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第一章(8)


Dark Side of 樋野紗也羅 ―追憶―


暗闇から目覚めたはずなのに、目の前はまた暗闇だった。


14歳で帰らぬ人となったはずの樋野紗也羅は、自分の姿すら認識できない、真っ黒な空間の中で目を覚ました。路上で刺されてから見知らぬ男が差し出した『契約書』にサインするまでの光景が、紗也羅の脳裏に駆け巡った。


「……此処は?」


目を開いているのか閉じているのかも分からないまま、紗也羅は首を振り辺りを見回す。そのうちに、段々と目が慣れてきて、全体が把握できるようになってきた。


何もないとばかり思っていた空間には、紗也羅の踝くらいまで水が湛えられている。しかしそれは温度もなければ感触もなく、ただただ揺らめいて小さな波を作っていた。


――迷子にならないで下さいね。


八神と名乗った男にそう言われたことを思い出す。しかし自分が何処に居るか分からないこの状態は完全に迷子だ。紗也羅はがくんと膝をつきその場に座り込む。不意に覗き込んだ水面に自分以外の誰かの顔が映った。


「……!」


急いで背後を振り返るが、そこには誰も居ない。実像を伴わないその影は、最初小さな子供だった。しかし徐々に大人びた顔つきになり、遂に白髪交じりの老人の顔になって、最後助けを求めるように手を伸ばし、吸い込まれるように消えていった。その様子を、紗也羅はじっと見つめていた。


気味悪いとか怖いといった感情は全くといっていいほど無かった。むしろ乞うように伸ばされたあの手に、悲しいほどの親近感を覚える。


また元の静けさを取り戻した水の中に、紗也羅もそっと手を入れてみた。やはり何の感覚も無いまま、手は水の中へ姿を消していく。そんなに深くまで沈めていないはずなのに指先すら見えない。


「どうしろって言うんだよ……」


指先と同じく、これからやるべきことが紗也羅には不透明過ぎて検討もつかなかった。何処に行くべきかも、これから何をすべきかも。


「ねぇ……替わって」


突如背後から聞こえた声が、紗也羅の心に一気に波紋を広げる。振り向いた刹那、水面から真っ白い腕が水滴を撒き散らしながら姿を見せた。紗也羅は呆然とそれを見ているばかりで、叫ぶことも逃げることもできなかった。


「ねぇお願い……私と替わって」

 

まるで羽化するように、腕は肩から胸へとその全貌を現していく。最終的に紗也羅の目の前に立っていたのは、首の無い女だった。


「ねぇ……私と替わって」


口など見当たらないはずなのに、女の綺麗なソプラノボイスが空間に響く。しかし同じことを延々と繰り返しているし、内容も物騒な推測しか出来ないから決して耳に心地いいものとは思えなかった。


「替わるって、何を?」


恐る恐る訊ねたが、女は聞く気が無いのか、はたまた口はあっても耳は欠如しているのか、紗也羅の呼びかけには答えない。ただ時折水面を揺らす波にまかせて自身も身体を揺すっている。長く続いた沈黙に痺れを切らした紗也羅が、ゆっくりとその場から立ち去ろうとした時だった。


「替わってよ!」

 

気が付くと、女の病的に白い手が紗也羅の首にかかっていた。ものすごい圧力が首にかかり、呼吸が出来ない。女の腕に青筋が浮かんでいるのが視界の隅に見える。


「替わってよ……お願い」


そう言って迫る女の願いを、しかし紗也羅は聞き入れるわけにはいかなかった。ほぼ殴りつけるようにして女の手を払いのけると、後ろを見ずに駆け出す。水を跳ねる音が、女も紗也羅を追って走っていることを告げる。

 

さっきまであんなに感覚も温度もなかったはずの足元の水が、走り出すと粘土みたいにまとわりつき、注意していないと転んでしまいそうだった。


勢いで逃げたはいいが、何処に行けば安全なのかが全く分からない。第一こんな隠れる所も何もない空間、捕まえてくれと言わんばかりだ。



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