広大な土地で、自給自足の共同生活をしていたが、
机上の学問より、自然に親しみ、作物を作る事の方が
有意義であると神木が考えているから、子供達は、義務教育の頃でも学校に行くことを禁じられ、
元教員であった会員が、勉強を教えていた。
たまに宿舎を囲う外壁から、家族を返せと高音声で聞こえてきた。
さらに、宿舎から脱走する会員同士のカップルもいたが、
山で遭難死したと聞かされる。
神木の教えに背いた者は、人知れず惨殺されるとの噂だった。
屍の肉は、家畜の餌にされると噂する者もいた。
そして高校卒業の年齢になると、みな外部に就職させられるのだ。
就職先は、アナトリウムの外部支援者の会社や店。
その子の適正に応じて、神木が指示して決められる。
雄太は、都内のフレンチの店。
父親譲りのセンスと料理の才能を評価されたのだ。
しかし彼の給与の7割は、コミュニティに入り、手元には小遣い程度しか
残らない。
でも外にでた雄太は喜々として働き、将来を有望視されていたのだ。
そんな時、店の上得意である佐伯の娘英里子と出会った。
英里子は、雄太に一目惚れし、異常なくらいの愛情をぶつけてきた。
彼女に会ったことが、彼の不幸の始まりだったのである。