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ブルー・ライト・ブルー

作者: 道人

私が主に駄文を書いているブログからの転載です。

仕事を終えて会社から外に出ると寒風が吹きすさび、反射的に身を堅くした。

俺は鞄を脇に挟み両手をコートのポケットに突っ込んで駅へと急いだ。

12月になった途端、街は赤と緑に彩られ、ショウウインドウには赤と白のオッサンが「買ってくれよ」と手招きしている。

バカ言うな、俺んちの家計はそんなイベントに付き合うほど余裕は無のだよと思う反面、愛妻と産まれたばかりの娘の笑顔が脳裏を過ぎる。

さて、どうしたものか・・・。

僅かばかりのボーナスの使い道は保留したまま愛妻に預けてあるし、それに関しての権限を俺は放棄した。

そう、俺は親父とお袋の恩に報いる為に、妻の両親に認めてもらう為に一切の我侭を捨てると決めたのだ。


電車から駅に降り立ち、改札を抜けた。

喧騒渦巻くアーケード街をとぼとぼ歩いて行くと中央に首が痛くなる程のどでかいツリーが往来の邪魔をしている。

俺は毎年、そのチカチカ光る電飾の先に鎮座している金色の星を見ると一瞬で熱く、痛い彼女の手の感触とともに五年前の記憶が蘇る。


「綺麗ね」

彼女の顔を横目で見ながら「そうだね」などとしたり顔で俺が言う。

「私ね、この青い電飾、好きなんだ」

無機質なLEDの白と青の光。

「そうか?俺はなんだか冷たい感じがする」

彼女は白い頬を鴇色に染め俺を見て眼を細めた。

「色にはね、温度があるんだよ。知ってた?」

俺はわざと知らない振りをして「へぇ、そうなんだ」と言うと彼女は得意げに話し始めた。

「ベテルギウスよりシリウスの方が熱いのよ」

俺はベテルなんとかの事が本気で分からなかったから「なんだよそれ」と思わず口走ると彼女は「既成概念や見た目で判断しちゃいけないってことよ」と言い放ち、俺の手を引いて歩き始めた。


俺はコートのポケットから左手を抜き出してその時の感触を確かめる。

「そういえば最近、あいつと手を繋いで街を歩いたことなんてないな」

俺はそう呟いて家族となった彼女の待つ家へと急いだ。


アパートのドアを開けると橙色の光と味噌汁の匂いが俺を包み込んだ。

「お帰りなさい」

台所に立っていたあかりはその場で身体を反らして俺を迎えた。

「ご飯先にしてね。マーちゃんお風呂に入れなきゃいけないから」

俺は着替を済ませた後一人でテーブルに座って夕飯を取っていると風呂場からはあかりとケタケタ笑う愛美の声が聞える。

「いい子ねぇ、マーちゃん、お風呂好き?そう、好きなんぁ・・・」

ガラス戸で仕切られている居間のテレビでは豪勢な料理に舌鼓している芸能人の姿が映しだされている。

俺は「なんだよ、そんなもん。こっちの方が美味いぜ」と呟きながら飯をかっ込んだ。

「キレイキレイになりましたねぇ、マーちゃん」

あかりが愛美を抱えて居間に戻って来ると床に敷いたバスタオルの上で産着を着せた。

「ねぇ、どお?」

ベビーベッドに寝かしつけながらあかりが俺に話しかけた。

「何が」

「鰤よ」

油の乗った鰤と出汁が染み込んだ大根は俺の腹を充分に満足させていた。

「美味かったよ。おかわりある?酒の摘みにもう少し欲しいな」

「それでおしまいよ」

俺は意気消沈して皿をシンクの底に置いた時、パックを包んであったラップに気づいた。

(天然 ブリ 630円)

「630円って、ひとパックか!」

「そうよ。私もびっくりしちゃった」

「びっくりするなら買ってくるなよ!」

俺は今日何の記念日だったっけ、と必死で頭の中を探りながら冷蔵庫から発泡酒を手に取った。

「買うわけないでしょ。お母さんよ」

「え?お袋?」

あかりはタンスに向かって手を合して眼を瞑っていた。

その上には蝋燭立と線香立があり、そして俺とあかりの最初の子供の位牌が立っている。

昼白色の蛍光灯が照らす居間に座った俺の前であかりは供えてあった紙包みを開いた。

「今日ね、お母さんが来てくれたの」

そう言いながら鯛焼きを一つ俺に差し出した。

「何しに」

と言っては見たが孫の顔を見に来る他に用事が無い事は分かっている。

天井からぶら下がってぐるぐる回っているやつ。

ガラガラ。妙に豪華なおしゃぶり。

お袋がやって来るたび何かしら物が増えている。

俺が居間中を見渡すと・・・。やはりあった、何の動物か分からない縫いぐるみ。

「まったく・・・。よっぽど暇なんだな、お袋。どうせなら現金置いてってくれりゃぁいいのに」

「そんなこと言わないの」

あかりは鯛焼きを尾っぽの方から一口食べて「あ、粒あん」と嬉しそうにもう一口噛んだ。

「あれ?ユウちゃん、頭から食べる派だった?」

そう言われた俺は思わず食べかけの鯛焼きに見入った。

「別に気にしたことないけど・・・大体、頭から食うな」

「ええ?そ、そんな・・・。可哀想でしょ・・・」

冗談なのか本気なのか知らないが、あかりは大げさに俺を非難する。

「鯛焼きに可哀想もクソもあるかよ。アホか」

「嫌よねぇ。だからO型は・・・・」

「鯛焼き食うのに血液型関係あるのかよ!」

俺は咀嚼した鯛焼きを発泡酒で流し込んだ。

「ああ・・・。あかり、お茶くれ・・・」

あかりはくすくす笑いながら台所に立った。

「あ、ごめん。ポットにお湯ないよ。ちょっと待ってね」

ガチャガチャ音を立てながらガス台の摘みを回す。

「最近、調子悪いのよ、これ・・・・」

爆発するように飛び出したガスの炎は若く、生きの良い青いそれではなく、メラメラと揺らめく赤い炎で薬缶の底に黒い煤を吹きつけた。

俺は「そろそろ買い換えるか」と言いながら居間を見渡し、思いにふける。

そう・・・。このアパートの中にはあかりの両親から贈られた物は何も無い。

愛美を抱くどころか、その寝顔さえ見てくれたことがないのだ。



水嶋あかりという名前は高校に入学した直後から噂で聞いていた。

容姿も性格も非の打ち所がなく男子はもとより、女子にも絶大の人気があった。

俺はいくら美味いラーメン屋でも並んでまで食いたいと思わない質なので、そんな競争率の激しい物件にのめり込むほどミーハーでは無かったのだ。

そんなものに囚われている暇があったら勉強していた方がましだとさえ思っていた。

いやいや、これは冗談ではなく本心だった。

何故なら「進学校に入るのなら大学まで行け。そうで無ければ学費は出さん!」という親父に対して啖呵を切った俺の意地だった。

それに一目惚れなど一切信じていなかった。

それは思春期に有りがちないわゆる恋と言う甘い蜜を味わいたいという幻想から生み出されるただの錯覚だと信じて疑わなかったのだ。

しかし、一見硬派を装っていた俺の心根がガラガラと音を立てて崩れ落ちたのはその年の体育祭の時だった。

俺は自分のノルマを終えて芝生に足を投げ出してグラウンドで繰り広げられる競技を見ていた時、一段と女子の黄色い声が沸き上がった。

体育祭のクライマックス、クラス対抗リレー、一学年の部。

アンカーの組の男子の中に一人だけ女子の姿があった。

すらりとした四肢に均整のとれた身体。腰まである黒髪はうなじで縛られ凛とした顔つきでやがて来るバトンを待っていた。

歓声はくぐもり、俺の視界はピントの合わないファインダーのようにぼやけてはいたが、あかりだけはくっきりと見え、たおやかな胸の膨らみ、妖艶な瞳、淡いピンクの爪と唇、その全てが細胞の全てに染み込むように俺を支配してしまった。

舌が口の中にへばりつくほど喉が乾き、頭蓋骨に木霊するほど心臓が高なる。

大量に生産された血液は毛細血管を膨らませ、破裂しそうな程に紅潮した。

地面を蹴って飛ぶように走るあかり。

それを目で追う俺。

ゴールしてクラスメイト達に祝福されているあかり。

立ち上がって拳を握っている俺。

その時何かが弾けた。

暗天の劇場に一斉に灯りが灯るように。

曇天の空が晴れ、一瞬で鮮やかな青が広がるように。

俺の世界は一変し、青春という言葉を辞書で引くまでもなく10代の全てがその瞬間に凝縮した。

それからというもの、俺はあらゆる場面であかりの姿を探した。

朝の通学路、バスで過ぎ行く停留所、校舎の玄関、廊下、職員室、美術室、音楽室、校庭、プール・・・・

たまに見かけても常に誰かが傍にいて話しかける事ができない。

それでいてあかりが一人のでいる時には酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせるばかりで声を発することさえ出来ない。

嗚呼、今日も空が綺麗だ、などと見上げた後俺は中庭にある名も知らない木の幹に頭突きを食らわした。




二年のクラス替えであかりと同じクラスになった。

半ば彼女との接触を諦めていた俺にとってはまさに一大事。

洗面所にあった親父の整髪料を付け、オーデコロンなどというものを初めて使ってみた。

制服はおろしたて、靴もピカピカ。完璧な自分に酔いしれながら颯爽と新しい教室に入って席に付いた。

あかりの席は入り口から近い列の前から三つ目。

あまり近すぎない事が俺を安堵させたが隣の席の女子の一言に全身が凍りついた。

「・・・?あれ?お父さんの匂いがする・・・」

その日の放課後、ドラッグストアに駆け込んだ事は言うまでもない。


同じクラスにいるのだから話しかける切欠はいくらでもある。

しかし、どうも、なんとも、金縛りは日中にでもありえるのだと非現実的な現象を自分自身に納得させようとしている自分が愛おしくまた、落胆している自分に気づき、ただ、だらだらと時間だけが過ぎていった。


時々誰かの視線を感じる時があった。

授業中、ふと頭を上げて見回してみる。前方斜め、入り口付近・・・。

まさか・・・。そんなことあるわけない・・・。

俺は自嘲して教科書に目を移し、あらぬ妄想を思い浮かべ、そして溜息をついた。


その年の文化祭。

クラスの出し物は結局喫茶店になったのだがアホの佐々木という奴のせいで、ケーキから焼そばまで出てくる得体の知れない店になった。

教室の飾り付けやそれぞれの担当、人員配置、その他もろもろ・・・

やる気のある奴、ない奴が話し合っても何にも先に進まない。

俺はいい加減頭に来て全ての段取りを半ば強引に決めてしまった。

そもそも言い出しっぺの佐々木が何もしないものだから相談事が全て俺のところにやって来る。結局俺は器具や食材の調達から調理までする羽目になり、文化祭の当日は目が回る程忙しく教室中を跳び回っていた。

午後の三時を過ぎた頃、漸く客が引けたので俺は有無を言わさず休憩に出た。

溜まったゴミを焼却炉に持って行き、校舎の裏側でゴミ箱に腰を掛けて一息付いたとき「お疲れさま」と声をかけられた。

振り向くとあかりがコーラを俺に差し出して微笑んでいた。

「あ、ありがとう・・・」

一口飲んだが何故か喉が締まって上手く流れて行かない。

「私ね、藤林君のこと勘違いしていたみたい」

「どんなふうに?」

「もっと不真面目な人かと思ってた」

「まぁ、真面目で無いことは確かだけどな」

俺がそう言うとあかりもオレンジジュースを飲んで空を仰いで更に続けた。

「そうよね。課外授業のときだって、球技大会のときだっていつもやる気なさそうで、授業中だってたいがい寝てるし・・・」

そう言えばこんなに近くであかりと話をした事なんてなかったな、そう思った途端心臓が高鳴った。

「でも、なんだか、見直しちゃった・・・」

「別に、大したことしてないよ」

「そんなことないよ。今日の模擬店だって藤林君が居なかったどうなってたか・・・」

「俺が居なくても誰かがやっていただろう?クラス委員や佐々木のアホが率先してやってくれてたら俺は口を挟まなかったさ」

「そうなの?」

「そう。ただ俺はやらなきゃ行けないことをやらないでぐだぐだしている奴らを見てると無性に腹が立つんだよ。ただそれだけさ」

それからあかりが俺に手を差し出すまでの数秒間はそれまで感じたことの無い暖かで喜びに満ちた空気に包まれていたようで、今思えばその数秒間が全ての始まりだったのだ。

その時俺は顔の火照りを隠すように地面を見つめていたが、恐らくあかりは俺を優しく見詰めていたのだろう。

「ねえ、知ってる?D組のクレープすごい美味しいんだって。行ってみない?」

「いや、でも・・・あいつらだけだと心配でさぁ・・・」

俺は最もらしい言い訳をしながらぐずぐずしていたがあかりはお構い無しに俺の腕を取った。

「さあ行こう。せっかくの文化祭だもの。少しくらいいいじゃない」

「しかたねぇなぁ」と呟やいた俺は心の中で勝利の雄叫びを上げていた。



弁当を食い終わった佐々木が机に突っ伏しながらだるそうに言葉を吐き出した。

「つまんねぇ、つまんねぇよ、毎日が・・・。なんかさぁ、面白いことないか?」

俺は紙パックの牛乳をズルズル音を立てて飲み干し、得意げに言った。

「生きているという実感を得たいなら簡単さ。誰かに恋すりゃいい」

佐々木は頭を上げ、野暮ったい眼で俺を見た。

「オエッ。なんだそりゃ。よくそんなキザな科白言えるなぁ・・・って言うか、お前、もしかして女できたんじゃないだろうな!」

「さぁな」

「惚けるな!誰だよ!」

佐々木の詰問を無視しながら席を立ち、教室を出て行く途中で友達と話をしているあかりにそっと視線を向ける。

あかりはそれを受けて話を続けながら友達に気付かれないように視線を返す。

その一瞬の動作で俺の身体中に「幸せ」が充ち溢れ、昼休みの喧騒さえも心地よく感じた。

他愛も無い問題を真剣に話し合い、他愛も無いすれ違いで真剣に喧嘩をし、花弁からこぼれ落ちる朝露をガラスのコップに集めるように互いの心を満たしあう。

好きだ、と言うことが絶対の正義となり、また、高校生活に置ける全ての優先事項になった。

送信したメールの返信に数十分掛かった事に腹が立ったり、些細な言動に怒った振りをして相手の気持ちを確かめたり、今の俺では到底出来ない行動もその当時は生活の全てであった。

指先が触れただけで顔を赤らめていた二人はやがて腕を組んで街を歩く。

時間が立つ程に膨れ上がった水風船に銀色の針を刺して欲しいと見つめ合う。

迸る欲情に罪の意識は無い。それは自然であり、父も母も同じ事を繰り返しているのだ。

青く静まった心理では言えないことも、紅潮し熱くなった頬を重ねてこぼれ落ちた言葉が恥ずかしげもなく身体に染みたとき、俺は、大人になったと錯覚した。

二人の前に立ちはだかるものがあっても絶対に克服できる。

二人の間に曇はなくその思いは絶対に壊れない。

二人の周りに気づかれた城壁を何人も侵すことは出来ない。

そうさ、そうに決まっている。甘く切ない二人の時間は永遠に続くと俺は信じて疑わなかった。

しかし、枕元で鳴いた虫けらが俺を谷底に突き落とした。

所詮夢想は夢想でしか無く、現実の重さはそれを遥かに超えていたのだ。


高校三年の春。

朝、教室に向かう廊下であかりの背中に声を掛けた。

「昨日どうしたんだよ」

別に用事は無かったが声が聞きたくて電話をしたがあかりは出なかった。

「え?うん。ごめん・・・」

振り向いたあかりの顔は青白く視線は他所に落としていた。

一瞬不可解に思ったがあかりを疑う気持ちは微塵も無く、俺は相変わらず呑気に仲間とふざけあった。

放課後。

帰り支度をしていた俺の袖をあかりが引っ張った。

「ねぇ。ユウちゃん。話があるの」

その時のあかりの、能面のような顔を見たとき、得体の知れない不安が俺を侵食し始めた。



若いからと言って何でも許される訳ではない。

愛し合っていると言う事があらゆる衝動とその結果の免罪符になる訳ではない。

それは分かっている。しかし、暴走と呼べるほどの欲望は時間や現実という概念を安々と飛び越え、二人が造った城壁内には永遠に続く幸福と言う名の夢想が実在として生きていた・・・、はずだった。

無言のまま辿り着いた人気の無い公園であかりの告白を聞いたとき、その城壁がただの張りぼてであったのだと俺は悟った。

「あのね、昨日、私、薬屋さんから、あれ、買ってきたの」

「あれ?」

並んで座ったベンチで俺はその後に及んでも女々しく夢想にすがりつこうとしていた。

「妊娠してるかどうか確かめる薬というか、器具みたいなの」

「そ、それで?」

と聞き返した俺は本当のバカだ。動揺を隠そうと髪型を気にする素振りを見せてはいたが裏返った声にあかりが気づかないはずはない。

「できちゃったみたい・・・」

初めて頭が真っ白になるということを経験した俺は「そうか」と言ったきり他の言葉が出てこなかった。

18才で父親になる?幸せな家庭を築く?ははは・・・いいね、それ。

でも学校はどうしよう。進学は諦めなきゃな・・・。

その前に、学校に知れたらどうなる?親が知ったらどうなる?

「で、でもさ、ちゃんと病院に行ったほうがいいと思うんだ、もしかしたら・・・」

もしかしたら?間違いであって欲しい?俺は何を言っているんだ。

「そうだね。うん。明日行く。でもね、説明書読んだら99%間違い無いって書いてあった」

「そうか・・・」

あかりとの間に重い空気が流れるのを始めて感じ、俺は適切な言葉を懸命に探していた。

俺の軽率な思い上がりで生じた取り返しのつかない重い現実。

俺が発する次の言葉であかりの人生の道行きを若干18才で決めてしまうかも知れない。

あかりの、人生・・・?俺は、どうなる。いや、これは俺の責任だ。俺は無意識のうちに子供ができたという事態をあかりに丸投げして逃げようとしていた。

このどうしようも無い情け無く、悔しい思いを昔感じたことがある。

小学生の時、母親の田舎に行った。

断崖から地元の子供達が次々と海に飛び込んでいる。

俺も高揚した気持ちのまま走り出し、いざ突端に差し掛かったとき、その余りの高さに足が竦んだ。俺の身体を風が突き抜け、寒くなり、その場から動けなくなった。

海から地元の子供達の笑い声が聞える・・・。俺は結局飛び込めなかった。

「俺、分からない・・・。何をどうしたらいいのか、分からない・・・。あかり、俺・・・」

そう呟いたときのあかりの表情を見るのが怖くて、俺は俯いたままだった。

「うん。私も分からない」

いや、あかりはもう決心している。その淀みない声を聞いて俺はそう思った。

「私がどうして藤林優治という人を好きになったか分かる?」

頭を上げるとあかりは東の風に揺らめく髪を耳に掛けて遠くを見詰めていた。

「優しいところ。心に決めた事を一生懸命するところ。そして、正直なところ」

あかりは年端も行かない子供を見るような優しい瞳で俺を見た。

「ユウちゃん前に言っていたでしょう?何かを選択するときは必ず辛くて苦しい方を選ぶって。だから私もそうする」

その言葉は親父の受け売りだ。だから俺は一番嫌な勉強をして一番難しい高校を選んだ。そしてその選択に間違いは無かった。もし一番楽な方に逃げていたらあかりと出会うことはなかったのだから。



翌日あかりは産婦人科に行った。俺はその間向かいの喫茶店でコーヒーの苦さを思い知りながら苛つくほどゆっくり進む時計を見ていた。

やがて病院から出てきたあかりは静かに俺の前に座り、首を少し傾げて微笑んだ。

二通りの答えに対する二通りの言葉を用意していたはずなのに俺はコーヒーを飲み干したあと「そうか・・・」としか言えなかった。

「今夜お父さんとお母さんに全部話そうと思うんだけど・・・」

親の庇護のもとに暮らしている俺たちは遅かれ早かれそうしなければならないと分かっていた。ことに、あかりが子供を産むと決心しているのなら尚更だ。

「じゃぁ、俺も一緒に行く」

そう言った俺の言葉に含まれている迷いがあかりに伝わったのか

「大丈夫だよ。私一人で・・・」と俺の申し出を拒絶した。

喫茶店を出て暫く言葉少なに歩いたあとそれぞれの家路に着いた。その道すがら、俺は自分の心の中を探っていた。

何れにしてもあかりの両親とは会って話をしなければいけない。でも何の話をする?けじめをつける為に結婚の許しを乞う?そうするのが筋だ。そうだそうしなければいけない。しかし、俺は本当にそれを望んでいるのだろうか・・・・。そもそもあかりが堕胎することを罪なことだと思っていたとしたら?その可能性は?いや、それは無い。絶対に無い。何故そう思う?もしそうだとしたらあかりは俺のことを本気で好きでは無いということだ。そうさ、あかりは好きでもない男に抱かれるような女ではない。そんな淫らな女じゃないんだ・・・。だとしたら、俺は・・・。

俺は立ち止まり、川原の土手の上から若草の向こうにある太陽に照らされた水面を見下ろしていた。

だとしたら、俺はいったいなんなんだ。子供ができたと言うことに慌てふためいて、あかりの両親に会うことに恐怖すら感じている。俺の方こそ本気ではないのかもしれない・・・。俺は・・・。


自宅に帰り、夕食を済ませた後、俺は親父とお袋を居間に呼び出した。

俺は俯いて正座したまま水島あかりという女性を孕ませたと告白すると、お袋は絶句して微動だにせず、親父はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。

「ガキがガキつくってどうするんだよ・・・」

親父がそう言って暫く腕を組んで眼を瞑っていた。

俺は親父の次の言葉を待ち続け、お袋は大きく溜息をついてお茶を入れ始めた。

親父は湯飲みを啜って一息着いた後極めて冷静に話し始めた。

「それで、お前はどうするつもりだ」

「どうするって・・・、あかりは産むつもりだし、俺にも責任があるから、その方がいいと思う」

俺の言葉に親父は眉をひそめた。

「俺はお前がどうするつもりかと聞いたんだ」

「・・・。結婚する・・・」

親父は湯飲みをテーブルに叩きつけて更に聞いた。

「学校はどうする」

「学校は・・・辞める。辞めて働くよ」

「へぇ、そうか。じゃぁ俺との約束は反故にするってわけだな」

「仕方がないじゃないか。悠長に大学なんていってらんねぇよ・・・。子供できちまったんだからさ・・・」

「それはお前の本心か」

その言葉に頭を上げると親父は何時もにも増した鋭い眼で俺を睨んでいた。

「そうさ。それ以外無いだろう。他にどうすりゃいいんだよ」

親父は手のひらで顔を擦り、大きく息を吐いた。

「じゃぁ、先方の両親には何時その話しをしに行くつもりだ。いや、そもそも妊娠している事を知っているのか?」

俺はまた下を向いて呟くように答えた。

「多分・・・。今日はっきり分かった事だし、あかりが今頃親に話しをしてると思う・・・」

そういい終わらないうちに俺の顔を掠めて湯飲みが飛び、親父はテーブルを蹴りつけ俺に飛びかかって来た。

「てめぇ!いい加減にしろ!御託ばっかり並べやがって!」

親父は俺を押し倒し、襟首を締め上げて怒鳴り散らした。





「おい!優治!お前いつからそんな弱い人間になった!」

弱い?俺が?

「現実から目をそらしてびくびくしやがって!情けねぇ・・・。お前はお前の女をどう思ってる!」

お、俺は、あかりを・・・

「お前はなぁ、本気で好きになっていねぇんだよ!お前見たいなバカに女が出来てただ有頂天になってるだけなんだよ!性欲が満たされりゃそれでいいんだろ!」

「そんな、俺は・・・」

「違うとは言わせねぇぞ!お前の言い草、その面!女ぁ抱けばガキができるくらいそこらの野良犬でも知ってらぁ!それをなんだ!今更女のせいにして体裁ばかりつくろって逃げようとしやがって!」

親父は強引に俺を引きずり起こして思い切り顔面を殴りつけた。

俺が食器棚まで吹っ飛ぶと家中にガラスと食器が割れる音が響いた。

何時もであればお袋が血相をかいて親父を制するのだがお袋は座布団に座ったまま侮蔑するような眼差しで俺を見ていた。

蛍光灯を背にした親父は息を荒くして俺を見下ろしている。

「図体ばかりでかくなりやがって、恥を知れ!」

俺はあかりを本気で好きではない?俺は逃げてる?そうじゃない、そうじゃなくて、ただ、俺を侵食している寂寞とした得体の知れない不安に囚われているだけなんだ。でもなんだ?その不安は何だ?一体何だ!

「違う!俺は・・・。だって、あかりが・・・」

「まだ言うか!この野郎!」

親父はまた俺の胸ぐらを鷲掴みにして引っ張り上げるとそのまま反対側の壁に投げつけた。

「お前は女がガキを産むと言ったから責任を感じているんだろぅ!女が堕すと言ったらどうだった!おい!どうなんだ!俺が言ってやろうか、お前はほっとして侘びの言葉のひとつも掛けて、何にもなかったようにまたその女抱くんだろう!」

俺はその言葉に殺意さえ感じた。それは俺自身ではなくあかりが陵辱されていると感じたからだ。俺は頭に血が登って親父に襲いかかった。

「あんたに何が分かる!あかりの何が分かるって言うんだ!」

「うるせぇ!ガキが!」

俺はいとも簡単にねじ伏せられ床に腹ばいにさせられた、親父は俺の髪の毛を引っ張りながら更に怒鳴った。

「じゃぁお前はなんでここにいる!なんで女と一緒に行かなかった!女が来るなと言ったからか?ええ?」

俺は何も言えずただうめき声を上げていた。

「お前のその情けねぇ面見たらそう言いたくなるさ。いいか!優治!」

お袋は傍らで割れたコップや皿を拾い集めていた。

「一番泣きたいのは誰だ!一番心細くて誰かにすがりつきたいのは誰だ!男は種植え付けりゃ気軽なもんさ。でもな女はそうはいかねぇんだよ!生半可なお前のせいでお前の何十倍も苦しんでるんだよ!それが分からなかったらお前は野良犬以下だ!ガキつくった事を後悔してるなら土下座して堕してくれって頼め!最低の人間のやる事だがその方が潔いいさ!それも出来ないなら今すぐ首くくって死んでしまえ!」

畳の目が見える。俺が味噌汁をこぼしてできたシミがはっきり見える。

俺の心を奪い去った体育祭でのあかりの笑顔。

俺とデートして始めて手を繋いだあの日。

互いの感情が絡まり合って爆発しそうな身体を抱きしめあったあの時。

あれは嘘だったのか。嘘?違う!

俺はあかりから何かを貰った。得体の知れない不安の中でも、今でも貰ったその何かは俺の中で確かに燃え続けている。

俺は親父を振り払って家を出て、よろめきながら自転車に乗り、あかりの家に向かった。



親父に殴られた頬は火照り、風に晒されても汗は更にシャツを濡らした。

あかりの親に会うのであれば身なりを整えるべきなのだろうがその時の俺はそんな当たり前の事さえ思い浮かばなく、ただ自分の浅はかさとあかりに謝りたいという気持ちでいっぱいだった。

自転車から降りた俺は呼び鈴を押して息を整えた。

暫くして玄関のドアが開く。

あかりの母親は息を飲んで俺を見詰めた。

「こんばんは・・・。俺、藤林・・・・」

言い終わらないうちにあかりの母親は「さあ、あがって」と屋内に誘った。

敵意が感じられない応対に少し安堵したが、リビングのドアを引いた途端張り詰めた空気を感じ、上座に座っている父親の存在に俺はたじろいだ。

俺に気づいたあかりは無言で潤んだ目で助けを求めた。

母親に導かれるまま俺は椅子に座る。

正面のあかりは唇を噛んで俯き、斜め向かいの父親は獲物を狙う鷹のような眼で俺を見定めた。

あかりの母親が「どうぞ」と場違いに思えるほど優しい口調で氷が入っているお茶を俺の目の前に置いた。

自転車で駆けてきた俺は酸欠と乾きで結露したグラスを握りしめて一気に飲み干したい衝動に駆られたがそれを躊躇させ、思い止ませる程の父親の威圧感に身体も思考も止まってしまい、俺は固い唾を飲み込むのが精一杯だった。

「君は誰だ」

ここに座っていることがその答えなのに、あえてあかりの父親はそう問いかける。

「は、始めまして・・」

俺は自分の名を名乗ったあと次に何を言うべきか思案し思わず侘びの言葉を口に出してしまった。

「この度は、すみませんでした」

「何故謝る。君は間違った事をしでかしたと思っているのか」

「い、いいえ、そんな訳じゃなくて・・・」

「どういう訳なんだね」

俺は口籠り本来言うべき事に辿りつかないでいるとあかりの父は見限ったように冷たく言い放った。

「もういい。帰りなさい。これは私達家族の問題だ。君には関係ない」

「関係ないって、どうして・・・」

あまりの言い様に俺は唖然としその訳を問いただした。

「もうこの話しは終わったんだよ。あかりにはおろさせる」

俺はその言葉に動揺しながら目の前のあかりを見た。

「本当なのか・・・、あかり」

あかりは身動ぎもせず俯いたままだった。

「そういう事だ。君も学生なら本分をわきまえて勉学に励みなさい」

立ち上がった父親を俺は必死で引き止めた。

「ちょっと待って下さい!」

「なんだね。私は帰れと言ったはずだ」

「おろすって、あかりがそう言ったんですか」

「そうだ。今私と約束したんだ。そうだね、あかり」

父親の問い掛けにあかりは身を堅くしたまま返事をしない。

「嘘だ!あかりがそんなこと言うはずがない!」

父親は不機嫌な表情を顕にし、拳を握りしめていた。

「何度も言うようだが、これは家族の問題だ。部外者は黙ってなさい」

俺は立ち上がり猛然と食って掛かった。

「うるせぇ!何が家族の問題だ!俺は部外者じゃねぇ!俺とあかりの問題でもあるんだ。それをなんであんたが勝手に決めるんだよ!」

「黙れ!」

父親が大声を張り上げた時冷静を装っていた表情は崩れた。眉間に皺を寄せた顔は紅潮し、俺を射殺すかのように眼光は更に鋭くなった。




「だったら聞こう。産まれて来る子供をちゃんと育てる自信はあるのか?残り少ない10代を子供の為に捧げる覚悟はあるのか?」

「そ、それは・・・」

俺が答え倦ねいているとあかりの父親は更に畳み掛ける。

「出産費用はどうする。幼稚園に通わせて、小学校、中学高校、大学!その金はどうする」

「どうするって、働くに決まってるだろう」

「働く?君はまだ学生じゃないか?」

「辞めるさ」

「そうか、それも良い判断かもしれない。だけどね、大学を出ても就職が儘ならないこのご時世で高校中退の輩を採用してくれる会社があると思うかね?もしあったとしても手取りで月幾ら貰えると思う。10万?15万?真面目に働いていても大卒並みの給料など貰えはしないんだよ」

父親は自分の熱気を冷ますように深い溜息をついた。

「君達は世間を知らない。若いと言うだけで何でも思い通りになるのなら誰も苦労はしないんだよ。私は自分の娘が一刻の間違いで惨めな生活を送って欲しくはないんだ。君もそうだ。今なら若気の至りで済むだろう。子供を育てると言う事がどんなに大変な事か理解しなさい」

10代20代と恐らく一番楽しい時間を子育てに忙殺される。

将来への不安。俺の身体を侵食する得体の知れない不安。

俺はあかりの父親に対する反論を見出すことができずその不安に打ちひしがれた。

俺はあかりを見た。

あかりは震えるように俯き身を堅くしたままだった。

あかりは多分、産みたいと思っている。

そう、多分、俺の子供を望んでいる・・・。

「あんたの言う通り、俺は何も知らない。だけど、これは俺とあかりが決めることなんだ。あかりが産みたいと言うなら俺は・・・、いや、俺も、それを・・・」

「貴様!まだ言うのか!」

天井を震わす程の怒号と共にまるで烈火を纏う不動明王のようにあかりの父親は俺に突進して襟首を締め上げた。

「言いかよく聞け!あかりはこれから自分に相応しい人生を歩んで本当の幸せを見つけるんだ。お前のような子供にかまっている場合じゃなんだよ!」

俺は父親の前に屈した。身体が石になったように身動きが出来なくなくなり、震えた。

子を育て、家族をつくり上げた男の圧力。それは俺が幻想で築いた張りぼての城壁などお呼びもつかない堅城鉄壁な聖域を命がけで守ろうとする父親の確乎不抜な精神。

力ずくのケンカをしたらこの人を打ち負かすことは簡単だろう。

しかし、勝てない。今の俺では到底、勝てない・・・。

俺の全てを見通し、居抜き、切り裂くその眼光に耐えられず、俺は視線を逸らしてしまった。

その時、あかりが叫んだ。

「お父さん!」

僅かに流れていた時間が止まった。

父親も俺も唇を噛んで硬直しているあかりを見やった。

「私、やっぱり、産みます。この子を、産みます」

やがて頭を上げたあかりは唇を震わせ、涙が零れ落ちそうな瞳にしっかりと力を込めて父親を見据えた。

「私、今までお父さんの言う事を疑った事はありませんでした。だって間違いなんて無いって思っていたし、それに・・それに、お父さんの事、大好きだし・・・。でも、今度だけは許して下さい。だって、ユウちゃんの事、お父さんより、好きになったんだもの・・・」

大きな涙が二つの瞳から溢れ、頬を伝ってテーブルに落ちた。それでもあかりは波打つ胸を必死で抑えながら父親に語りかけた。

「この子をおろしたら嘘をつくことになるんだよ。ユウちゃんは私に今まで一度も嘘なんてついた事なかった。私も嘘をつきたくない。ユウちゃんにも、私にも・・・。お父さんにも・・・」

俺は半ば呆然とあかりのその姿を見ていた。

あかりの本当の気持が伝わった。俺にも、恐らく、父親にも。

それと同時に俺の心が更に萎え、暗闇の淵に叩き落とされたように惨めな気持ちになった。

あかりは、愛してやまず、口答えも出来ない程に尊敬している父親に途轍もなく大きな局面で自分の本当の気持を伝えている。

水島あかりという女性の凄さを思い知った。それに引き換え、俺はなんて情けない男なんだ。

あかりの母親が隣に座り、肩を抱いてハンカチを差し出した。

あかりは奥歯を噛みしめて涙を拭った。

父親は俺を突き話し、脱力したように背中を向け、息を整えてこう言い放った。

「好きにしろ!しかしな、本当に産むのだったらお前はもう私の子供じゃない。この家から出てゆけ。二度と敷居を跨ぐんじゃない!」


それからあかりは僅かな荷物を抱えて気遣う母親を振りきって家を出た。

俺の家に向う道中、あかりは自転車の荷台に腰を掛けて俺の腹を力強く抱え込み、背中に顔を埋めていた。


俺の家に付くとあかりは親父とお袋にぴんと背筋を伸ばして頭を下げた。

憔悴してはいるが凛としたその態度に俺は感嘆する気持ちと同時に恐怖さえ感じた。

親父とお袋はそんな俺を無視するかのように諸手を上げてあかりを迎え、新しい家族に歓喜した。

その夜、俺のベッドであかりは横になり、俺は隣に引いた布団で暗い天井を見詰めていた。

夜中。月明かりが差し込んでいた。

空白の意識のなかでまどろんでいたときすすり泣く声が聞える。

俺は起き上がって横向になっているあかりの肩を抱いた。

あかりは俺の手を痛くなる程握り、絞り出すように喉を震わせた。

「・・・。ごめんなさい・・・。ごめんなさい・・・お父さん・・・」

俺は一体何者なんだろう。俺はあかりに何をしてやれるんだろう。俺はこの先、どうなるんだろう・・・。

元気づける言葉も投げかけられないまま、俺はあかりの傍にいてやる事しかできなかった。



それから暫くしてあかりは学校を辞めた。

お袋とあかりの母親とは連絡を取っていたらしく退学の手続きは滞りなく終えた。

母親が夫に内緒で俺の家に来て「あかりのこと、どうかよろしくお願いします」と頭を下げたとき、あかりとごく親しく口の堅い女友達に呼び出され「あかりを泣かせたら承知しないから!」と言われたとき、俺は大人の顔を見せてはいたが俺を蝕む正体不明の何かに内心戦いていたのだった。

自分の中から自分を急き立てる衝動が湧いて来る。

それは手足を震わせ身体の芯を凍りつかせるような不安から逃れたいという本能的な思考に駆られただけなのかも知れない。

「やっぱり俺、学校辞めて働くよ・・・」

しかし親父は首を縦には降らなかった。

「じゃぁ、進学しないで就職する」

それも駄目だと言う。

「なんでだよ。俺だってあかりの為に何かしてやりたいのに・・・。俺だけ温々と学校なんかに行ってらんねぇよ」

「うっせぇんだよ。お前は黙って俺との約束を果たせ。金の事なら心配するな。ガキが3人できたと思えばなんのことぁねぇよ」

何の取り柄もないこの俺が職を求めたところで高が知れている。

あかりの父親とのやり取りが無かったら俺は焦る気持ちのまま突っ走っていたかも知れない。

そしてなにより、あかりの姿そのものが逸る俺の心を抑えつけた。

家に帰ることを許されず、自ら秘密を証さずに学校を辞め、全ての退路を断たられたのにもかかわらず、変わらない態度で俺に接してくれる。

お袋と二人で台所に立つあかりはずっと昔から俺の家にいたかのようにはしゃいでいた。

月明かりが注ぐ俺の部屋で父親に謝りながら泣いたあの日以来あかりは泣き言も言わず、ましてや涙の一つも見せた事はない。

精神的にも経済的にも自立出来ないでいた俺に対して何の蟠りも無く、寧ろ子を産むと言うことが自分の幸せの全てであるかのように喜びに満ち溢れた笑顔で俺を包みこんだ。

「ねぇ、見て」

ある日学校から帰って来るとあかりは俺の前でくるりと回った。

「髪、切ったのか」

腰まであった髪が肩の当たりまで短くなっていた。

「似合う?」

「どうしたんだよ、いきなり・・・」

「なんかね・・・、うん、気分転換」

あかりはもう一度「どう?」と言いながら俺の首に両腕を回して言葉を欲した。

「似合ってるよ」

俺もあかりを引き寄せ、抱きしめて感じた体温。落ちて行くような安らぎ。

「ありがと」

そう言ってあかりが離れた時俺は居たたまれない不安に駆られ、始めて孤独を感じた。

何かをしなければいけない。呑気に学校に行っている場合じゃない。

何かをしなければ俺を蝕む得体の知れない不安が俺を飲み込んでしまう。

俺は親父に「必ず大学には行く。そのかわり・・・」と無理やりバイトする事を承諾させた。

少なくとも忙しさの中で身体を動かしている時には不安や孤独に苛まれる事は無かった。

その代わりあかりと過ごす時間は減った。

学校から真直ぐバイトに行き、夜家に帰ると食事もそこそこに受験勉強に勤しむ。

同じ屋根の下で暮らしているのにあかりとは日に僅かしか会話をしない毎日が始まった。

その間、どんなにあかりが寂しい思いをしていたのかなどと思う余裕も無く、俺は俺自身の不安を掻き消す事だけに集中していたのだった。


高校生最後の夏休みが終わり早朝の空気が秋の気配を帯び始めた頃、俺が玄関で靴を履いていたときあかりがエプロンを畳みながぽつりと呟いた。

「ユウちゃん、今日も遅いの?」

「ああ・・・。バイト、忙しくてさ」

「そう・・・」

あかりは眼を伏せ、顔に影が差しているように見えた。

「今度の日曜、バイト休みだから二人でどっかに行こう」

「うん」

俺の言葉に元気を取り戻したのか、あかりは何時もの笑顔で俺を見送った。



その頃にはもうあかりの居ない教室で黒板に向うことに違和感を感じなくなっていた。

その感覚は俺だけでなくクラスの皆がそう感じていただろう。

あかりが退学した直後は流説が飛び交い、事実をおおっぴらに言えない俺は怒りに震えたり、或いは臍を噛むような思いに打ちひしがれた。

しかし一ヶ月も立たないうちに恐らくクラスの皆が知る事となり、それからというもの俺とあかりを蔑んだり嫌味をいう者も無く、知らない振りを突き通してくれ、寧ろ無言でエールを送ってくれていた。

何時だったか、佐々木が突然俺の家にやって来て「これ、叔母さんちにあったから貰って来たよ」と紙オムツを置いて行ったことがあった。

俺は「気が早い奴だな」と憎まれ口をたたいてはみたが袋にレシートが入っていて、明らかに自分で買ってきた代物だと分かったとき、俺は有り難いと思う一方でその重さに大きく溜息を付いた。

二学期になった途端、クラスの雰囲気が変わった。

自分の進路が最優先事項であるし、俺やあかりに構っている余裕はなく受験のことで頭がいっぱいなのだろう。それはそれで有り難いことだった。が、しかし、教師が発する言葉とシャーペンが紙を擦る音しかしない空間の中にいると俺の内部でじわじわと黒いものが侵食してくる。

あかりの決断は本当に正しかったのだろうか。あかりは本当に幸せなのだろうか。

10代、20代とあかりと同じ年頃の女性達は洋服や髪型や靴や身に纏うアクセサリーや、異性や輝かしい未来や、そんなものに心を踊らせるはずなのに、あかりは一番楽しいはずの時間をストレスや後悔で忙殺されるのではないのだろうか。

後先考えず、欲望に身を落とした俺のせいであかりの人生を台無しにしてしまったのだとしたら俺はどうやってあかりに償えばいいのだろうか・・・。

確かにあの時、愛する父親に言った言葉は本当だったろう。だけど人の心ほど移ろうものはない。昨日正しいと思ったものなど時間が立てば迷い、違う選択肢に心が揺れ動く。

(男なんて種植え付けりゃ気楽なもんさ・・・)

親父が俺に言った言葉が響く。

そうだ。俺の胎内には何も居ない。あの時の匂いや肌の温もりと突き抜けるような快感。

そんなどうでもいい動物としての記憶が残っているだけだ。

しかし、あかりは違う。あの時、父親に言った言葉が本当だとしても、その後自転車に腰を掛けて俺の背中に顔を埋めていた時に、俺のベッドで泣いていた時に、既に後悔していたとしたら?それでもあかりは後戻り出来ず家にも帰れず俺に縋りつくしかなかった。

あかりの胎内には脈々と新しい生命が育っている。例え後悔していたとしても、俺の事を嫌いになっていたとしても、後悔する事さえ許されず女としての本能のままに笑顔を作っていたとしたら、俺はその笑顔にどう酬いたらいいのだろうか。

「おい、優治」

昼休みに佐々木が弁当を食いながら無粋に話しかけてきた。

「なんだよ」

「お前、もう決めたか」

「何言ってんだよ。進学するって言っただろう」

「違うよ」

佐々木はにやけながら小声で言った。

「名前だよ。お前の子供の」

俺はすんでのところで悲鳴を押さえつけ「決めてねぇよ!」と佐々木を睨みつけた。

「マジかよ。俺が考えてやろうか」

「うるせぇ。なんでお前なんかに・・・」

佐々木を罵倒しようとしたその時、俺の携帯電話が震えた。



お袋からの電話を受け取った時俺は全く事情が掴めず、担任に急用が出来たので早退すると告げ、急いでタクシーに乗った。

お袋の叫んだ言葉をひとつずつ繋げて見る。

あかり、赤ちゃん、市民病院・・・。

かかりつけの病院ではなく何故市民病院なのか釈然としない。

産気づいて救急車で運ばれたのか?

いや、予定は4ヶ月も先のはずだからそんなはずはない。

俺は最後に残った可能性を必死で腹の中に押し込め、法定速度を保つタクシーに苛立っていた。

タクシーはやがて市民病院の敷地に入り、玄関へと続く長い傾斜を登った。

俺は投げ捨てるように金を払い、産婦人科のある病棟へと走った。

ナースステーションに足を止め、息を整えていた時お袋が俺の手を握った。

「あかりは?」

俺の問い掛けにお袋は目を伏せ、一瞬の沈黙の後、椅子に座れと俺の腕を引いた。

「優治、落ち着いて聞きなさい。残念だけど、赤ちゃんは・・・」

そうか。やはり、そうか・・・。

俺が到着する少し前に処置は済み、あかりは見舞い客が行き交う長い廊下の向こうに居る。

俺と出会い、俺の子を孕み、父親に逆らい、子供を産む事を選択し、それがこの先続く途方もなく長い時間の幸せの糧となるはずだったのに、その道が閉ざされ、突然断崖の底にたたき落とされたのだ。

あかりはどんな気持ちで病室のべッドに寝ているのだろうか。

きっと泣いているに違いない。

俺よりあいつの方が泣き虫なんだ。

何時だったか、映画を見に行った時、俺が眼の玉に力を込めて涙を我慢していたのに、あかりは俺の横でハンカチを絞れるほど泣いていた。

でもあかりは強い女なんだ。

大丈夫さ。きっと、大丈夫さ。

映画の後、ファミレスに行って、俺はベーコンとトマトのスパゲティをすするのが精一杯だったのに、あいつはでっかいハンバーグとサラダとリンゴが飾ってあるプリンサンデーをたいらげて「ユウちゃん、今度の期末テスト大丈夫?」と赤い目で言った。


ああ、大丈夫さ

本当?

本当。分からないところはあかりに教えて貰う。

どこが分からないの?

分からないところ?全部。

全部?

そう、何から何まで。

ほんと、ユウちゃんって・・・

俺って?

ほんと、

ほんと?

バカね。

そうなんだ。俺って、バカだろ?

うん、そうね。バカだけど・・・


いや、俺はバカだ。あかりの事を全て分かったつもりでいて全然分かって居なかったのだ。

「優治!あんたねぇ!」

お袋が突然大声を出して俺の太股を強く鷲掴みにした。

「あかりちゃんを悲しませたら、母さん、許さないからね!」

親父に殴られた時には何時も慰めてくれるお袋が、それまで見たことも無い鋭い瞳を閏わせて俺に言った。

「あかりちゃん、あんたの名前を言いながら、ずっと泣いてたのよ」

そうか、あかりはこんな時に、俺に会いたかったんだ。

18年間育ててくれた両親より、あの、父親より、俺に、会いたかったんだ。

俺は立ち上がり、ふらふらと歩いてあかりが居る病室に行った。

ドアのノブに手をかけたとき俺の頬を涙が伝った。

それは温くて気持ちの悪い涙。決して、流してはいけない涙。

俺はその時、その意味を考える余裕もないままにドアを開いていた。



病室の中に入るとあかりは憔悴した面立ちでベッドに横たわっていた。

俺に気付くと直ぐ様視線を逸らし、窓の方を向いて右手で顔を覆った。

どういう言葉を掛けて良いのか分からないまま椅子に座り、手を握るとあかりは俺の手を強く握り返し、肩を震わせて嗚咽した。

「大丈夫か」

漸く絞り出した言葉にあかりは大きく頷いた。

一体何が大丈夫だというのか。曖昧なものの言い様に俺自身困惑し、もっと気の利いた科白は無いものかと探している時、あかりは俺に何かを伝えようと必死で嗚咽を押さえ込んでいた。

「いいよあかり。今は何も考えないでゆっくり寝てりゃあいいんだから・・・」

そう言った俺の胸は何故か嫌悪感で一杯になり、あかりに対する自分の存在を疑った。

俺は何時からこんなに偉くなった。俺はあかりにこんな事を言える身分なのか。

俺の頬に流れた温い涙はもう乾いている。

(あかりちゃん、あんたの名前を言いながら、ずっと泣いてたのよ)

そうだ。お袋が言ったその言葉に俺の胸は軽くなり、侵食していたはずの得体の知れない不安が何処かへ消えた。

「ユウちゃん・・・、ユウちゃん・・・」

あかりは更に俺の手を強く握った。

「ユウちゃん、ごめん。私のせいで、赤ちゃん、死んじゃった・・・」

私の、せい・・・。何故・・・。

「何言ってるんだよ。あかりが悪いわけないじゃないか」

あかりは大きく首を横に振った。

「私、もしかしたら、赤ちゃんなんて・・・」

顔を覆っている手は涙で濡れ、寄せてくる波は更に大きく胸と肩を揺らした。

「私はただ、ユウちゃんの側に居たかっただけなんだよ・・・。ずっと、側に居たかっただけなんだ・・・。だから、赤ちゃん・・・・」

あかりは俺の手を放し、両手で顔を覆った。

「ユウちゃん、私のこと・・・、私のこと、嫌いにならないで・・・・」

俺は呆然としながらあかりを見ていた。

俺があかりを嫌いになる?何故・・・。何故!

俺が流した気持ちの悪い温い涙の意味を悟ったとき、俺は俺自身に殺意を抱いた。

込み上げて来る憤怒の念はどうしようもない程に俺を苛立たせた。

俺は泣きじゃくるあかりから目を逸らし、静かに病室を出た。

ドアを背にした俺は暫く床を見詰めていた。

沸々と湧き上がる自分自身への怒り。

拳握りながら階段の踊り場まで駆けると、俺は喉が裂ける程に怒号を発しながら壁を殴りつけた。

そうさ。俺が流したのは悲しみの涙ではない。ましてやあかりへの憐れみでもない。

身を締め付ける程の緊張から開放された時や途轍もなく重いプレッシャーから解き放たれた時に流れる無意識の涙。

つまり俺はただ単にほっとしただけなんだ。

あかりが俺の名前を言いながら泣いていたと聞かされ、あかりが俺を見限って居なかったと知り、安心しただけなんだ。

きっと俺は俺の知らない奥底でずっとあかりを裏切り続けていたに違いない。

あかりに憐憫の情をかけ、俺自信に罪を被せる振りをし、その裏側では明るく楽しく甘い未来と言う夢想に逃げようとしていたのだ!

俺は奇声を上げながら何度も何度も殴り続けた白い壁に血潮が飛び散り、拳の皮膚は裂けた。

俺の異変に気付いたお袋が血相をかきながら俺を羽交い締めにして制止した。

「あんた!何やってんの!しっかりしなさい!」

俺はその場に崩れ落ち、床に両腕をついて踞った。

俺を蝕んでた得体の知れない不安。

それは親に成ると言う事への重圧だけではない。経済的な不安だけでもない。

自分の浅墓さに慌てふためき、二の足を踏んでおどおどしている俺・・・。そう、子供の頃に崖から海に飛び込めなくて恐怖に戦いていた俺のそんな情けない姿を見せたくなくて去勢をはり続け、何時か化けの皮が剥がれてあかりに見透かされて俺の元を去って行くのではないかという、不安。あかりが居なくなるという不安!

あかりも同じ気持を抱えていた。しかしあかりは子を産む事でその不安を乗り越えようとしていたのに、俺は将来という化物から逃れたくて自分の子供をも否定していたのだ。

だから産まれてくるはずだった子供も俺を否定した。

こんなに幼稚で情けない俺を親として認めてくれなかったのだ。


拳の治療を受けた俺は茫然自失とロビーの椅子に座っていた。

崩れ落ちた自尊心と拳の痛みを抱えながら自問自答を繰り返した。

俺はどうやって償えばいいのか。俺は一体何をしたいのか。俺はあかりを・・・。

俺は暗闇に何かが光っていることに気がついた。

それはあかりと出会ってからずっと燃え続けていた青白く燃える小さな焔。

不安が逆巻く嵐の中で見失っていた正しき道標。

「おい。大丈夫か」

親父が無造作に俺の横に座った。

「ああ・・・。大丈夫さ」

「だったら早く行ってやれ」

俺は席を立ち、あかりが待つ病室に再び向かった。

将来に対する不安なんて誰にでもある。自分以外の人間の気持ちなんて全て理解できるはずは無い。例え一方通行でもいい。俺は確かにあかりに惚れている。その事実が俺の全てなんだ。俺の中に青い焔が灯っている限りあかりも俺を必要としてくれている。だったら俺がやるべきことなんて一つしか無いじゃないか。



雲の切れ間からは青空が覗き、飽くまでも清廉な空気が俺の身を引き締めた。

夜に降った雪はうっすらとアスファルトを覆っていて、白い息を吐き、シャリシャリと音をたてながらアルバイト先へ向かった。

店のオーナーは年末に向けて忙しくなるのでもう少し働いてくれないかと頼まれたが、あかりと約束していたのでその申し出を断った。

あかりは退院した直後は塞ぎ込んで三度の飯も喉を通らない程だったけれど、その頃にはもう何時もの明るい笑顔を見せていつもの生活にもどっていた。

塞ぎ込んでいたのは流産したということだけではなく実家へ戻るかどうか悩んでいたことも理由の一つだったろう。

入院していた時に見舞いに来た母親から戻るように説得されたらしい。

しかし退院して来たあかりは親父とお袋と俺の前で「許して貰えるのなら、ここに居させて下さい」と頭を下げた。許すも何も、俺達は当然の様にそれを受け入れた。


バイトを終えた俺はその後ATMから貯めていた金を全部降ろし、全ての用事を済ませてから家に戻った。

俺は真直ぐ親父の書斎にずけずけと入り、躊躇なく親父に向かって土下座をした。

「頭上げて、ツラ見せろ」

俺はその通りにして睨みつけると親父は「特別に無利子で貸してやらぁ」と目の前に分厚い封筒を置いて部屋を出て行った。

俺はその封筒の重さとあかりの父親が俺に行った言葉の重さを重ね合わし、誰も居ない書斎で頭を床につけ、感謝の言葉を呟いた。


その夜、俺の部屋で二人とも正座をしてお互いの正面に向い合い、俺はあかりに本当の俺の気持ちを打ち明けた。

格好つけて、体面を繕い、何もかもに甘えていた自分の本心を吐露した。

「なんでユウちゃんが謝るの?ユウちゃんが悪いことなんて一つもないよ」

驚きと戸惑の中で零れ出たその言葉に俺は少し安心した。

「俺、明日からもっと勉強して、大学に行く」

「うん。頑張ってね」

「頭悪いからさ、センター試験に合格するかどうか分からない・・・」

「なによ。そんな弱気で・・・。ユウちゃんなら大丈夫。自信持ちなさい」

俺は傍らに置いていたバッグの中から指輪が収められた小箱を取り出してあかりに手渡した。

「俺、ほんと言うと、まだ自分に自信が持てないんだ。絶対にあかりを幸せにするなんて今は言えない。でも、あかりの傍にずっと居たいって思う気持ちは今も、この先何十年経っても変わらないと思う。だから、大学に受かっても受からなくても、高校卒業したら結婚して欲しい。どうか・・・、どうか、お願いします」

あかりの大きく見開いたあかりの瞳から涙が溢れ、詰まらせた言葉を押し込む様に大きく頷いた。

「そんな安物の指輪しかお前にあげられないけど、ちゃんと稼げるようになったらもっと凄いやつを買ってやる」

指輪を胸元で握りしめ目を閉じ、奥歯を噛みしめて首を横に振った。

「今日さ、式場の予約してきたんだ。明日さ、一緒に衣装の打ち合わせに行こう」

あかりは手の甲で涙を拭いながら言葉を震わせた。

「でも、お金が・・・・」

「そんなもん、心配するな。足りない分は親父が気前よく貸してくれたから」

「で・・・、でも・・・」

戸惑あかりを他所に俺は喋り続ける。

「そんな盛大に出来ないけどさ、藤林の親族皆と、寺島の親族皆を呼んでちゃんと式を挙げるんだ」

「でも、お父さん・・・」

「来るさ。絶対。自分の娘の晴れ姿なんだ。来ないわけないだろう」

あかりはまた目を閉じ、顔をくしゃくしゃにして何度も頷いた。

そんなあかりを見ているうちに俺も泣けてきて、ぼろぼろと涙を零した。

「あかり、何着たい?やっぱりウエディングドレスか?」

あかりは小さく首を横に降った。

「じゃあ、あかりは白無垢で俺は紋付袴で、三三九度の杯を交わして、神様の前で、俺の親父とお袋とあかりの父さんと母さんの前でちゃんとした夫婦として認めて貰うんだ」

あかりは頷いた後抱えていた指輪をそっと床に置いた。そして三つ指を付き、あの時と同じ様に淀みなくはっきりとした口調で俺の気持ちに答えてくれた。

「私だってまだ子供です。この先、ユウちゃんにいっぱい迷惑や嫌な思いをさせると思います。でも、私も、ユウちゃんの傍にいたい。ずっとずっと一緒に居たい・・・。こんな私でよかったら、ユウちゃん、よろしくお願いします」


運が良かっただけなのか、それとも俺の実力か、センター試験はパスして志望していた大学に行くことができた。

けれどそんなことより白無垢姿のあかりを目にした時の喜びの方が数倍も上回った。

始めて着る紋付袴の俺自信を鏡で見た時にはでかい子供の七五三みたいだったけれどあかりのその姿は息を飲むほど美しかったのは言うまでもない。

しかし一つだけムカつく事があった。

両家の親族皆と写真を撮るとき、カメラマンが申し訳なさそうにこう言った。

「あのぅ、やっぱり詰めて貰った方が・・・」

少しざわついている中、角隠しから流れるような白い頬の先の紅色の唇から発せられた言葉に俺も同じ気持でカメラを睨んでいた。

「いいえ。このままでお願いします」

あかりの父親が座るべき椅子に誰も居ないままフラッシュが焚かれた。


大学で知り合った友人はきっと俺の事を生真面目で面白くない奴だと思っただろう。

何せサークルやコンパ何かに全く興味を示さずにいたのだから。

俺は留年しないで早く卒業し、本当の意味で自立したかっただけなのだ。


就職活動は正に困難を極めた。誰が言ったか知らないが氷河期という言葉は身に染みた。

数え切れない程面接を受けは落とされ、最後は自棄糞になってほとんど喧嘩腰で受けた今の会社に拾って貰い、それを期に家を出てあかりと二人だけの生活をした。


あかりの妊娠を知ったのはそれから一年も経たない頃だった。

勿論その時の俺は訳の分からない不安に狼狽えたりしなかったが、かと言って冷静でいたわけではなく過ぎる程に気を使い、早々に俺の実家にあかりの保護を要請した。

歓喜で迎える親父とお袋。幸せに満ちた笑を浮かべるあかり。舞台でコントのボーディーガードを演じているような俺。

アパートで一人、カップラーメンを啜る日が幾日か過ぎたある日に俺は知らせを受けて会社を早退した。

産声を上げている愛美を抱いたとき俺は煮えたぎる熱い涙を流しながら、ただ只管に感謝の思いが身体中に溢れていた。


これできっとあかりの父親も俺を認めてくれる。そう確信したがしかし、現実はそう甘くは無かった。

意気揚々と俺一人であかりの実家に行ったが父親は書斎のドアを締め切って俺に会おうとはしなかったのだ。

そして仕方なく愛美を抱いて笑っているあかりの写真を母親に預けて家を出た俺は、その時生まれて始めて自棄酒を飲んだ。


自分で稼げるようになったらもっと凄い指輪を買ってやると豪語していたのに今は日々の生活と思いがけない出費に日々追われ薄い給料は瞬時に無くなり、指輪どころではない。

現実とはそんなもんだろう。

親子三人不自由なく暮らせているのであれば世の中や会社に対して不満を口に出すなど以ての外だ。

とは言うものの、12月の綺羅びやかな街の中に我が身を埋めたとき、他人の笑顔に軽い嫉妬を覚えて身体が寒くなる。

所詮、幸せなんて自分より不幸な人と比べた時に感じるただの優越感なのか。

でもそれって一体何だろう。俺の幸せ?あかりの幸せ?愛美の幸せ?

俺の幸せはあかりと愛美が幸せになることだ。

だったら俺が辛くて苦しくて不幸だと感じても二人が幸せであるのならそれは間違いではないのではないか。

じゃぁ、不幸ってなんだ?

残業してもその分の金が口座に入らないということか?

それともたまに同僚や上司から飲みに誘われて本当は行きたいのに断らなければならない俺の立場なのか?

ははは・・・。バカらしい。

人間としてやらなければならない事、男としてやらなければならない事、親としてやらなければならない事、それは目の前に山積していてひとつずつこなして前へ進んで行くことで精一杯だ。幸せだとか不幸だとかそんな事を考えている余裕はない。

俺は地下へ降りて行く何時もの階段を通り過ぎて暫く歩き、家電の量販店に入った。

洗濯機や冷蔵庫が並んでいるその奥に行くとなにやら表面がツルツルしている見慣れない物体が展示してあった。

店員を呼んで聞いてみると電磁調理器というものらしく隣に置いてある見慣れたガスレンジとは違い火を使わないので火事の心配はないと言う。

「この間の新聞を読みましたら留守番をしていたお子さんの火の不始末で火事がありまして・・・」

等と店員が脅かすような事をいうものだから思わず買いそうになったがよくよく考えて普通のガスレンジを購入した。

店員のいう事も一理はあるが、やはり焼くのも炒めるのも煮るのもガスの強烈な焔で調理した方がいい。

「これさ、25日に着くように発送できる?」

と言った後で後悔した。ガスレンジをクリスマスプレゼントにする奴なんか普通いないだろう。

俺は会計を済まして表に出た。お馴染みのクリスマスソングが何処からか聞こえ、華やかな電飾が街を彩る。

高価なものは無理だけどあかりが喜ぶような物は何か無いものかと俺は人の行き交う街を宛もなく歩いた。

洋服、バッグ、靴、アクセサリー・・・。

どうも俺にはそういった物を見る目が無いらしく、雑誌やチラシとかで「ユウちゃん、どれがいい?」とあかりに聞かれ俺が選ぶものは尽く「やっぱ、ユウちゃんセンス無いわ」とにべもなく否定される。

ガスレンジを買って財布も軽くなったこともあり、どうしようかと迷っていると携帯電話がブルブルと震えた。

(ユウちゃんどうしたの?何かあったの?)とあかりからのメール。

気がつくともう9時を回っていて俺は慌てて(直ぐ帰る!)と返信し、急いで地下へと潜って行った。


駅に着いた時には既に10時を過ぎていて商店街の殆どはシャッターが降りていて閑散としていた。

俺は鞄を脇に抱えコートに両手を突っ込みながら家路を急いだ。

商店街の中央にそびえ立つクリスマスツリー。

「全く、邪魔だよな」

俺はそう文句を言いながらもそれを見上げるとあかりとの来し方が頭の中を廻り、やがて抜かなければならない刺の存在を思い出す。

それは夫してやり残していることだ。

俺は大きく溜息をついてツリーを迂回したとき、俺と同じようにツリーを見上げている人影に気付いた。



「お父さん!」

俺が叫ぶとあかりの父親は先程までの穏やかな顔から瞬時に強張り、まるで唾を吐き捨てるような素振りを見せて踵を返した。

俺は咄嗟に腕を掴み「どうして何時も逃げるんですか。話しを聞いていて下さい!」と強引に引き止めようとするが、あかりの父は背中を向けたまま腕を引き払うと早足で立ち去ろうとした。

その態度に苛立った俺は駆け足で回り込み父親の行く手を塞いだ。

「どけ!」

「嫌です!」

あの時と同じ鋭い眼光で俺を威嚇する。しかし俺は怯まず、胸を張ったまま父親を見下ろした。

「あかりに会ってやって下さい。アパートは直ぐそこです。お願いします」

「それが人にものを頼む態度かね」

「いいえ。頼んではいません。これは・・・そう。あなたの義務です」

あかりの父は油を注がれた火のように怒りを顕にし、大声を張り上げた。

「無礼な事を言うな!お前に何が分かる!お前みたいな子供に何が分かる!」

「ああ、分かんねぇ。分かんねぇよ!あんたの気持ちなんか分かるわけ無いだろう!」

にじり寄った父は今にも殴りかかりそうな勢いで俺を睨んだ。

しかし俺は引かない。力ずくでもあかりのもとへ連れて行き、孫を抱かせてやる。この人を殴ったらあかりは起こるだろう。それでも良い。今行動を起こさなければ絶対後悔する。そう思った俺は更に挑発するような言葉を浴びせかけた。

「俺とあかりの結婚式の日も、愛美が生まれて俺が報告に行った日もあんたはこそこそ逃げまわった。あかりを勘当したからか。愛娘を奪った俺が憎いからか。くだらねぇ。俺が憎いなら一生憎んでいいよ。でもあかりは憎めないはずだ。ましてや愛美には何の罪もない。それなのに、それなのにあんたって人は・・・」

この人に言いたい事は山ほどある。それは俺自信の事ではなくあかりが抱えているたった一つの苦しみだ。一番祝福して欲しい人に会う事も出来ず、自分の我侭だと諦め、ぽっかりと空いた席をあかりはずっと見つめ続けていたのだ。

俺は高ぶる胸を必死で押さえながら絡まっている言葉の端を探していた。

父親も拳を震わせながら俺を睨んでいる。

いっそ襟首を掴んでアパートまで引きずって行こうか、そう思った時緊張していた空気が緩んだ。

大きく息を吐いたあかりの父親は視線を逸らし、身体の向きを変えた。

「クリスマスツリーの意味を、君は知っているかね」

ツリーを見上げながら脱力した表情でそう聞かれた俺は戸惑ながら「知りません」と答えた。

「冬でも枯れることなく青々としている樅の木は言わば生命の象徴だ。そしてこの電飾。これはねただ綺麗だからという理由じゃなく、光そのものに意味があるんだ」

あかりの父親は一呼吸置いてまた訥々と語り始めた。

「キリスト教徒にとって光とはイエスそのもの。つまり、人の願い、希望を表す。先の見えない真っ暗な道でも、暗たんとした不安に満ちた人生でも、僅かな光があればそれに希望を見出して明日も歩いて行くことができる。私にとってあかりは、そんな存在だったのだよ・・・」

あかりの父親がどんな思いで生き、結婚し、あかりを育てたのか、俺は知らない。

しかし、搾り出すようにこぼれ落ちたその言葉にはっきりと実感を持って理解することができた。

「勿論、あかりが生まれた時から私は覚悟をしていたよ。いつかは好きな男性が出来て私の元を離れ、嫁いで行く・・・。君にはもう分かるはずだ。自分の子供の幸せを願わない親なんていやしない」

ああ、分かるよ。だから何だって言うんだ。

「若い時には過ちを犯すものだ。狭い価値観の中でそれが正義だと思い込んで客観的に物事を見ることができない。その過ちを正すのが親の役目だと私は思う。だから私は否定した。あの時、あかりにおろせと言い聞かした。あかりは賢い娘だから、私の言う事を理解してくれたと、私は思った・・・」

いや、違う。あかりはあんたに逆らえなかっただけだ。本当の気持ちを押し殺してあんたに従うしかなかったんだ。

「だけど、君が現れた。私は正直、混乱したよ。あかりの人生を滅茶苦茶にした君に殺意さえ抱いた」

あかりの父親は肩口から硝子のような眼で俺を見た。



「あかりの人生を・・・、俺が・・・」

「そうだ。たった18で母親という重責を負わされ、これから訪れるであろう人生の喜びや機微、そういったものを同年代の友人達と分かちあうことが出来なくなるのだから・・・」

俺はその勝手なものの言い様に腹が立ち、怒鳴り散らしたい感情を必死で抑えた。

「だったら何か。あかりにとって俺と出会った事が不幸だったと言いたいのか」

あかりの父親は目を逸らし、無言でツリーを見上げた。

「あんたまさか、あかりの事を小学生みたいなガキだと思ってないか。あかりは自分の事は自分で決められる。自分で決めた事は絶対に後悔しない。俺なんかよりずっと大人なんだ。そんなことも分からないのかよ」

「ああ、知っているよ」

「じゃあ何故!」

あかりの父親は寒さに身を縮め、喉を震わせて息を吐いた。

「あの時、私の中でそれを否定するもう一人の自分が自制心を無くして暴れまわり、ずっとあかりを私のもとに置いておきたい、そう叫んでいた。所詮は若気の至り、現実という壁にぶつかった時、彼女の熱は冷めて直ぐに戻って来る、そう高を括っていた。しかしあかりは、戻って、来なかった。流産しても尚、君のところに留まった」

そしてもう一つ大きな白い息を吐くときつく縛られていたものから開放されたように肩の力が抜け、弛んだ目尻に何かが光った。

「孫を抱いているあかりの写真を見たときに私は思い知らされた。あかりは私が思っている以上に成長していて、そして、実に聡明な女性になっていたのだと。だから私は自分を恥じた。親としてどうあるべきか考えに考えた・・・。だけどね、私自身、どうしようもないんだ。自分の娘を誰よりも理解しているつもりになって、結局は信じることができなかったのだから・・・、あかりのことも、私自身をも・・・」

言い終わるとあかりの父親は背中を向けてゆっくり歩き始めた。

「お、おい。待てよ。話し、終わってないだろう」

俺の呼び掛けに立ち止まった父は振り向きもせず顔だけ横を向け、点滅する青と白の光りを見つめた。

「子供だったあかりの手を引いてよくここに来たものだ。私はこの青い電飾が好きでね、何だか心がすーっと清らかになる気がする。色には温度があることは知っているね・・・」

そうそう言いながら見上げた夜空には昴が輝いていた。

「赤い光は年老いて死にゆく星。青い光は若い星。一見冷たく見える光が実は膨大なエネルギーを放出しているんだ。私は常にその青い光のようでありたいと思っていたが、どうして、もう・・・」

そしてまたツリーの電飾に視線を移して呟やいた。

「私はこの光のように温度を無くしてしまった・・・。あかりのこと、よろしく頼む」

そう言った背中には何者も寄せ付けない力が篭っているようで、俺は黙って見送るしかなかった。

人通りの無い商店街で俺はコートの裏側に忍び寄る寒気に震えながらポケットから携帯電話を取り出した。

画面には愛美の寝顔。時計は10時30分を表示していた。

電話を仕舞い、ツリーの天辺にある星を見上げ、そして静かに目を落として地面を見ると脳裏には結婚式で撮った集合写真を物憂げに見詰めているあかりの姿が過ぎった、その時。

「・・・。ふざけるな・・・」

もう一歩踏み込めなかった俺自身への苛立とあかりの父親に対する怒りが身体の奥底から込み上げてきた。

「何言ってやがる。ふざけんじゃねぇよ・・・」

一歩、二歩揺らめき、俺は爆発した感情を右足に込めて赤い郵便ポストを力の限り蹴りつけた。

凄まじい音が商店街に響く。向かいを歩いていた酔払いが足を止めてこちらを見た。

俺がそいつを睨みつけると「ひぃ!」と奇声を上げて逃げ出した。


ふざけるな!てめぇの面鏡で良く見て見ろ!娘に会いたい、孫を抱きしめたい。そう書いてあるだろ!


俺の腹は決まり、猛然と走り出した。


あんたの何がそうする。プライドか?そんなもんプライドでも何でもねぇ。それはな、老いて固まった何の役にも立ちはしねぇただの意地だよ。頑固なだけなんだよ!

あんたが一人だったら孤独のまま死ねばいいさ。でもな、そうなったら誰が一番悲しむ。おい!ジジイ!分かっているんだろう?分かっているくせに何故できない。何故あかりに会ってやれない。何故愛美を抱いてやれない!


俺はアパートまでの道を叫びながら走った。身体に宿る二つの焔を感じながら走った!


俺が子供だ?ああそうさ、子供さ。でもなあんたとは違う。顔を見るのも話すのも嫌な奴にでもあかりと愛美のためだったら何でもする。股を潜れと言われれば喜んで潜ってやるさ。裸で踊れと言われれば踊ってやるさ!あんたもそうしてきたんじゃないのか。違うのか!少なくとも俺の親父はそうして俺を育ててくれた。そうして俺とお袋を守ってくれたんだ!


身体中の酸素が無くなり、破れそうな肺で呼吸をしながらアパートのドアを開けた。


青い光が好きだ?うるせぇ!焔ってぇのはな煙を吐いて火の粉を散らして真っ赤に燃えるものと相場が決まってんだよ!


「ユウちゃん、どうしたの?そんなに汗かいて」

愛美をあやしていたあかりが頭から湯気を出している俺を見て目を丸くした。

「あかり!明日、何か予定は・・・、いや、無いよな!」

居間の隅にはホームセンターで買った小さなクリスマスツリーの電球が光っている。

「予定って・・・明日はマーちゃんをお母さんに預けて二人で食事行こうって・・・」

「うっせぇ!そんなの後回しだ!」

「え、ええ?」

「明日お前の家に行く」

「私の?」

「ああ、お前の実家だよ!」

「な、何しに?」

「そんなもん決まってるだろう!クリスマスパーティーだよ!俺と前と愛美とお前の両親と面白可笑しくパーティーするんだよ!」

「そんな突然言ったって・・・」

「バカヤロウ!お前がお前の家に帰るのに突然もへったくれもあるか!何で遠慮しなきゃいけないんだ!」

「でもお母さんだって買い物したり、色々準備しなきゃいけないだろうし」

「そんなもん買って行けばいいだろう!七面鳥の丸焼きとケーキをガツガツ食えば立派なクリスマスだよ!何だったら鼻メガネと三角帽子でもかぶるか?」

「でも、お父さん・・・」

「お前なぁ、さっきからでもでもうるせぇんだよ!あんなクソ親父俺に任せろ。うだうだ言うようだったら髪の毛みんな引っこ抜いてつるっぱげにしてやらぁ!」

「ユウちゃんさっきから何怒ってるのよ?」

「怒ってねぇよ」

「怒ってるよ」

「怒ってねぇよ!」

俺はあかりの同意を聞く前にあかりの実家に電話を掛けた。

あかりの母親は最初戸惑ってはいたが俺の意気込みを受け入れてくれてクソ親父も同席させると約束してくれた。



翌日俺は入社以来始めて我侭を言って会社を早退し、あかりと愛美と俺と三人で華やかな街に繰り出した。

七面鳥の丸焼きは思っていたより高かったので鶏にし、ケーキは恐らくあかりの父親しか食べないと言う事で小振りのものを買った。

「まったく・・・」

あかりが険しい顔で文句を言う。

「ユウちゃんってホント、いい加減よね」

俺の発案であかりの両親に何かプレゼントしようという事になったのだが、俺が義父に買った物に不満があるらしい。

俺としてはあのクソ親父が素直に俺のプレゼントを貰うなどと思えないからそれなりに考えた結果なのだが・・・。

「だってさ、お前言っていただろう?甘いものが好きだって」

「確かにお父さん甘党よ。でもねそんなものをクリスマスプレゼントにするセンスを疑っちゃいます。お店の人困ってたじゃない」

確かに、デパートの地下にある和菓子屋で羊羹の詰め合わせに「クリスマス用に包装して下さい」と俺が言うと店員は苦笑いをしていた。

「それは普通ねクリスマスプレゼントって言わないの。手土産って言うんですよ」

「いいだろう、べつに・・・」

両手に荷物を抱えた俺の隣であかりは胸元の愛美に話しかけた。

「ほんと、お父さんって変な人ねぇ」

ケタケタと笑う愛美の頭を撫でるあかりの手には俺が贈った指輪が光っていた。


5年振りに実家の玄関に立ったあかりは呼び鈴を押そうかどうか躊躇している間に俺がドアを開けた。

「こんにちは、お邪魔します!」

無遠慮な俺の造作の後にあかりが戸惑いながら敷居を跨いだ。

「まあまあ、いらっしゃい」

慌ててキッチンから出てきたあかりの母親がそそくさとスリッパを整える。

「ただいま、お母さん」

「お帰りなさい」

僅かな会話で途絶えていた時間が繋がった。

愛美を抱いた母親は「あらあら、寒かったでしょう」とその愛らしいぷっくりとした頬に唇をあてた。愛美は相変わらず笑いながら小さな手をばたつかせる。

「さあ、あがって」と義母に導かれながら三人の後ろにいた俺は僅かな後悔に胸が痛んだ。


俺は居間で寝そべって愛美をあやしながら台所に立っている母とその娘を見ていた。

二人が交わす会話は聞こえないが時々こぼれる笑い声に俺は安堵し、いつの間にか浅い眠りについていた。


「ユウちゃん起きて」

あかりに揺り起こされてふと時計を見ると7時を回っていた。

居間のテーブルには豪勢な料理が所狭しと並べられてある。

「あれ、お父さんは?」

俺が言うとお母さんが申し訳なさそうに答えた。

「さっき電話したんだけど、仕事が終わらなくて遅くなるって・・・」

「そうですか。仕事なら仕方ないですよね」

と言っては見たが心の中では別の思いが蜷局を巻いていた。

「そのうち帰って来るだろうし、折角のご馳走が冷めちゃうから先に乾杯しましょう」

あの父親が本当に帰って来るとしてどうせやり合うのであれば多少アルコールの力があった方がいいと、俺は注がれたビールを一気に飲み干した。

それからしばらくの間、他愛も無い会話に花が咲いた。

俺が知らないあかりの小さな頃の話しや写真にあかりは顔を真赤にして母親を遮った。

母親は愉快に笑い、あかりは子供のように拗ねる。

5年の空白を埋めるように親子の絆を確かめるように、母と娘は喋り続けた。


程よく酔いがわまって満腹になった頃、ふと会話が途切れて一瞬の静寂が部屋に落ちた。

時計を見るともう直ぐ11時になる。

「お父さん、どうしたんだろう」

淋しげな目であかりが呟いた。

「ごめんなさいね、優治さん。お父さん、ちゃんと約束してくれたんだけど・・・」

あかりの母が申し訳なさそうに頭を下げるので俺は慌てて膝を折り直した。

「いえ、そんな。俺の方こそお父さんの都合も考えないで急にお邪魔して・・・それなのにこんなにご馳走になって、ほんと、すみません」

あかりの母は頭を振って目尻を指で拭った。



一通り片付けを終えた後俺は風呂を借りた。

湯船の中で酔を冷まし、両手でお湯をすくって顔を擦る。

「クソ親父、逃げやがったな」

胸にわだかまった物を吐き出したが、もしかしたらこれはこれで良かったのかも知れない。もし父親がいたら険悪な雰囲気の中であかりも母親もあんなに和やかに話しは出来なかっただろう。

きっと父親もそれを察したのだと俺はそう思う事にして風呂を上がった。


布団が引かれた二階の部屋で俺は一人仰向けになって天井を見詰め、昨夜の出来事を回想する。

あかりに対する思いや自分の心情を語っていたあかりの父親の悲しげな表情が目の前に浮かんだ。

あかりと出会って5年が過ぎた。あっという間だ。そうするとこの先愛美が小学校、中学、高校と成長して行くその過程も一瞬で過ぎ去って行くのだろう。

一日の半分以上を会社で過ごす俺は愛美にどれだけの事をしてやれるのだろうか。

歳を取るごとに時間が早く進み、忙しさを理由にして父親としての責務を果たさないまま何処の馬の骨とも分からない男に愛美を連れ去られるとしたら俺はその時どういう態度でその男に接するのか。

日々の生活に疲れ家族の事など蔑ろにしていたなら例え愛美が18歳という若さで孕んだとしてもきっと俺は殺意を抱くほどにその男を責めないのかも知れない。

父親としての責任を半ば放棄している身分では何も言う資格は無いのだ。

あかりの父親は俺が思っている以上に真剣にあかりを愛し、家庭を大事にしていたからこそあれだけの事が言えたのだ。

あかりに伝えたい思いが山ほどあったのに横から俺がかっさらって行ってしまった。その口惜しさは朧げながらも理解できるような気がする。

そうか。そうなんだ。俺はまだまだ、駄目な奴だ・・・。


「あれ?もう寝ちゃった?」

あかりが愛美を抱え、髪の毛をタオルで拭きながら部屋に入って来た。

「いいや、まだ起きてる」

あかりが「そう・・」と呟きながら愛美を布団に入れると愛美は桜貝のような小さな唇をごにょごにょと動かしながら瞼を閉じた。

「凄いはしゃいでたから疲れたのね」

寝息をたてているわが子の横にあかりがいる。

そうさ。これでいいんだ。何十年先の不確定な甘い未来より今手元にあるこの現実が本当の幸せなのだ。

「ユウちゃん・・・」

パジャマ姿のあかりが畏まって俺を呼んだ。

「今日は本当に、ありがとう」

「なんだよ、いきなり・・・別に礼言われる事しちゃいないぜ」

「うん、でも・・・」

あかりはもっと何かを言いたそうだったがこれ以上お礼を言われると俺の身の置所が無くなるようで言葉を遮るように「さあ寝よう。明日早いんだし」と電気を消した。


それからどのくらい時間が立ったのか分からないが漸く眠りの淵に辿り着いた頃、一階で何かが倒れる音とお母さんの叫び声で目が覚めた。

「お父さん!どうしたの!」

俺とあかりは飛び起きて階段を駆け下りるとあかりの父親が廊下でうつ伏せになっていた。

「お父さん!」

あかりは血相をかいて駆け寄る。

俺は近くにお母さんが居ないのを疑問に思ったがあかりと共に父親を抱き起こした。

「大丈夫・・・?」

つい今の慌てぶりとは裏腹にあかりは眉間に皺をよせ、手で自分の鼻先を覆った。

「お酒弱いくせに・・・どれだけ飲んだのよ・・・」

父親は訳の分からぬ事を叫びながら駄々っ子のように暴れた。

「あらあら、ごめんなさいね、起こしちゃって」

お母さんが俺たちの間に割って入り部屋に連れて行こうと担ぎ上げた。

「俺も手伝いますよ」

一緒に父親を引きずりながら寝室の前に辿りついたとき何故かお母さんが慌てて俺を制した。

「ここでいいわ」

「いや、中まで・・・」

「いいえ、ここで大丈夫。明日早いんでしょう?ありがとうね・・・」

俺はあっけにとられて後ろにいるあかりに思わず「なんなんだよこりゃ」と言うとあかりも首を傾げた。

二階の部屋に戻って布団に入るとあかりがぽつりと呟いた。

「何か、会社で嫌なことでもあったのかな」

「そうかもな・・・」

いや、違う。俺は父親が酒に飲まれた本当の理由をあかりに隠して目を瞑った。


翌朝。俺は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。

寝ぼけ眼で横を向くとあかりが上半身を起こして何かを抱きしめるようにして屈んでいた。

「おい、どうした。具合でも悪いのか?」

俺の問い掛けにあかりは首を振った。

「ユウちゃん。サンタさんが来てくれたよ。ほら、マーちゃんにも」

抱えていた包みの中にはマフラーが入っていて、愛美には同じ柄の帽子と手袋が。

「へぇ、きっとそのサンタ、千鳥足で置いていったんだろうな」

あかりは「そうね」と笑った。

「ほら、ユウちゃんにもあるよ」

驚いて枕元を見ると確かにプレゼントがあった。

「え?これってクリスマスプレゼント?」

和紙でくるまれた一升瓶にはとって付けたような赤いリボンが巻かれていた。

「羊羹よりはいいと思うな」

俺は「マジかよ」と言いながら(純米大吟醸)の文字を染み染みと眺めた。


身繕いを済まして一階に降りると味噌汁の香りが漂っていた。

「お母さん、見て。サンタさんにプレゼント貰っちゃった」

「あら、マーちゃんも貰ったの?いいわねぇ」

お母さんは態とらしい程大袈裟に喜びを顕にした。

「実は俺も貰いました。来年が寅年だからって分けじゃないだろうけど、きっとこれ、飲みすぎたサンタの仕業ですよね」

テーブルの上に一升瓶を置くとお母さんは家中に響くほど大きな声を出して笑った。

「でも良かったじゃない」

「ええ。でもこれ、ここに置いて行きます」

「どうして?日本酒嫌いだった?」

「いいえ、大好きですよ」

「じゃぁどうして?」

「こんな高そうな酒、一人で飲むのは勿体無いし、それに、正月に甘党のサンタと一緒に飲みたいですから」

「そう・・・。ありがとう。でも手加減してやってね」

俺は晴々とした気持ちで「はい!」と返事をした。


朝食を済ませた俺達はお母さんに再び訪れることを約束して玄関を出た。

表は早朝に降った雪がアスファルト覆っている。

「お父さん、起きて来なかったね」

あかりが別れ惜しむように呟いた。

「あの調子じゃ無理だろう?」

どうせ直ぐ会えるのだからと、俺とあかりは手を繋いでバス停まで歩いた。

その後ろには、二人の足跡がしっかりと残っていた。


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