第一章(1)
Light Side of 菅原陸
「やべぇ、すっかり暗くなっちまった」
着替えやら教科書やらが詰まった重いカバンを背負い、菅原陸は走っていた。所属しているバスケ部の活動が思ったより長引き、しかも友達との無駄話に興じていたら辺りはあっという間に暗くなってしまっていた。
夏が過ぎれば夜は早足でやってきて、おまけに居座る時間が長くなる。そのことをしみじみを実感させられた。
「……早く帰らないとな」
暗くなってから外にいると自分の身に何が起こるか分からない。この地域は今そんな状況にある。一年前から連続している通り魔事件がその大きな原因だ。
毎月1人くらいのペースで犠牲者は増え、おまけにそれと並行して殺人事件やら怪しい事件も起こっている。短い期間で街は急に物騒になった。
犯人は未だに見つかっておらず、証拠すら掴めていないらしい。
理由も犯人像も分からぬまま、ネット上では不安を軽減させる為か、『亡霊が新しい身体を求めて徘徊している』みたいな都市伝説が勝手につくりあげられている。
普段の陸にとっては好奇心をそそられる話題なのだが、今回はそうもいかなかった。
クラスメイトが一人、その事件に巻き込まれて死んだのだ。かれこれ一ヶ月前のことになるだろうか。
あまりにも突然起きたその出来事は、クラスにも、そして陸にも少なからず影を落とす結果になった。
じゃあね、また明日。
そんな陳腐な挨拶を交わしたクラスメイトの明日は、いくら待ってももう来ることがないのだ。そう思うと陸の心は深海のように暗く、そして重くなっていく。
――もしあの時、自分の気持ちに気づいていたなら。
無駄だと分かっているのにいつもそのことばかり考えてしまう。
頭の中をぐるぐる回る思考を断ち切るようにして家路を急いでいた陸は、ある所でパタリと足を止めた。
街路灯で明るすぎるくらいの幹線道路沿いとは対照的に、暗く湿気を帯びた空気を纏う『死角』と呼ばれている場所だ。かつて行われた自治体の土地整備計画の残骸らしく、賑やかな住宅街とは全く異なる雰囲気からこう呼ばれるようになった。
人通りが少ないため敬遠されがちだがここを通学の近道として使う人間も少なくない。陸もその一人だ。安全な通学路だと大きく迂回しなければいけないところを死角を使えばほぼ直線距離。ざっと10分は短縮できてしまう。
「また説教くらうの嫌だしなぁ……」
通り魔事件の影響で、寛大だった陸の両親も少し帰りが遅いだけでぐちぐちと小言を言ってくるようになった。陸にはそれが嫌で嫌でたまらなかった。
暗くて危険な道ほど便利なものと相場で決まっている。気が付けばいつもの癖で足を踏み入れていた。
一歩入っただけで死角の中にはまるで別世界が広がっている。
複雑に入り組んだ路地と点在する空き地はまるで迷路のようだ。電灯なんて無いから、目が暗闇に慣れるのを待つしかなかった。
辺りからは多くの虫たちが奏でる鈴のような音が聞こえてくる。姿が見えない分、この音色こそが彼らの実体なのではないかとさえ思われた。時折それに風が草を揺する音が混じった。
スモッグの影響で昇り始めた月もぼんやりと霞んで見え、微かに差し込む光が陸の足元に影を作る。この時間に死角を使ったことがなかった為、陸は少しばかり冒険気分に浸りながら歩いた。
「……あっ」
アスファルト塀の隅っこにポツンと置かれている物が目に入り、陸は思わず立ち止まった。
小さなガラス瓶に挿された、菊の花束だった。
通り魔事件で命を落とした例のクラスメイトの為に献花されたものだということはすぐに分かった。月明かりにぼんやりと照らされた菊の花に目をやる。花弁が微かにだが茶色く変色し、独特の鼻につく刺激臭もほとんどしない。
まるで忘れられてしまったかのように、花は寂しげに咲いていた。
陸は一歩花に近づくと、しゃがみこんで手を合わせた。自分は忘れていないと行動で示すために。
目を閉じると、今はもう存在していないクラスメイトの顔が浮かんだ。
――あいつはクラスの人気者で、頭が良くて頼れる奴。でも……。
背中に何か冷たいものが突き付けられたのはその時だった。感覚で分かる、ナイフだ。
――最悪だ。
心の中で悪態をついてみたが、現状が改善されるわけではない。
「人間、見ツケタ」
どうやら背後にいるのは男らしいのだが、口調は妙に片言で聞き取りにくかった。
今自分は何をするべきか必死に思案していた最中、男に制服の襟を掴まれた。そのまま陸の意思などお構いなしに強制的に歩かされる。何とかして手を振りほどこうとしたが男の力は思いのほか強く、それは出来なかった。
男は殺風景な空き地までやって来ると陸をそこに投げ捨てた。急いで男と距離を取ろうと試みたが目の前は一面ブロック塀だった。季節に反して首筋の辺りを嫌な汗が伝っていく。
打開策を考えながら振り返った時、陸は初めて男の顔を見た。
野球帽を目深に被り顔の大半は影になって見えなかったが、口の端は不自然に曲がり壊れた笑みを浮かべている。
そして何より、手にはサバイバルナイフが握られ、その切っ先はまっすぐ陸を向いていた。
逃げられないことは背中から感じるコンクリート塀の無機質な感触が物語っている。
目の前の男が通り魔事件の犯人だろうか。だとしたら次の被害者は自分だという最悪の想像が頭を過った。
そんなの嫌だ。やりたいことも、やり残したこともまだまだたくさんある。
「人間、喰ウ」
男がまた呻くように言った。
――喰う?
その言葉が陸の頭に重く響いた。何にしろ、自分に命の危機が迫っているのは間違いないのだ。
男は相変わらず切っ先を陸に向けたままなかなか動こうとしない。まるで陸の心が恐怖に支配されていくのを楽しんでいるみたいだった。
――どうしよう、どうすれば……。
あいつもこんな怖い思いしながら死んでいったのか。不意にそんなことを思った。
もう虫の音も聞こえない。ただ時間が異様にゆっくり流れているのを感じながら、陸は恐怖と戦った。
しかし男は残酷にもナイフの柄を握りなおすと、真っ直ぐに陸めがけて突進してきた。
避けようにも身体が強張って動くことが出来ない。冷や汗だけが尋常じゃない量噴き出していた。
――もう、駄目か。
諦めが良すぎる自分が嫌になったが、もう抵抗する手段は残されていなかった。
目を瞑る。次の瞬間には鈍い痛みが身体を貫く……はずだった。
銃声のような鋭い音が鼓膜を刺激した後、獣のように低い絶叫が聞こえた。自分の声かと思ったが、それは男のものらしかった。
恐る恐る目を開けると、サバイバルナイフは大量の血液と共に地面に転がっており、男は右腕を押さえながらその場に蹲っている。
極度の緊張から一旦解放されて、陸は大きく息を吐き出した。膝や手が小刻みに震えていたことにこの時ようやく気付いた。そのまま不可抗力でへなへなとその場に座り込む。
しかし今の銃声は何だったんだろうか。耳に感覚が残るほど辺りに反響した音は、まだ安心するなと陸に告げているように思えた。
「見ぃつけた」
まだあどけなさの残る声が頭上から降ってきた。声につられて上を見ると、ブロック塀に少女と思しき人物が一人立ち、男と陸を見下ろしていた。
暗がりで顔はよく見えなかったが、両の目が暗闇にぼんやりと紅く浮かび上がっている。血のように鮮やかなその紅に、陸は一瞬ゾッとした。
少女の右手には小さな拳銃が握られていて、それで男の右腕を撃ったらしかった。
「いちいち見つけるのに苦労させないで欲しいよね」
少女が軽やかに地面に降り立つとショートボブの髪の毛がひらりと揺れた。年齢は陸とさほど変わらないだろう。喪服のような真っ黒なスーツに身を包んだ少女は、雨など降っていないのに真紅の傘を携えている。
「最近は殺した人間を喰う趣味の悪い『残留思念』が出てきてるって聞いたけど、あんたもその類なの?」
少女は人を小馬鹿にするような口調で男に言った。
「五月蠅イ。オ前ライツモ、邪魔バカリスル。殺シテヤル」
男は不自然に曲がった口を更に歪めて歯を食いしばり、呪いの言葉でも吐いているかのような低い声で言った。しかし少女の背中からは恐怖や動揺が一切感じられない。
「随分滑稽なことを言うんだね。死ぬのはあんたの方なのにさ」
この状況で尚、少女は自信満々にそう言い放ってみせた。一瞬見えた口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「しっかし、えげつないことするんだねぇ。人を恐怖で支配してから殺そうなんて、性格歪んでるよ。まぁ、人のこと言えないけど」
少女は地面に転がるナイフに視線を落とした。
「オ前ラ、……同ジ、ダロ」
男は右腕を押さえたまま、掠れた声で言った。荒い息を無理矢理声に変換したみたいでよく聞き取れない。
「だから人のこと言えないって言ったじゃないか。それで、あんたが糧にしようとしてたのは一体どんな人な――」
少女はふざけた口調のままくるりと後ろを振り返ったが、今まさに殺されようとしていたのが陸だと分かると、一瞬で表情が凍りついた。冷酷な紅い目も今は大きく見開かれ戸惑いに揺れている。
かく言う陸も驚いていた。ぼんやりとした月明かりにうつし出されたその人は、通り魔事件で死んだはずのクラスメイト――樋野紗也羅だったのだ。
「……菅原?」
先程までとは全く異なる弱々しい声で紗也羅は呟いた。陸もそれに応えたかったのだが、喉が震えて上手く声が出なかった。
「……聞こえてるわけないか」
陸が何か言おうと奮闘していると、不意に紗也羅の顔が寂しげな微笑みを象った。胸の辺りがギューッとする感覚に襲われる。
背後で男が呻き声をあげながら立ち上がった。紗也羅は弾かれたように前を向く。
男が自由に動く左腕で野球帽を投げ捨てる。帽子は弧を描いて地面に落ちた。そうして露わになった目は充血し、左右非対称にギョロギョロと動いているのを陸は見た。
唐突に男の身体が震え始めた。暫くして背中がぱっくりと割れると、中から緑色の大きな手が出てきた。蛹から蝶が出てくる様子とよく似ていたが、中から出てくるのは不気味な化け物だ。全くもって綺麗ではない。
人間の皮を脱ぎ捨てた男は、どこか鰐を思わせる出で立ちだった。肌は緑色でごつごつとしており、青い大きな目がまっすぐ紗也羅を睨んでいる。鈍い光を放つ爪は日本刀みたいに鋭く長かった。
――何なんだ、これ。
今まで漫画か小説でしか読んだことのない異様な化け物がすぐ目の前に居て、しかも死んだはずのクラスメイトまでセットだ。陸の頭が混乱で悲鳴をあげるのにそう時間はかからなかった。
「相変わらずグロテスクだね」
怯える陸とは正反対に紗也羅はどこか楽しそうに言ってのけた。
紗也羅は銃をスーツのポケットにしまうと、持っていた真紅の傘を勢いよく開いた。
次の瞬間、今まで傘だった物が紗也羅の身長ほどある巨大な鎌に変わった。三日月形の刃が路地裏の少ない光でも輝いて見えた。
「死、ネ」
少し前まで男の姿をしていた化け物は蛙のように大きく跳躍すると、その鋭い爪を紗也羅めがけて振り翳した。
紗也羅は人間離れした動作でひらりとそれをかわすと、鎌で化け物の右腕を斜めに斬りつけた。大量の血が辺りに飛び散り、紗也羅はもろにそれを浴びた。
陸がいるすぐそばの壁にもベタベタと赤い染みが幾つも出来た。思わず吐き気を催したが口に手を当て何とかそれをこらえる。
右腕は肩から完全に分離して、帽子が投げ捨てられたすぐ近くに落ちた。
一回小さくバウンドした腕は、氷が溶けるようにじわっと液体に変わり、地面に吸い込まれていった。
「まったく……スーツ汚すとまた八神に怒られるのに」
紗也羅はスーツの袖部分をスカートで拭って面倒くさそうに呟いた。
右腕を失った化け物は痛みを紛らす為に再び獣の咆哮をあげた。しかしその声を聞きつけてやって来る人は誰一人いない。
「五月蠅いなぁ。ちょっと静かにしてくれないかな?」
紗也羅は大げさな動作で耳に指を突っ込んだ。
その様子を化け物は悔しそうに歯を食いしばって見ていたが、やがて意味深な笑みを浮かべた。陸の背筋に冷たいものが走った。
化け物が残された左手を胸の前で構える。
銀色の光が闇を駆け抜けた。危ないと叫ぼうとした時には既に遅かった。
肉を抉る音がした直後、血が綺麗な弧を描いて噴き出した。見ると紗也羅の右肩に鋭利な爪が深く刺さっている。
高笑いする化け物の手は、人差し指だけ極端に爪が短かったが、すると新しい爪がバキバキと音を立てながら生えてきた。肩を押さえながら振り返った紗也羅の視線の先で、男は下卑た笑みを浮かべて立っていた。
「ハハハ、イイ様ダ」
陸にはただ見ていることしか出来なかった。紗也羅が痛みで顔を歪めているのは容易に想像出来た。
男の笑い声を紗也羅の舌打ちの音が打ち消した。そして躊躇なく自らの肩に刺さった爪を引き抜いた。ボタボタと血が地面に落ちる。
「……ちょっと油断してたな。でも、お遊びは終わりだよ」
紗也羅の声は凛として澄んでいた。
戦況はよく分からないが、陸の生死は間違いなく紗也羅次第だ。今は自信に満ちたその言葉を信じるしかなかった。
化け物がまた爪を飛ばす。真っ直ぐに飛んできたそれを、紗也羅は鎌の刃で防いだ。金属の触れ合う甲高い音が響く。
すかさず紗也羅は男の左腕めがけて鎌を大きく振り上げた。しかし鎌は化け物の肩に届く前に止まってしまった。傷を負った右肩が引き攣ったのを陸は確かに見た。
その隙をついて化け物は大きく跳躍した。化け物を見失った紗也羅は右肩を押さえながら必死に辺りを見回している。
陸の背後のアスファルトが微かに揺れ、息を吐き出す小さな音が聞こえた。
「上だ!」
痰が絡んで上手く声が出なかったが、今度は間に合ったみたいだった。ほぼ同じタイミングで化け物が紗也羅に襲い掛かる。紗也羅はダンスを踊るかのような動作でくるりと振り向くと、化け物の左腕めがけて目にも止まらぬスピードで鎌を振り下ろした。
「どうする? 自慢の爪はもう使えないよ」
紗也羅が言った。宙に舞った左腕は地面に落ち、右腕と同じく液体化して吸い込まれていく。
両腕を失った化け物はバランスが取れずフラフラと空き地内を彷徨っている。最早紗也羅の問いかけにも応えられないらしかった。
「……終わりにしようか」
諦めたように紗也羅は呟いた。一度鎌を握りなおして、化け物の頸動脈から腰にかけてを一気に斬った。
紗也羅は距離をとるために後ろに一歩後退する。化け物は血をばら撒きながら倒れた。
次の瞬間、風船がしぼむように化け物の身体が縮み、元の男の姿に戻っっていく。
しかし斬られた両腕は無く、まさに虫の息といった状態だった。
「た……助けてくれ」
男は首だけを起こして紗也羅を見上げ、乞うように言った。その声はさきほどまでの獣のものではなく、気の弱い中年男性のものだった。
紗也羅は暫く男を見下ろしていたが、まるでそこに文章があるかのような淀みない口調で話しだした。
「……マツエタカシ。42歳。妻と、今年小学校に入学したばかりの幼い娘を持つ。しかし、生前は長年勤めた証券会社を解雇され、生活苦に陥っていた。死因は……若者による暴力と言えばいいのかな? まぁ、苦労もせずに金をたかるガキに殺されちゃたまらないよね」
紗也羅は大げさに肩をすくめた。男はここぞとばかりに必死で縋ろうとする。
「そうだろ! 俺はこんなところで死にたくないんだ! カオリは……娘は小学校に入学したばかりだ!まだまだ父親の存在が必要なんだよ! 妻も家計を支えるために昼夜問わず働いている。だから――」
「でも、残念だったね」
つまらなさそうな口調で、紗也羅は話を遮った。男の顔がみるみる絶望を象っていく。
「他の人間に協力してあげるほど、今のあたしはお人よしじゃないんだよね」
紗也羅は片腕で鎌を振り上げた。刃が鋭い輝きを放つ。
「お前にだって親がいるだろう、家族が居るだろう! その存在を知っているくせに、お前は俺を殺すのか? 他人には辛い思いをさせたまま、自分だけのうのうと生きようというのか!」
男は最後の抵抗とばかりに叫んだ。
「……あたしにだって、悲しませてしまっている家族が居る。もう一度その人達の笑顔を見る為に、あたしはあんたを殺すんだ。今は他人なんて構ってられない」
紗也羅は冷酷に言い放ち、今度こそ男の心臓めがけて鎌を振り下ろした。陸は反射的に目を閉じていた。
ギャァッと短い絶叫が聞こえたのを最後に、辺りを静寂が包んだ。恐る恐る目を開けると、男の姿も、飛び散った血もなく、鎌も普通の赤い傘に戻っていた。紗也羅だけがそこに変わらず立っていた。
暫くは呆然とそこに佇んでいた紗也羅だったが、不意にシャツの内側から何かを取り出した。よく見えないが、どうやらペンダントみたいだった。それを月明かりに翳して、紗也羅は小さく舌打ちをした。
「……まだまだじゃないか」
~♪
不意に、人気アイドルグループの新曲が聴こえた。
紗也羅はポケットを探り、赤いスライドケータイを取り出した。今の音楽は、携帯の着信音だったらしい。操作画面のライトで照らされた顔は、やはり樋野紗也羅その人だった。
――でも、あいつは1ヶ月前の通り魔事件で……。
紗也羅は携帯電話をスーツのポケットに収めると、今度は深い溜息を吐いた。
「……これだけやっても駄目なのか」
絞り出すようなか細い声で言った紗也羅の背中が小さく、そして恐怖に震えているように見えた。
「菅原」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、紗也羅が真っ直ぐにこちらを見ていた。ゾッとするほど紅かった目も、普通の黒目に戻っている。
陸は何を話していいのか分からず、紗也羅の視線を正面から受け止めていた。痺れを切らした紗也羅が震える唇を開いた。
「お前、まさか――」