第一章(3)
Dark Side of 樋野紗也羅
『――よかったんですか? せっかくの運命の再会だったじゃないですか、紗也羅くん』
通話口から聞こえてくる声には、若干のノイズが混ざり、まるで機械音のようだった。紗也羅はうんざりとばかりに溜め息を吐く。
「……何のことだ?」
態と分からないフリをしてやった。頬に付着した血をスーツの袖で拭う。目の前には、今さっき自分に狩られた『残留思念』の亡骸が霞んだ月明かりに照らされて転がっていた。それがゆっくりと消えて無くなっていく。
『何って……ほら、さっきの少年のことですよ。中学校のクラスメイトでしょう』
「関係ないだろう」
『関係ないなんて言っていいんですか? 彼の存在が今の貴女を支えていると言っても過言ではないのに――』
「馬鹿馬鹿しい。ちょっと黙ってくれないか?」
『……そう言えば、今日の収穫はどうだったんですか?』
声にこもった苛立ちを察したのか、先方は話題をいきなり変えてきた。
「……2人」
会話をしている間に亡骸は完全に光の粉と化し、蝶の鱗粉のように空気中に漂いながら闇に紛れていく。
『おぉ。すごいスピードですね。流石我が社の今期派遣社員内での実力ナンバー1なだけありますねぇ』
「だけど、それでもまだまだ生き返るには程遠い」
シャツの内側からペンダントを取り出し、月明かりに翳した。砂時計の形をしたそれの中には微量ながらきらきらと輝く砂が入っている。
そう、まだまだ目標までは届かない。こんなんじゃいつまで経っても生き返ることは出来ない。
ナイフで刺されて無情にも路上に倒れ伏したあの日、紗也羅は今まさに携帯電話越しに会話している男――八神に〝雇われた〟。生き返りたければ、元の生活を取り戻したければ戦えと言われて、差し出された契約書にサインした。
だからこそ紗也羅はこうして合法な存在として現世に留まることが出来ているのだ。
『まぁまぁ、悲観しないで。一緒に頑張りましょ――』
言葉の割に八神の声に慰めている感じは全く無い。無意味な会話に飽き飽きしたため、一方的に電話を切ってやった。
地平線を見ると、真っ暗な空が少しずつ温かなオレンジに変わりつつあった。もうすぐ夜が明ける。街が活気を取り戻すことは、紗也羅達の仕事が一旦終了したことを意味する。
スーツのポケットからスティックケーキを取り出した。可愛らしいイラストと共に『反魂スティック メープル味』とでかでか書かれた包装紙を破る。口にすると同時に、ほろりと溶ける不思議な食感が広がった。
これの開発者の顔が浮かぶ。この繊細な味とは裏腹に、本人は至って大雑把な人物だ。死を経験しなければ、会うことなどなかったはずの人物。
あの日の出来事が紗也羅を多くの人から引き裂き、逆に多くの人と巡りあわせた。
縁とはこういうことを言うのであろうか、なんてことを思う。自分のキャラとの不釣り合いさに思わず苦笑した。笑った拍子に右肩に鈍い痛みが蘇り、苦笑から本当に苦しい顔になった。
息を吐き出し、肩に手を当てた。『残留思念』につけられた傷が、不快な痛みをもたらす。だがこれも、夜が明ければなかったことになる。決して癒えない傷を除けば。
――あいつは今、何をしているのだろうか?
不幸にも『残留思念』に殺されかけたクラスメイトの顔がふと浮かんだ。無意識に顔が赤くなるのは無視する。
全部忘れて普通の生活を送ってくれればいいと思った。『残留思念』に出くわした記憶など、一人で抱えるには酷すぎる。誰かに話したって、せいぜい鼻で笑われるか変人のレッテルを貼られるのがオチだから。
――視認されないというのは、そんなに辛いものですか?
八神の言葉が脳内で反響した。紗也羅は下唇をきっと噛み締めた。何かに耐える時、ついつい出てしまう癖の一つだった。
「……辛いよ。辛くてたまらないさ」
答えが口から零れ出た。
クラスメイトが、恋話で盛り上がった親友が、そして家族が、皆自分に気付かないまま、不完全なこの身体をすり抜けていく。慣れるなんてことはない。いつまでたっても心は悲鳴をあげる。
そんな中、菅原陸には自分達が視える。不思議であると同時に、少しだけ嬉しかった。自分の存在が認められた気がした。
それ故に、覚えていて欲しいという思いも少なからず紗也羅の胸の内にはある。
「……生き返ればいいだけの話じゃないか」
生き返れば、視認されるがどうのなんてこと一々考えなくてすむ。結局はこの結論に行き着いて思考を強制終了させるのが紗也羅の常だった。
心を落ち着かせる為に反魂スティックを一口かじった。
「やっほー。姫お疲れ」
突然誰かに肩をポンと叩かれた。危うく小麦粉の塊が喉に詰まるかと思われたが何とか堪える。見なくても分かる、蓬原優だ。
「あれ、無視? 姫冷たいなぁ」
ガン無視していると、諦めた優は紗也羅の正面に回ってにっこりと微笑んだ。
「あっ、反魂スティックじゃん。いいなぁ、1本頂戴」
紗也羅の手に握られた反魂スティックを指さしてから、優は両手を差し出した。その手に『反魂スティック ハバネロ味』を置いてやる。優は眉間に皺を寄せて自分の手に置かれたものを眺めた。
「げっ、何これ。『ハバネロ味』って……。七星のおっさん、また変なモノ開発したのかよ」
「本人は『超うまいから。超オススメだから』って言ってた」
自分にこれを差し出した時の七星の自信満々な顔が浮かんだ。
優は『ハバネロ味』を食すことはせず、スーツのポケットにしまった。紗也羅としては毒見という名の試食をしてもらいたいところだったが仕方ない。
「他にも『もつ煮込み味』とか『キムチ鍋味』とかも開発したって言ってた」
「もはや健康食品の枠を度外視して趣味でやってるよね。あのおっさん」
これを健康食品というのかどうかを疑問に思ったが、口には出さなかった。
「……今日の仕事も終わりかぁ」
優がぽつりと呟いた。見ると、シャツの襟の部分が血でどす黒く染まっていて首には『残留思念』との戦いの際に負ったとみられる深い傷があった。
「……やられたのか?」襟の部分を指差す。
「ん、これ? あぁ、ちょっと油断してさ」
当の本人にはほとんど気にしていないようで、その声音は至って明るかった。
「大丈夫だよ。砂時計には傷一つついてないし。朝になればこれだって無かったことになるからさ」
「当たり前だ。第一、砂時計に傷がついていたらお前は今ここにいない」
今さらながら傷のことを訊ねたことを後悔した。
「そりゃそうだけど……。まさか姫、心配してくれてるの? 優しいね」
「心配なんかしてない。逆に商売敵は減った方がいい」
少し言い過ぎたかと口を噤んだが時すでに遅し、優は少し悲しげに微笑んだ。全てに憂えるような優の表情が、紗也羅はあまり好きではなかった。
「……ごめん、言い過ぎた」
「別に謝ることなくね? 姫の言ってることは正論なんだからさ。オレが甘っちょろいだけだよ」
優は微笑んだが、その目にはやはり深い悲しみの色が消えない。
「……姫は強いよね」
不意に優が切り出した。視線はアスファルトの地面に向いているから、どんな表情をしているかは判然としない。いつもの飄々とした感じではない真剣な言葉に、紗也羅はたじろぐ。
「別にあたしは強くなんかないよ」
しかし優は首を横に振った。
「姫はさぁ、なんか……軸がブレないって言うのかな? オレは一人ではこんな過酷な状況に耐えられないんだけど、姫は一人でも何でも出来ちゃうし、目標の為には手段を選ばないって言うか――」
「もういい」
首を横に振って話を遮る。優が俯きがちになっていた顔をあげた。
「そんなこと話して何になる? 状況が変わるわけでもない。今はただ前に進むしかないんだよ。それに……」
紗也羅はそこで言葉を切って少し恥ずかしげにはにかんだ。
「……それに?」
「あたしにだって、迷う時も寂しい時もある。お前と何も変わらないんだよ」
優の顔がぱっと明るくなる。
「だよねぇ、姫だって寂しい時あるよね。そんな時は遠慮なくオレの胸に飛び込んできていいんだからね!」
優は両手を大きく広げ、紗也羅が飛び込んでくるのを待っている。それを完全無視し、紗也羅は夜明け間近の街を歩き出した。
「わっ、やっぱり姫って冷たい! 待ってよ」
慌てて優が後を追ってきた。
夜が明けてまだそんなに経っていないというのに、幹線道路には蟻の大群のように乗用車が列を作っていた。
この辺りはビルの立ち並びオフィス街だから、多分これから仕事場に赴く人がほとんどなのだろう。
ほどなくすると、一軒家が整然と並ぶ住宅街が見えてくる。紗也羅の済んでいる新興住宅街の一角だ。早朝もいいところということで外に出ている人影は見当たらない。
深く息を吸ってから、住宅街に入る。見える一軒家はどれもシックなレンガ造りで見分けがつかない。それでも無意識に自分の家を目指していたらしく、気づいたら『樋野』という表札のかかる一軒家の前に立っていた。
かけがえのない時間を共有してきた母や父、弟の顔が浮かんだ。家族と過ごした全ては、今の紗也羅を支える重要な思い出達だ。彼らともう一度そんな時間を過ごしたくて、紗也羅は今孤独や恐怖と戦っているのだ。
――皆は、あたしのことをどう思ってたんだろう?
会いたい衝動に駆られたが、家の前を通り過ぎる。今会ったところで、家族は紗也羅の存在に気付かない。自分が惨めになるだけだ。
――また、会える日まで、少しだけさようなら。
最後に家族に向けて、心の中でそれだけ語りかけた。
次に行く場所は決まっている。どちらかと言えばそっちが本来の目的だった。
そういえば、気づかぬうちに優の姿が見えなくなっていた。別に着いてこいと言ったわけではないから勝手に別の場所に行ってしまったか、さもなければ迷子になっているのだろう。
どこからか烏の鳴く声が聞こえ、空の色も随分明るみを帯びてきた。本格的に朝が来たなと実感する。
住宅が密集している所為か、目的地までは5分程しかかからなかった。辿り着いた一軒家の前で、紗也羅は足を止める。
『菅原』
表札には、昨日偶然の再会を果たしたクラスメイトの名字が刻まれていた。
「あー、姫! やっと見つけた!」
優の声が聞こえた。見ると、路地の方から優が嬉しそうに駆け寄ってきた。そのまま紗也羅に抱き着こうとしてくるのを高速で避ける。優は不満そうに頬を少し膨らませた。
「何だよぉ、つれないな。せっかくの運命の再会じゃん!」
「お前が勝手に迷子になっただけだろ」
「何か似たような家ばっかでよく分かんなかったんだよ、仕方ないじゃん」
あれもこれもと、優は傍に建つ一軒家を指さしていく。
「お前、この近くに住んでんじゃないのか?」
「そうなんだけど、オレん家もう少し離れた所にあるからさ。ここら辺よく分かんないんだよね」
そう言いながら優は紗也羅越しに目の前の一軒家を覗き込んだ。表札を見て首を捻っていたが、やがてぽんと手を叩いた。
「此処って、もしかして?」
「そうだよ。昨日言ってた中学のクラスメイトの家」
優がニヤニヤと笑っているのが見なくても分かったが、あくまで冷静に答えた。
「……驚きだったよね。まさかオレたちのことが視える人がいるなんてね」
「だから何? 興味ないね」
気持ちとは裏腹な言葉が冷徹に響く。優がからかうように紗也羅の頬をつついた。
「あれぇー。そんなこと言っていいのかなぁ? 昨日は顔を真っ赤にしてたクセに」
頬をつついている優の細い指を掴んで、全力で爪を食い込ませてやった。優の顔が苦痛に歪む。
「痛い、痛い! ごめんなさい!」
仕方なく手を放し、思い切り睨みつける。爪が食い込んだ痕が残る指を擦りながら優はふくれた。
「そんな顔しないでよ。せっかくかわいいのにさ、台無しだよ」
「お前もそんなこと言ってる暇あったら、さっさと璃佳に自分の気持ち打ち明けたらどうだ?」
「……え? なっ、何のこと?」
今度は優の顔が真っ赤になる番だった。思わぬ反撃に返す言葉が見つからずおろおろしている優に紗也羅は内心でガッツポーズをした。面白いからそのまま放置しておく。
「だって無理に決まってるじゃんか……。あっちはオレのこと絶対ただの同業者としか見てないだろうし。そうなると完全にオレの一方通行だし……って姫、聞いてる?」
「はいはい、聞いてるよ。あれだろ? 今度発売されたスポーツドリンクを試しに飲んでみたらあんまり美味しくなかった上に値段高くて損したって話だろ」
「……全然違うんだけど」
紗也羅はからかうだけからかって満足したため、最早会話に入る気はなかった。この奥手め、と心の中で罵るだけにしておく。優は暫く一人であわあわしていた。
「ここに来たのは何の為?」
いきなり訊かれ振り向かずにはいられなかった。優は真剣な眼差しで紗也羅を見つめていた。
「クラスメイトを一目見たくて、なんて理由じゃないでしょ?」
「……まぁね」
菅原陸がまだ自分達を視認できるかどうか。それを確かめたくて紗也羅は今ここにいる。
それを聞いて、優は溜め息を吐いてから切り出した。
「もしまだ彼がオレ達を視ることができるとしたら、彼に真実を話す義務があるとオレは思うよ。『残留思念』のこと、一人で抱え込むのはあまりにも辛いじゃないか。せめてオレ達と共有すべきだよ」
一理あるとは思った。ただ、紗也羅には陸に全てを話せる自信はなかった。
「だったらお前が話せばいい。あたしはそんな役目引き受ける気なんてない」
「……拒絶されるのが恐いの?」
突きつけられた言葉に思わず紗也羅は下唇を噛みしめた。馬鹿なくせに妙に勘が鋭いから困ってしまう。
全てを話したところで、陸は自分を受け入れてくれるだろうか。目的のために血に汚れ、闇の中に片足を突っ込んでいる自分を。乱暴な言葉の裏に隠されたそんな恐怖を、優は少なからず感じ取ったらしい。
「そんなこと――」
ドアの開く音が会話を遮った。菅原陸が驚愕の表情を浮かべて立っている。紺色の学校指定ジャージを着て、髪の毛には若干寝ぐせが残っていた。
視線は真っ直ぐに紗也羅に注がれている。頬が紅く染まるのを紗也羅は自覚していた。
「……樋野?」
それが合図だった。紗也羅は弾かれたように走り出す。何かを叫ぶ声が聞こえた気がしたが、何も聞こえないふりをした。